第5話 将軍宣下と幕府の再興
「信長が会いに来ておりまする」と、細川藤孝が、義昭に伝えに来た。
「そうか、部屋に通せ」、やっと来たかというふうに膝を打ち、義昭は立ち上がった。
信長は、義昭の御座所として阿波へ逃散して空き家となっていた細川信良邸をあてがった。
屋敷には、義昭とともに上洛し参集してきた明智十兵衛光秀、和田惟政、細川藤英、藤孝兄弟、藤英の子弾正秋豪、一色藤長等などの幕府奉公衆が詰めていた。
「太刀と馬を献上しにまいりました」と、信長。
「近々、将軍宣旨がありましょう。銭一万疋も携えてまいりました。」
「なにからなにまで、すまぬこと」と、義昭は恐縮した。
この時、信長は35歳、義昭は三つ下の三十二歳である。
歳からみれば、兄弟のような存在であった。
(これから先、信長に頭が上がらないのではないか)と、信長の落ち着いたかをを見て、義昭は不安になった。
(しかし、どうあっても予は足利の跡継ぎであり、信長は一国の主。その主従関係を心得たうえで上洛の供奉をとったはず。世の方が地位が上であることは明らかである)、そう心の中で考えながら信長と対峙していた。
義昭は、帝から信長に与えられた宸翰を知らずに来ている。
当の信長も義昭と対峙しながら、まったく違うことを考えていた。
(世のなすべきことは何か。この男とともに歩むことか。歩めるのか。世のなすべきことは、この乱れた世を立て直すことではないか。世にできることは何か。帝とともに天下を静謐することではないか)と、信長は信長で、違うことを考えていた。
これには理由があった。
ひとつは、九月十四日に届いた宸翰であったが。
実は、その1年前にも義昭には話していなかったが、
信長は永禄十年十一月九日付の正親町天皇から綸旨を直接受けとっていたのである。
これがあったからこそ、信長は義昭を仰いで上洛を決意したともいえるものである。そこには、こう書かれてあった。
「今度国々属本意由、尤武勇之長上、天道之感応、古今無双之名将、弥可被乗勝之
条為勿論、就中、両国御料所且被出御目録之条、厳重被申付者、可為神妙旨、綸
命如此、悉之以状、
永禄十年十一月九日
織田尾張守殿 右中弁(花押)晴豊
(勸修寺豊) 」
(今度、国々本意に属するの由、尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、弥 いよいよ勝に乗ぜられるべきの条勿論たり、就中両国御両所は、御目録を出さるゝの条、厳重に 申し付けらるれば、神妙たるべきの旨綸命かくの如し、これを悉(つく)せ。以て状す)
この度、尾張・美濃を統一したことは、武勇の最も優れた人。これは天命と感動する。信長は古今無双の名将。いよいよ、勝ちに乗じることはもちろん。特に、両国の皇室の御両所の年貢を厳重に徴収すること神妙に信長に命じる。天皇の御命令はこのようである。
この綸旨を信長のところへ持参したのは、禁裏の諸経費を預かり、衣服や調度などを管理する禁裏御蔵職についていた立入宗継であった。宗継は、これ以外にも、武家伝奏万里小路惟房の福状と惟房に宛てた女房奉書を付けて信長に知らせた。
「今般隣国早速属御理運、諸人崇仰之由奇特、誠以漢家・本朝当代無弍之籌策、武運長久之基、併御幸名無隠候、就其被成 勅裁之上者、被存別忠、毎端御馳走肝要候、御両所等之儀且被出御目録候、仍此紅袗下進之候、表祝義計候、猶立入左京亮可申候、謹言
永禄十年十一月九日
織田尾張守殿 (花押)惟房
(万里小路惟房)
目録 御元服、御修理、御料所 以上 」
「宮の御かた(方=誠仁親王)御けんふく(元服)の夏、いそかれ(急がれ)かたゝおほし
め(思召)され候、おはり(尾張)の守(信長)、ちそう(馳走)候やう申しくたされ候
へ、せん(先)年たん正(弾正)の忠も、この御所の御夏、ちそうた(他)にことなる御
事にて候つる、あひかわらす、一かと申さた(沙汰)候やうに、御心得られ、おほせ
下され候へのよし、能々申入候、かしこ まてのこう寺大納言とのへ」
「若宮御方御元服之夏、被中沙汰候様、内々可申旨候、女房奉書如斯候、猶此者申
含候也、謹言
十一月九日
織田信長尾張守殿 惟 房」
そこには、隣国を早々に属させたことはとても強運であり、皆も崇拝している。奇特なことである。誠にこれまでにも無かったことであり、武運長久で幸名、天子が決められるので、忠に努め働くようにとのこと。夏に行いたい誠仁親王の元服、禁裏の修理、領地の徴税を進めることなどが信長に伝えられた。
一武将の讃辞を直接、天皇が伝えるという異例の事態であった。
その時、信長は、
「綸旨・女房奉書、殊紅衫被下候、則致頂戴、忝事不斜候、随而被仰出条々、先以意得奉存
候、旁従是可致言上候、恐惶敬白
永禄十年十二月五日
万里小路大納言惟房殿 信長(朱印) 」
(綸旨と女房奉書、紅衫を下され、頂戴いたしました。まことにかたじけないこと、まずもって並ではない事、仰せ出された誠仁親王の元服、禁裏の修理、領地の徴税の条々は、まずもって心得存じ候、これより致すべく言上候。謹んで申し上げます) と、すぐに返書を送っていた。
信長はこの綸旨の事を思い出しながら、目の前にいる将軍の顔をみて心の中は、とても高揚していた。
「義昭様、いよいよ幕府の再興。よきことでございますな。この信長、臣となり殿中にお送りいたしましょう」
「帝からすぐにでも、参内の知らせが参るであろう。そちも供奉するがよい」と、義昭。
(このうつけのわしが、まさか天子にまみえるとは、父上もおもってもいなかったであろう)と、畳の縁を追う信長。
(信長を従えて宮中に上がれば、おのずと臣下の座位は全てをあきらかにするであろう)、義昭は胸をなでおろしていた。
いずれにせよ、ふたりの心の内はすでにすれ違いつつあった。
十月六日、二人がいる芥川山城に朝廷から、惟房の子の参議万里小路輔房が使者として訪れ、
義昭に上洛目出度き事との正親町天皇の祝詞が届き、信長のもとには、酒肴十合十荷が遣わされた。
その時に輔房から禁裏の台所事情を聞いた信長は、十月八日に「禁裏御不弁之由」として、銭百貫を用脚した。
禁裏では、ようやく表れた次期将軍として義昭に宣下を行うことが稟議されていた。一方で、注目の的は、義昭ではなく信長であった。
「義昭の宣下は、どないであらしゃいますやろか」と、関白の近衛前久が口火を切った。
「そのことは、約束のとおり、上洛召されたのやから、征夷大将軍の次の者と致すことでよいのでは」と、万里小路惟房が相槌を打つ。
方々は、おのおのその通りでよいと云う風に扇をなびかせた。
「位は、すでに左馬頭に任じてあるので、征夷大将軍に当たって、参議、左近衛中将、従四位下というところかいな、それで十分殿上できる」と、近衛が言う。
だか、心の中では近衛は違うことを考えていた。
(義昭みたいなものはどうか。興福寺より逃げ出し、此度は信長とかいうよく解せぬものを引き連れて、上洛やと。許しがたいの。まだ義栄の方がよいのではないかいな)
実は、近衛前久は、永禄3年(1560)に関白の職にありながら、禁裏の立て直しを図れるのは力ある大名であると考えており、その最も頼れる大名として景虎、後の上杉謙信を頼ろうとして、みずから越後に下向し画策をしていたからである。
さらに、永禄8年(1565)5月の永禄の変で、従兄弟の義輝が三好三人衆に殺害されたとき、彼らが罪を逃れるため前久を頼り、正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認めていたこと、彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定したのも前久であり面目により、思わぬ伏兵として義昭と織田信長というふたりが上洛を果たし禁裏に近づいてきたことが気に障っていたのである。とはいえ、帝の前へそのようなそぶりは見せる訳にはいかなかった。
御簾越しにこれやあれやを聞いていた帝はやや甲高い声を発し、
「よい」と、一言。
「御意」と、一同。
「それよりも、信長や。あの男はどないしたものかと。織田とはもとは越前の剣神社の神官とか、尾張でも守護代の家臣とも聞く。それが、あれよ、あれよというままに、ちかごろ、えろう力を持って伸し上がってきよった。幕府守護の今川を誅し。土岐を誅し。ここまで上ってきたこと、誠に下々のもののいう通り、当代一の男ぶりではあるが。はてさて、そのようなものを認めるのか。この後、どのようになるかと思うと、心配でならぬわ。わらわたちに災いをもたらす輩になるとも限らぬ。先ごろお会った兼見もそのように申しておった」と、近衛は信長の事をわざと持ち出した。
「よいではあらっしゃいませぬか。禁裏の御料をしかと納めることが出来る者は、ほかにはおりませぬ。近習により宮中もまた安定をとりもどすことは、よいことではありますまいか。義昭を供奉して来てあらっしゃる。義昭の家臣として扱えばよかろうて」と、甘露寺元経がいう。
義昭の家臣としての信長の地位から見て、この先大きな問題とはならぬであろうということである。なによりも禁裏からすれば、日々の生活、御所の修理、親王の元服にと物入の時、いともたやすくそれを支えられるだけの御料を治めることが出来るのは、もはや信長だけであることを認めざるを得ないというところが、禁裏でも正直のところであった。
それを聞いていた帝は、
「一度、おうてみたい」と発せられた。
「弾正忠でござりますゆえ、かないませぬ」と、庭田重保が応える。
「では、そのものに、そこそこの位を授けよ」と帝が続けた。
「御意」と一同。
「尾張守がよかろう。従五位下ならば、皆もよかろう」と。
従五位下は殿上できる一番下の位である。縁の端に座し頭を上げることは許されないが、紫宸殿近くまでには行くことが出来る。それでも、官位はなかなか下されることはなかった。
そして、十月十八日、将軍宣下が行われた。
宣下を持った勅使庭田重保が、義昭邸に出向き将軍を下座にし、勅使が上座に付き宣下を読み上げて将軍職が伝えられた。
「左馬頭源朝臣義昭
左中辯藤原朝臣経元伝宣、権中納言藤原朝臣重保伝奉
勅件人宜為征夷大将軍者
永禄十一年十月十八日 主殿頭兼左大史小槻宿祢朝芳奉 」
これで義昭は、晴れて左馬頭義昭を征夷大将軍に宣下し、合わせて参議、左近衛中将に任じられ従四位下に叙せられ、以後、禁色の服装にて昇殿することを許されることとなった。
義昭は、ここに将軍職を継ぎ、傾きかけていた足利幕府を中興することに功をなしたのである。もちろん、その立役者が信長であることを忘れていたわけではない。
一方、信長は信長で、禁裏との約束事を、またひとつ果たそうとしていた。
彼はこの時、取り立てて大きな下心があって望んでいたわけではない。
純粋に、近年の天下の状況、禁裏の荒廃、威信の下落、地方権力の台頭と逸失、社寺の横暴など、多くの事に憂慮し、国の行方を危ぶんでいたというところが、最も大きな心配事であったからである。
それにはまず、禁裏の立て直しが必要と考え、その後ろ盾となることによって政治が安定することになればと考えていた。
すでに、義昭の将軍就任費用、誠仁親王の元服費用は実行した。
次いで、十月二十一日に、諸本所の雑掌に宛て「禁裏御両所役貢納の懈怠禁止令」を発布する。
「禁裏御料所諸役等之儀、如先規、被御当知行之旨、為御直務可被仰付之状如件
永禄十一年 十月廿一日
織田弾正忠 信長 朱印
諸本雑掌中 」
禁裏の御料所となっている洛中の籠輿丁座、鳥之座、紙宿座、箔屋座などの座や柴、紙、絹を扱う役に対する課税権を持つ禁裏が、税を集める貴族を廃して直接集めるので完納するように指示したものである。そのことが、信長の名で出された。
これは、ある意味、室町幕府の政治組織を無視した禁裏の行動であり、信長の力に洛中の統制を任せたということである。
二十二日、これを聞いた義昭は、自らの示威を示すため、職掌の出で立ちで、将軍宣下の返礼として宮中に参内し、太刀、馬等を献じて恩を謝した。帝からは、取次の万里小路を伝い、翌日、太刀を賜わった。
さらに、二十三日、信長への礼を忘れたわけではないことを示すため、幕府の慣例に従い、信長を御相伴衆待遇で呼び出し、陪膳の宴を催すこととした。
その知らせが信長のもとに届いた。
「細川殿から、将軍様が織田殿の労をねぎらいたいとのことで、細川殿の屋敷に参られよとの知らせを持ってまいりましてございます。伴に吉報を祝いたいとのこと、家臣ともどもお越しくだされとのことです」と、丹羽長秀が伝えた。
「予の事を忘れてはいないということか」と、信長。
「いかがいたしましょうか」
「よかろう、参内すると答え、皆の者にしたくするよう伝えよ」と、信長。
(面白くなってきたよの)と、髭を撫でた。
家臣たちを連れ、細川邸に参内した信長に対し、義昭は自ら出迎え信長に対する礼を見せた。
「よう参られた」
自ら座を外し、信長への感謝の気持ちを忘れてはいないとばかりに、座する信長の前に進み出ようとするしぐさを見せた義昭。
「かような、体はご無用に」と、信長。
この場では、単に各々の立場で必要な儀礼としての位置関係である。
さほどの意味はないはずであるが、なんとはなしに互いはぎごちなさが漂っていた。
「信長殿とその家臣による、今度の粉骨の働き、痛み入る」とあらためて労をねぎらう義昭。
「今日はゆるりとされるがよい。能楽を張ることにしたのでくつろぐがよい」と。
信長をもてなすため義昭は、先達の将軍たちをまねて、最大の饗宴として能を催すこととした。洛中でも随一の観世流左近大夫元尚を呼び寄せていた。
最大の讃辞として、御書立とし能演目十三番を用意していたが、信長はそれを見てうんざりとしていた。
「未だ隣国の静謐もなされぬなかで、弓矢を納めこれを祝うこと早々にござる」と、
そして、その場で十三番をさっと五番に書き換えた。
武士としての嗜みを心得た信長の所作である。
(浮足立っておる。義昭はすべてが終わったとでも思っておるのか。見えておらぬか、何も)と思いながらも饗す側の立場を鑑み、信長は静かに座に就いた。
三献のうちの初献の酌は、細川典厩藤賢が行った。
藤賢は、管領細川宗家の弟の家系で十三代義輝に仕えていたが義輝が殺害されて以降は、義昭を出迎え上洛し御相伴衆を務めている。
「さ、さ。ご一献」と、藤賢が、信長に酒を注ぐ。実のところ、信長はあまり、酒は得手ではない。
一番の演目は、古来より神が宿る木とされる常緑の松。その「高砂」と「住吉」が相います夫婦の「相生の松」の化身が悪霊を払いのけ、民の長寿を寿ぎ平穏な世を祝福するという語りの「高砂」が演じられた。
続いて、二献の酌は、大舘伊予守晴忠が行った。
「さ、さ。ご一献」と、伊予守。強される酒は猶の事、信長の好みではなかった。
これにあわせ用意をしていたとばかりに久我道堅、細川兵部太輔藤孝、和田伊賀守惟政の三人が、信長への官職を上奏した。
「信長様を副将軍に、また斯波家管領職に就かれられるべきとの仰せでこざりまする。重ねてお請けられるよう申し上げる」と奉じた。
斯波家といえば、幕府三管領の筆頭の家柄である。その家督を継ぐように命じたということは、信長を武衛に任じようとしたことになる。斯波家は、代々左兵衛督であり、尾張守護である。そういう意味においては織田家の主君筋であるので筋違いではない。
然りといえども、信長は畏れ多いとして、首を縦に振らなかった。
「御斟酌の旨、まことに恐悦至極であるが、そのような官職につくような家柄ではない。そのようにお伝え願い返上したい」と、信長は固辞した。
それを聞いた義昭は、信長の前へ、また自ら進みで出て酌を申し出でた。
「この盃を下す。鷹と腹巻も持ち帰る様に」と伝えた。
(予ひとのごときに上え下への騒ぎである。かようにこの信長を疑うておるのか。はたまた時勢が読めぬ浮かれ者か。いずれにしても足利氏はこれまでどおり公家の世に浸りっきりであるは。予は何をもってもこの幕府の臣などにはならねばならぬか。決して幕府をないがしろにする気はないが。そのような気があればとっくに義昭を誅しておるは。供奉して上洛などせぬ。物でつられるわしはない。銭などはあまりあるほど得ておる。帝の臣ならば別であるが義昭の供衆などに微塵の興味もない)
この座が次第に退屈になってきた信長は、目ざますために盃の酒を一気に開けた。
その姿を見て、信長の思いとは逆に座は、より活気づいていった。
二番の演目は大鼓、小鼓による「八嶋」である。「八嶋」は、僧が旅で源平古戦場屋島を訪れた時に出会った老漁師に一夜の宿を請うと合戦を語り始めるその老翁は義経の亡霊であった。義経を借り勇猛果敢な戦場の姿を語る物語である。
そして、三献目の酌になり、一色式部小輔藤長が酌をした。
三番の演目は、京を訪れた僧が雨宿りしていると式子内親王の亡霊である里女が現れ、ここは藤原定家の「時雨亭」であると伝え二人の愛憎の葛藤を教えそれを弔うように勧めるという「定家」の物語。
四番は、白拍子が道成寺の鐘供養に現れ、舞を披露して鐘に入り後、蛇となって現れるというかの有名な娘「道成寺」の物語である。
この時、義昭は、信長の鼓を所望したが、信長はこれも辞退した。
義昭はあらかじめ、信長が鼓の名手であることを聞き及んでおり、ここ一番にその知識を披露したのであるが、信長は浅はかな知恵を一払する。
五番は、ある臣が里を通りかかると機織りの呉羽、綾羽という二人の女性に出会い二人は織女伝説を語る。そして錦を織り御代の祝言舞を舞うという「呉羽」が演じられた。
これにて演目はすべて終わり、義昭は演者や信長の家臣たちに引出物を出し終宴としなった。
そして、天下の為として旅人往来の民を思い「予は分国中の関料をすべて免除する」と宣言した。
(やれやれ終わったか。五番でこれである。十三番などありえぬな。酒も合わぬ。味も合わぬ。何よりもこの場が合わぬ。京はほんに息が詰まるものだ。して、ぼちぼちと帰る美濃へ帰るとするか)
信長は、翌日の十五日。残してきた家族を思うふりをして思い立ったように岐阜へ帰ることを義昭に伝え暇乞をした。
義昭は、急な信長の岐阜への出立の申し出にさらなる不安を感じていたが、弱みを内外に見せるわけにはいかなかった。
信長へのつなぎ止めを行うため「御内書」という将軍からの正式な書状として形にし、その思いを伝えることにした。
「今度国々凶徒等、不歴日ヲ移時、悉令退治之条、武勇天下第一也、当家再興不可過之、弥
国家之安治偏憑入之外無他、尚藤孝・惟政可申也、
十月廿四日
御父織田弾正忠殿 御判(足利義昭)
御追加
今度依大忠、紋桐・引両筋遺候、可受武功之地から祝儀也。
十月廿四日
御父織田弾正忠殿 御判(足利義昭)」
「この度は、時を掛けず三好一党等を悉く退治したこと、その武勇は天下第一である。足利幕府再興できたこと、国家の治安がなった。細川藤孝と和田惟政に申し伝えた。追加として、この度の大忠に依り、桐紋・二引両紋を下賜する」とのことである。
これを受け取った信長は、「重畳書詞に尽し難し」と述べ受領した。その際、二引両紋のみを受け取った。実は、永禄四年に三好長慶と義長父子、また松永久秀など義輝将軍が同じように紋の下賜を行っている事例があり拝礼されている。
義昭にしてみれば、将軍に宣下されたからには、その身分差は衆目のとおりであり、御内書という形で称賛したことは破格の待遇であり、さらに桐紋・二引両紋の下賜だけにとどまらず。わずか三歳しか離れていない兄ともいうべき存在の信長を自らの父と呼び殿敬称としたことは心からの表れであるとの意思表示でもあった。
しかし、信長自身はそうは受け取らなかった。
(気に入らぬ。兄ならまだしも父とは大げさである。三好のことを鑑み同じ待遇で遇したつもりであろうが、退治した三好と同じに扱われるのも片腹痛い。ましてやそのようなことを成さずとも、予はすでに幕府を支え幕政のために尽力しているではないか。この信長に、名などはいらぬ。何かにつけ小賢しいやつであることよ)と。
信長は、そのことも含めて猶更京にとどまることに嫌気がさして、岐阜に帰ることに決めた。
ただ、自身のいない京に不安がないわけではなかった。
その京には、織田家家老筆頭の佐久間信盛、柴田勝家に次ぐ三番家老の丹羽長秀、老臣で信長の信の厚い村井貞勝、そして新進気鋭の木下秀吉が残された。
そして、京を後にした信長は、廿六日に守山まで下り、廿七日には柏原上菩提院で泊を取り、廿八日に岐阜に帰着した。
十一月、信長がいなくなった今日では、将軍となった義昭が将軍職を実感しつつあった。
各地の地域や社寺から、領地安堵を求める禁制を発給する申請があがった。義昭は、これぞ将軍の職務と、御相伴衆の抑制にも耳を貸さず、内書を連発したのである。
安堵場を求めた側は、信長が透けて見える幕府の再興を後ろ盾にすることにより、地域紛争からの庇護を考えていたにしかすぎず、その紙切れが大きな実効性があるとも思ってはいなかった。
そのようななか、禁裏も幕府を再興したといへど政局はまだゆれていた。
予てから、義昭も永禄の変の前久の行動から見て、兄義輝の横死には関白の前久が関与し、三好と手を組んでいたのではないかと疑っており、それを前の関白二条晴良とともに表ざたにし前久を朝廷から追放する画策を進めていた。
それを察知した前久はいち早く禁裏を出奔。十一月二十三日家を守るために子の信伊がすぐさま家督を継がせるように上申したが聞き入れられなかった。
「信長が岐阜に帰着されるのであらしゃいます」と、万里小路。
「義昭は義昭で、将軍職にうかれておじゃる」と、勸修寺。
「信長が京を離れたこと、何か意図があるのではないかと思わぬでもない。改めて兵をまとめ義昭に向けて攻め込むきではないか。兵も京に一部残しておるようだし。このまま、足利に信長の追討を命じてはどうか」と、近衛。
「そのような、お力は、足利にはもうおへんやろ」と万里小路。
「この好きに、ふたたびみたび、阿波から三好やらなにやら、洛中になだれ込んできたたら、ひとたまりもおへん。くわばらはくわばら」と勸修寺。
これらのやりとりを聞いていた、帝が発する。
「朕は、何から何やらを信長に任せたいと思をておる。そのように計へ」
「御意」と一同。
十二月十五日、若宮に親王の宣下が下される。
これは信長の尽力あってのことである。
だれよりも帝と親王はそのことを感じていた。禁裏はこの見返りに信長に菊桐紋を下賜した。信長は義昭の御内書を越えて晴れて朝廷臣下となった。
次第に禁裏に入り込む信長。その信長を擁護する帝。
前久は、都から出奔し妹婿である丹波赤井直正を頼り黒井城へ。その後、十六日に本願寺の顕如を頼り石山本願寺に匿われた。この時、顕如の長男教如を猶子としているように、反設信長勢力との結びつきを深めようとした。のちにこのことは大きな役割を生んでいく。そして、事情がよく呑み込めない正親町天皇は、反意を示した近衛を許すことができず、同日関白近衛前久を解任して前関白左大臣二条晴良を復任させた。まんまとことは義昭の手ぐすね通りに進んだのである。そして義昭は近衛第を壊させた。
さらに、それに同調しようとしていた幕府の御相伴衆で信長の三献の儀でも酌を務めた久我通堅が正親町天皇が寵愛する目々典侍(飛鳥井雅綱娘)との密通疑惑を取りただされ天皇の怒りをかった。そして解任されるという事件も起きた。
十八日、帝の意向に沿う臣は、柳原淳光が参議に、万里小路輔房が権中納言に任ぜられ昇進している。
そして、十九日に元服の儀式が執り行われた。
この日こそが、禁裏の復活の日であった。
信長は約束した三つのうちすでに二つの約束を果たした。
一つは誠仁親王の元服費用。いまひとつは、禁裏の御料所の復活。
残る一つは禁裏の修理であった。
正親町天皇はさらにもう一つの事を考えていたが、そのことはもう少し先の事となる。
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