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「旦那様、手を出してください。」

「手……?」


思わず利き手の右手を庇う。


手?手をどうするつもりだろう。


「こちらに。」


お兄さんが左手の掌をこちらに差し出す。

この上に手を乗せろということだろう。

彼の強い視線と、自分の中の強い好奇心が恐怖心と理性を打ち負かし、僕の左手を動かした。

彼の手に乗せた手は微かに震えていたと思う。

お兄さんは僕の震える手の甲を親指で優しく撫でた。


「大丈夫ですよ、すぐに終わります。」

「何が終わるの。」

「言葉で話すよりも、見ていただく方が早いでしょう。……輝月はあっちにいっていなさい。」

「嫌だ。兎於菟が心配だもん。」

「輝月。大丈夫だ、すぐに終わる。私のことを信じられないか?」

「し、んじてるけど。やっぱり怖いよ。」

「輝月さん。大丈夫だよ。お兄さんもこう言ってるし、きっとすぐ終わるだろうから。」

「本当に大丈夫?」

「大丈夫。」


僕は彼女を安心させるように口元に笑みを浮かべる努力をした。

本心では何をされるのか全くわからず不安がモヤモヤと渦巻いているけれど、何かされる俺よりも彼女の方が不安定で所在無げに見えた。

意地を張っている訳ではないけれど、女の子を不安にさせるのは好きじゃない。


「わかった。何かあったらすぐに大声で叫んでよ。」


彼女はそう言うと渋々居間から出ていった。

彼女の軽い足音が聞こえなくなった時、お兄さんが軽く息を吐いた。


「輝月はきっと、止めに入りますから。そうするとますます危険なんです。」


今からされる何かがかなり危険な行為なんだと言うことが今確認出来た。


「では、始めます。大丈夫です。すぐに終わります。」


多少、荒っぽくはなりますが。


そういうと彼は、左手に持っていたコインを僕の左手の甲に押し付けた。


まるでドライアイスを押しつけられたような冷たい熱さが皮膚を刺し、そのあとは文字通り皮膚がふつふつと燃え上がった。

そこからはとてもじゃないけれど目視していられなくて、あまりの苦しさに目を閉じた。


目の奥がチカチカと点滅し、呼吸が浅くなる。

刃物で何度も皮膚を貫かれるような痛みと、その傷跡を焼き小手で痛ぶられるような感覚。


実際に皮膚や肉が焼ける匂いが鼻を掠めた。


声が出そうになったが、それを必死で押しとどめる。

手を振り解こうとしても、お兄さんが、鬱血跡ができるんじゃないかと思うぐらいの強い力で僕の手を押さえ込んでいて、びくともしない。

苦しくて、無意識に涙がこぼれる。

額には脂汗が浮かんでいた。


行き場のない右手は痛みから逃れたい一心か、縋るようにお兄さんの左腕を掴んでいた。


本当に手が溶けてなくなったと思った瞬間。

拘束が緩くなり、冷たい熱さは遠のいた。

時間にして十秒もなかっただろう。

けれど、皮膚を黒焦げにするには十分すぎる時間だったはずだ。


「旦那様、申し訳ございません。」


先までの彼の非情な左手は、打って変わって僕の手を宝物のように持ち上げた。

まだジクジクと痛みが疼く場所を右手で包み込む。

傷口に触られれば痛いはずなのに、不思議と痛みは感じなかった。

ただ、痛みの原因が遠のいた安心感と、人の体温が僕の精神を安定させた。

顔には涙のあとが走り、乾いてひりついている。


ふとみると、彼の足元には先ほどのコインが落ちていた。

コインは天井のぼやけた光を受けて鈍く輝いている。

ただ、ところどころ皮膚のかけらのようなものがこびりついていて、先ほどの痛みが幻想でなかったことがわかった。


「手、見てもいい?」


まだ呼吸が浅い。


意識して息を吸わないと、そのまま畳に崩れ落ちそうだ。


「ええ、どうぞ。ご覧ください。」


昔何かでみた白黒映画の一場面が頭を横切る。


取っ組み合う男女、男性は女性を机の上に押し付け真っ赤に燃える焼きごてを手にする。

いや、色はわからなかった。

白黒の古い映画なんだから。

でもその時、僕はその焼きごての赤い色を確かに見た。


女性の顔は見えない。ただ抵抗するように震える白い腕だけが見える。

焼きごてから出る白い煙が、恐怖と好奇心、体に消えない刻印をいれるという支配欲を煽る。

なんて美しいシーンなんだと思った。


僕の左手には、両手に剣と槍のようなものを持った人のようなものとその周囲をぐるりと囲った英語のような文字、そしてその文字の上を互いに首を繋がれた鳥が描かれている奇妙な絵の形の火傷がついていた。


皮膚は膨れ上がり爛れて、黒ずんでいる。

見た目はすごく痛そうで、皮膚の移植でも受けなければ二度と元の肌には戻りそうにはない。

けれど、不思議なことに、この刻印を見るころにはもう痛みはほとんど感じていなかった。

先ほどの痛みが他人の出来事であったかのように、俯瞰してこの惨状を目にしている自分がいる。


「何この模様?」

「昔作られた吸血鬼を避けるためのお守りです。」

「それが僕に効いたってこと?」

「多少それもありますが。それよりも、このコインが銀でできているというのがポイントです。」


彼がコインを拾い上げる。

コインについていた皮膚はいつの間にか砂のようなものに変わり、さらさらと風に流されていった。


「銀はあなた様の唯一の弱点と言えます。他の人間は銀に触れただけで火傷なんてしません。」


僕はそのコインに思わず手を伸ばしたけれど、お兄さんがサッとコインを掌の中に隠した。


「危ないので、触ってはいけません。」

「さっき散々押し付けたくせに。」

「もうあんな思いはしたくないでしょう?」


確かに。痛いどころの話じゃなかった。

この頚椎カラーが悲しく見えるくらいの大怪我を今僕は左手に負っている。


「ところで、これって治るの?」

「旦那様の今の状態ですと、おそらく三日もあれば元通りに。普通の人間は、このような傷が自然治癒するなんてことはありません。まずは、それでご自分のことを認識していただければと思っております。」


確かにこんな傷が三日で綺麗に治ったら人外と言われても否定出来ない。

でも、明日はとりあえず包帯でも巻いて学校に行かないと、赤羽が今度こそお兄さんを本気で殴りつけるだろう。


「お兄さんの掌見せてもらってもいい?」

「構いませんが……。」


彼がコインを持っていた方の手を開く。

あのコインを持っていたのに、彼の手はなんの傷もついていない。

綺麗な手だ。


「やっぱりあのコイン、もう一回ちょっとだけ触っていい?」

「旦那様……。」

「ちょっとだけだから!」


彼が渋々といった感じでコインを持つ方の掌を差し出す。


見た目はやはりただのコインだ。

光り方が鈍く、あまり手入れされていない昔のコイン。

変な絵柄以外は、博物館に置いていそうな感じだ。

その端っこを、先ほど怪我をした方とは逆の右手で突いてみる。

もしかしたら、右手か左手かで何か違いがあるかもしれないし。


けれど、僕のその浅はかな思考は所詮素人の馬鹿な考えだった。

コインを突いた人差し指はもれなく火傷し、少ししか触っていないにも関わらず表皮が焼けて無くなった。


「はい、これで懲りたでしょう。あまりやりすぎると、私が妹に叱られます。」

「ごめんなさい。ありがとう……。」

「救急セットはありますか?」

「あの、キッチンの下に入ってます。」


「お待ちください。」と言うと、彼はキッチンの方へ行ってしまった。

放っておいても治るなら、このままでも問題ないのに。


僕は改めて焼け爛れた左手の甲と焼けて皮のない右手の人差し指を見た。

なんて奇妙な体を持ったものなんだろう。

今まで十六年間この体で生きてきたのに全く気が付かなかった。

軽度の金属アレルギーかと思っていたが、うっかり命を落としていた可能性だってあったのだ。


自分が他の人とは違うと言うことを、この時の僕は少しづつ受け入れ始めていた。


だって、仕方ないじゃないか。

こんなものを見せたれたら、自分の異常さが嫌でも際立つ。

まぁ、彼もそれを狙っていたんだろうけど。

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