第4話  信長、義昭を供奉し上洛す

岐阜立政寺を発った信長は、尾張・美濃・伊勢の軍勢を率いてそのまま関ケ原に入り、柏原を抜け醒ヶ井から番場に出てた。


そからさらに、摺張峠を越えて東山道鳥居本の宿に着き、八月七日には佐和山城に兵を押し出した。


佐和山城は、近江の北を支配する京極氏と、南を支配する六角氏との境目に当たる城として、両守護が常に奪い合いを続けている山城である。


この時この地域は、京極氏が衰退し、浅井氏が支配していたこともあり、浅井氏家臣の磯野員昌が城主を務めていた。浅井氏と姻戚関係にある信長は、ここで休息をとることにした。


佐和山城でしばらく逗留したのち、人馬を整えたふたたび上洛に向けて、近江への進行を進めた。


佐和山城から、さらに東山道を上り九月八日に高宮へと進めた。ここまでは。小競り合いもなく順調に進軍を続けていた。


これより先は、この地を支配する六角氏の力が大きく及んでいるところである。


「いよいよであるな」と、信長は皆に気を入れるように則した。


「まずは、ここに陣を引く」と、愛知川での野陣を決めた。そして、自らは馬に乗り、二、三の供を引き連れて周囲の様子を見てまわった。


全てを確認し終わった信長は、


「これより、六角承禎盾籠る観音寺山に向かう」と声を発し、佐久間右衛門信盛、丹羽五郎左衛門長秀、木下藤吉郎、浅井新八と美濃衆等に申し付け、まず一万の兵で先鋒を務めるように申し伝えた。


そして、十一日、観音寺山の麓にある箕作山の攻撃を開始した。


箕作山は赤神山とも呼ばれる八日市の北西にそびえる標高三百五十メートルの山頂にある。このあたりは、修験道の行場でもあり、ごつごつした巨石が至る所にあり、人を寄せ付けない天然の要害となっている。郭はその山頂の尾根を堀切により切断し連結させるように築かれていた。


六角側の守勢は、建部現源八郎秀明、吉田出雲守、狛修理亮等、三千である。


ここを抑えれば、湖東平野は一望でき、観音寺山は目と鼻の先となることを信長は理解していた。


本城観音寺山と、それに次ぐ和田山は押さえの兵に任せ、信長自ら本軍を率いて合わせて六千の兵で攻略することにした。


翌十二日には、戦いの火蓋は切って落とされ、徒武者たちは、言われるがまま馬蹄形をした山の北側斜面を一気に駆け上がり、連結した郭を横から攻め落とすという戦法で城攻めが進められた。


この中に、後に豊臣姓を賜り政権を取った秀吉がいた。秀吉は天文六年生まれ。この時三十一歳である。


はじめは、今川氏家臣松下綱之に小物として仕えていたが。そののち出奔し、使えるのであれば信長と心に決め、何とか目にとめらるれようにと、あの手この手を駆使して、信長配下のものに取り入ったり、一目でも目に留まる様にと信長の周囲に出没していた。


そのような介があってか、なかってか天文二十三年、十七歳のころから信長の小物として使えるようになっていた。


その後も、清洲の普請奉行や台所奉行などを進んで務め、信長に少しは取り立てられるようになっていたところであった。


永禄七年の美濃攻めでは、松倉城主坪内利定と鵜沼城主大沢次郎衛門を調略で落とすなど早くもその才覚をのぞかせていた。


永禄八年八月、ねねと婚姻。このころ、木下藤吉郎秀吉と名乗りを変え、永禄九年、墨俣一夜城を成し遂げ、岐阜城攻めの功により、蜂須賀正勝、前野長康を、さらに永禄十年の美濃攻めで竹中重治、牧村利貞、丸毛兼利といった者を自らの配下とすることを許されれ、一角の武将として歩き始めていたところであった。


(えれー、人使いがありゃーは)

 と、秀吉は箕作山の斜面を登りながら、ひとりぼやいていた。


(あちゃーいけの。こちゃーいけのと、きっうーい…お方じゃ。ま、このおひとと見込んだからには、どこまでもこの藤吉郎はついていくがなあ。


学のにゃーわしのとりえは、ホイホイと尻の軽いところだけだとわかっておられるからの)と、遠くから聞こえる信長の声を聞きながら、ぼやいていた。


「ほれ、藤吉郎 ! 進まぬか。登れ―。猿 ! 予の前でたわけているだけがそちのしごとでないぞ !」と、信長の誠に大きな声が遠くから響く。


「あやつは、面白いやつだ。運がどこまでついてくるかはわからぬがな。そのうち矢でもあたって、すっころぴながらも、なんとか我を笑わそうと、何かを企みながら、息絶えるのではないかと思っておる。楽しみじやの。ひっくりかえった藤吉郎を見たいものだ。どんどん進め、前に進め !」と、信長は、横に控える丹羽に顔を向けにんまりした。


そうこうしているうちに、佐久間、丹羽、木下、美濃三人衆、稲葉伊与、氏家ト全、安藤伊賀等の活躍により、戦い夜半には決着し、箕作山は陥落した。


信長は山頂に登り、まだきな臭い郭に陣を構えた。


そのままの勢いをかりて、今度は真向かいにある観音寺山に攻めてを向けることにし、


箕作山からおりて、向かいの山に登るように指示した。


再び兵たちは、今度は山を駆け下り、観音度山の山頂にある本丸を目指して、谷筋を登ることになった。


しかし、観音城山攻めは、箕作山の様に簡単にはいかなかった。


守護六角氏はそもそも、直臣は少なく在地の土豪たちと被官契約を結ぶという形で主従関係を作っている。いわば契約社員たちである。


彼らは普段は、在地にそれぞれの城を構え地域支配を行っていた。何か事件が起こった時のみ、本城の守備のために、兵を集め各々の持ち場に入るかとになる。


山の斜面にはそのための郭が魚の鱗のように累々と重なっていた。山頂の本丸はその扇の要の位置にあたる。


この斜面を登りながら、敵を一つずつ攻め落としていくのは至難な戦いであった。


(こりゃ。むつかしいのー)と、藤吉郎も根を上げていた。


六角承禎は、この情景を山頂の本丸から眺めていた。久しく合戦はしたことがなかったこともあり、籠城しながら彼は思案していた。


このまま、討ち死にを覚悟して、信長と一戦交えるか。どうか。

守護というものにまったく力も、興味も感じなくなっていた承禎は、人質を差し出して城を出ることで決着を図ろうとしていた。


鎌倉時代いらいの名家六角氏の事実上の滅亡であった。


十三日、信長は観音寺山で大きな損害をだすこと無く、城を手中におさめた。

この時点で近江が信長によりほぼ平定されることとなった。


信長は、この様子をすぐさま立政寺にいる義昭に報告した。


「すぐにお渡しした装束にお着換への上ご上洛成されるように」と。

その知らせは、十四日に義昭のもとに届いた。


「そうであるか、そうであるかと」と、喜びを満面に表した義昭は、そっそく、支度をするように光秀に伝え上洛の準備に入った。


(信長という男、恐ろしき者)と、あらためて感じ、この先行きを案じるのは取り越し苦労かどうか光秀は思いを巡らした。


そのころ、信長のもとには一通の手紙が届いていた。

甘露寺経元伝奏として、驚くべきことに正親町天皇から綸旨が届いたのである。


内容は次のとおりであった。


「入洛之由既達叡聞、就其京都之儀、諸勢無乱逆之様可被加下知、於禁中陣下者、可令召進警固之旨、依天気執達如件、


永禄十一年九月十四日            左中弁経元 甘露寺 

 織田弾正忠殿殿                          」


(入洛の由既に叡聞に達す、其に就きて、京都の義、諸勢乱逆なきの様に下知を加えられるべし、禁中陣下に於いては、警固を召し進らしむべきの旨、天気に依って執達の如し、)


内容は、「信長が、入洛することを天皇がお知りになった、それで京都の事である。兵が乱暴を働かないように命令してほしい。入洛後は皇居の周りの警固行うように、以上が天皇の御意向であるとのことであった」


それを読んだ信長は、思わず力が入った。義昭にではなく、信長個人宛てに天皇の宸翰が届いたのである。それは自らが天子の臣であることを自覚するものであった。


宮中では、九月廿一日から三日間。内侍所で「天下の御きたうとて。御はいにならしまし候」と、天下静謐を願う祈祷が続けられていた。


(時が動く屋にも知れない。朕を助くる者は、見知らね臣か。信長とやらに、おうてみたい)と、帝は思っていた。


そうとは知らぬ義昭は、身支度の整え、九月二十一日に御馬進めされ、柏原上菩提院に着座なされた。そして、翌二十二日に、観音寺山にある桑実寺へ御成りなされる。


桑実寺は、その昔、天智天皇の四女阿〇皇女の病気平癒祈願のために勅願で建てられた寺である。日本で最初に養蚕が行われらた寺として有名である。


天文元年、足利十二代将軍義晴が一時期荒廃する京から逃れ幕府を移したことがあることから義昭はここに御成りすることにしたのである。


信長は、義昭の到着と入れ替わりに、観音寺山を発ち、野洲郡守山を経て、栗田郡志那街道を通り、志那湊から船に乗り勢多を経由して、勢多川を二十六日に渡海した。


その足で、三井寺極楽院に宿をとり、軍勢には、大津馬場、松本に陣を敷かせた。

そのあとを追うように、義昭も桑実寺を発ち同じように渡海して三井寺光常院に座した。


信長は、さらにその先を行き、二十八日に東福寺へと陣を移す。


柴田日向守、蜂屋兵庫頭、森三左衛門、坂井右近等に先陣を任せたが、そのまま洛中には入れず、桂川を越えさせ、岩成主税頭が盾籠もる立正寺に乗り込ませた。

すると、瞬く間に五十騎ほど打ち取った。


東福寺にいた信長に、その報告はすぐに届けられた。

義昭は、それを聞き安心して、同日、清水寺に座を移し、二十九日に二年坂を下り青龍寺に入った。


信長は、東福寺からさらに三十日に、山崎まで出てそこに陣を構え、三好日向守が盾籠る芥川山城へと兵を進めこれを降ろした。


これにて、五畿内隣国に下知を下し、信長による畿内の平定を知らしめた。


これを聞いた松永弾正久秀は我朝無双といわれる茶入れ「つくもかみ」を進上し大和の入魂を示した。また、堺からは今井宗久が「松島の壺」、「紹鷗の那須」を信長へ御礼として献上し、その忠誠を誓った。


其の後、芥川山に逗留した後、ゆるゆると、兵を連れ洛中に入れた。


そして、兵には禁中幷市中の警固をしっかりと務めるように、また、乱暴狼藉を働くものは打ち首にする旨を発した。宸翰に沿うようにと命令した。


いずれにしても、洛中の敵は悉く退散しどこにもいなかった。

信長の時代がやってきた。


天皇は、九月廿一日、宮中の内侍所で「天下の御きたうとて。御はいにならしまし候。けふより三日」、天下静謐を願い祈祷した。


それより後の九月三十日、義昭より先の二月八日に一足早く将軍宣下を受けていた義永であったが、三好一族の失脚したことにより後ろ盾を失い、彼は宣下のための金が払えなかった。そして、失意のうちに摂津富田で上洛することができないまま病死した。


義昭にとっての将軍職はわずかな差の出来事であった。

将軍職を得られたのは信長の力であることに疑いがなかった。

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