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居間ではなぜかコーラのボトルを挟んで赤羽とお兄さんが睨み合っていた。
ペットボトルを取り合う男たちの真ん中で、輝月さんがお茶のペットボトルのラベルを読んでいる。
暇だったんだろうな……。
「あ、兎於菟!輝月、炭酸飲めないの。お茶もらっていい?」
「どうぞ、全部飲んじゃって大丈夫ですから。赤羽も、お兄さんもコーラそんなに飲みたいならまだもう一本あるけど。」
「そういう問題じゃない。これは俺とこいつの問題だから。」
「お気遣いなく。」
二人は取り合いしていたペットボトルをちゃぶ台の中央にゆっくり置いた。
なんだかよくわからないけれど、また喧嘩し出す前にとりあえず人数分注いでしまおう。
コーラを注いでから、大小バラバラのお皿を配り、それぞれの上にピーナツ煎餅を一枚づつ乗せる。
配っている間に輝月さんのお腹が鳴き出したので、彼女のお皿にはもう一枚煎餅を追加した。
「はい、準備できた。それじゃあ、話し合いしますか。」
全員の顔をぐるりと見る。
全員の視線もまた、僕自身に集まっていた。
「まずは、僕から。二人にお礼言わせてください。今朝は助けてくれて、ありがとうございました。」
二人に向かって深く頭を下げる。
「二人が助けてくれなかったら、僕は今日の朝死んでいました。それに、輝月さん。怪我がなくて本当によかったです。僕なんかを庇って、君が大怪我していたらどうしようかとずっと心配だったんだ。」
輝月さんが咥えていたピーナツ煎餅を皿の上に落とした。
カツンと音が鳴り、煎餅のかけらがちゃぶ台に散る。
「兎於菟ぉー!!」
ちゃぶ台に影が跳ね、驚いた時には、後頭部はすでに畳の上にあった。
「嬉しい!兎於菟、私も大好きだよ!」
「あ、りがとうございます?」
大好きなんて言っただろうか?
輝月さんの体と連動して、僕の体もゆらゆら揺れる。
天井にかかっている昭和の時代に取り残されたようなペンダントライトの光もおなじようにグラグラしている。
「いい加減にしなさい、輝月。旦那様は怪我をされてるんだ。」
悪戯した子猫を叱るように、輝月さんの首根っこを掴んでお兄さんが僕から輝月さんを引き剥がした。
引き剥がされた彼女は不満そうにして、こちらに手を伸ばしている。
「離してよぉ。」
「わかったら、大人しくしていろ。」
そういってお兄さんが手を離すと、輝月さんは抱きついてはこないものの、ピッタリと僕の横に陣取った。
自分の分の皿を引き寄せて、残りのピーナツ煎餅を上機嫌に齧っている。
「お礼を何か形にしたいんだけど、何かありませんか?困っていることとか、僕にできることならなんでもしたいんです。お金はあんまり持ってないけど……。」
「当然のことをしたまでです。それにお怪我を負わせてしまいました。」
「いや、そんな。怪我って言うほどひどいものじゃないので。見た目が大袈裟なだけで。」
「あ、じゃあ。さっきのがいいな。」
「さっきの?」
輝月さんが手についた煎餅の粉を皿の上に払う。
皿の上に乗せられていた二枚の煎餅はもう欠けらしか残っていなかった。
「お兄ちゃんと私、ここに住んでもいい?」
「三人でここに住む?」
聞き返しているのが僕。
「だめに決まってる。」
頭を抱えているのが赤羽。
「どうかお願いします。」
礼儀正しく、頭を下げているのがお兄さん。
「ええと、家がないとか?」
僕は、僕が持てる限りの創造力を持って答えを探してみた。
この二人の兄妹は孤児で、なんらかの理由で家か施設から出て行かなくてはいけなくなった。
でもお金がなく、住む場所がない。
頼るツテや血縁関係もない。
だから、新しい住居が見つかるまでのしばらくの間、家に居候させて欲しい。
そういうことだろうか。
「別に良いですよ。」
「良くないだろう?!」
「やったー!兎於菟、太っ腹!」
輝月さんが両手を上げて、お兄さんが頭をもう一度深く下げる。
「え、なんでダメなの?ボロ家だから?」
「そういう問題じゃない。今日知り合ったばかりの人間をといきなり一緒に住むなんて、普通に考えてあり得ないだろう!」
「でも、家がないのはかわいそうじゃないか?それに命の恩人だし。」
赤羽はため息をつくと、俺の両肩をしっかりと掴んで僕の目と同じ位置に彼の目の位置を合わせた。
こういう親子をスーパーのお菓子売り場とかおもちゃ売り場で良く見る。
「お前はいいやつだ、来栖。それは否定しない。でも、今回のはダメだ。聞き分けなさい。」
「でも……。」
「おい、旦那様から離れろ。」
「なぁ。君、その「旦那様」ってなんだ?ずっと気になっていたんだけど。」
赤羽が両肩に置いていた手に力をいれ、僕の体を自分側に引き寄せる。
輝月さんがそれに気がついて、少し不満そうだ。
「お前には関係無い。」
「多少は関係あるだろう。俺のスマホをダメにした分くらいは。」
「話すことは何も無い。お前がいなくなってから、旦那様にご説明する。」
いつも周りを安心させる彼のオーラは、今に限っては良く手入れがされたナイフのように鋭かった。
相手との間合いを図り、好きを見せたら飛び込もうとウズウズしているのがわかる。
「説明しろ。今朝のことと言い、さっきのことと言い、君達は誰なんだ?どうして来栖のことを色々知っている。」
「……。」
お兄さんがこちらをチラリと見る。
眉間には微かに皺が寄っている。
落ち着きなく人差し指から小指へ、何度も手を握り直していた。かわいそうに、彼は不器用な子だからみんなのことを考えて思案しすぎてしまうんだ。
何度も入れ替わる思考の流れが、指の動きに連動するように忙しくなっていく。
「お兄さん、落ち着いて。いろんなことを考えなくていいよ。」
彼の頭の中の混乱を鎮めるために、ゆっくりと声をかける。
赤羽が掴んでいる肩を退けて、お兄さんの近くに座った。
僕よりも背の高いはずの彼が僕を見る目は、まるで子供が大人を見上げるような純真さがあった。
僕は彼に答えるために、爪の跡がついてしまっただろう拳の上から手を重ねる。
「みんなのこと、今は考えなくていい。ゆっくり話して。」
赤羽を見る。
彼は頷いた。
「全部知りたいわけじゃない。納得したいだけだ。」
沈黙が落ちる。
ただ、目線や思考、緊張感。
お互いへの牽制が小さな箱に無理やり詰め込まれているこの空間では、この沈黙はむしろうるさすぎる。
お兄さんが固い目線を外し、軽く息をついた。
僕の掌の下にあった拳は、今は緩く解けている。
「これからお話することは、こいつの命に関わるかもしれません。こいつが死んでも、私は構いませんが、旦那様が悲しむなら、やはり話すことはできません。」
ここが境界線だということだろう。
命に関わるなんて言われて、さすがにどきりとした。
先まで、恩返しのために家がない兄妹としばらく住まいを共にするくらいのことしか考えていなかったのに。
と、いう言い訳は流石に成り立たないだろう。
ここまで色々なきな臭いことがありすぎたら、流石の僕でも何かあるとわかる。
でも、それは今は開けなくてもいい箱だと思った。
来るべきときがくるまで、自然と封が剥がれ落ちるまで。
「赤羽が死ぬのはいやかなぁ。」
「では、お話は出来ません。」
「俺は簡単に死なない。」
「人間はすぐに死ぬ。」
そうだ、人間はすぐに死ぬ。
その魂を覆う器は、彼らが信じているよりもあまりにも脆い。
「死んだら、元には戻せません。」
「死ぬ前なら、元に戻せそうな言い方だな。」
お兄さんはそれきり口をつむり、目を閉じた。
ボールは完全にこちらに手渡されたわけだ。
この後、どういう決断を下しても、彼はそれを受け入れてくれるだろう。
「赤羽、よく聞いてね。」
「ああ。」
「俺は赤羽と松田が好きだよ。二人のおかげで毎日楽しい。俺の覚えている中で、去年は最高に楽しい年だった。」
赤羽が顔を伏せる、指先を額に当てて僕が言う言葉にどう返すべきか考えている。
「だから、怖いよ。もし本当にお兄さんの言う通りになる確率が少しでもあるなら。
俺は赤羽を危ないことに巻き込みたくない。だから、今日はお開きにしよう。」
「俺は、来栖が好きだよ。」
僕は微笑む。
好意を示す言葉はいつだって嬉しい。
「来栖は、松田より俺の方が好きか?」
つい数時間前にも言われたことだ。
日常の延長線上にぽんと落ちてきたただのじゃれあいの一つだったのに。
今この質問から夕日の鮮やかなオレンジ色も夜の始まりを感じさせる風の冷たさも、何も感じられなくなってしまった。
その代わり、古ボケた電球の下に隠れた蜘蛛の巣のように、見えにくくて壊れやすい繊細さだけがまとわりつく。
「俺は、二人が大好きだよ。」
「……そうか。」
いつもと変わらない声だった。
赤羽はもう一度「そうか。」と言うと、自分の荷物を持って立ち上がった。
「じゃあ、俺は失礼するよ。」
「それがいい。」
「バイバイ、アカバネくん。また明日ね!」
輝月さんが、赤羽に手を振る。
彼女は今までのやり取りにはあまり興味はなかったらしい。
ただ少し眠いのか、目元が緩んで何度も瞬きしている。
赤羽は輝月さんに軽く手を降ると、その手でお兄さんを指差した。
「お前にはしっかりスマホを弁償してもらうからな。」
「いつでもしてやる。さっさと帰れ。」
「玄関まで送ってくよ。」
「ありがとう。」
「あ、輝月もいく。」
「お前は残ってなさい。」
僕は二人に軽く頭を下げて、赤羽を玄関まで送っていった。
別に何も変わらない。
彼が家に来た時と、帰る時と。
手を伸ばせば彼の手がそこにあり、話しかければ返してくれる。
なのに、どうして息が詰まるのか。
彼を信頼出来なかった自分の負い目か、それとも感じ取れない彼の気持ちか。
わからないけれど、この数時間が確かに何かを変えようとしている。
「忘れ物ない?まぁ、あっても明日学校に持って行くから。」
「ああ、ないと思うけど。その時はよろしく。じゃあ、また明日。」
「また明日。」
そういって、古い玄関の引き戸を開けて振り返らずに、後ろ手で扉を閉めた。
曇りガラスの向こうの黒い影がどんどん小さくなっていく。
もう夜だから、鍵を閉めておかないと。
つっかけを履いて、引き戸の方に近づくとガチャンと大きな音がして、引き戸が開いた。
けれど、勢いが良すぎたのか十センチくらい開いたところで突っかかってしまっている。
「あ、クソ。全然開かない。」
「赤羽……。」
「ごめん、壊したかも。」
「いや、大丈夫。忘れ物?」
「違う。とりあえず、これは言っておきたくて戻ってきた。言わないと多分勘違いするだろうから。」
玄関越しに、彼の輪郭の欠けた顔が見える。
あたりはもうすっかり暗くなっていた。
赤羽はなんとか開いている隙間から手を出してきて、僕の手を力強く掴んだ。
「いいか、俺が今回引き下がったのは、お前を諦めたからじゃない!お前が強情で、一度決めたらこうって言って聞かないって知ってるからだ!それに、松田と俺のことを大事な友達だと思ってくれてるのをちゃんとわかってるから、お前の考えを優先したまでだ。断じてあの変な男と輝月さんに遠慮したわけでもないし、何より来栖を嫌いになったわけじゃない!一ミリだって嫌いじゃない!それを、勘違いされたくなくて戻ってきた。来栖は無頓着なくせに、なんていうか、人に対して諦めやすいところがあるから。」
一気に捲し立てたからか、顔が蒸気してほんのり赤くなっている。
しゃべっている間に熱が入りすぎたのか、僕の手を握る手が痛い。
でも、その痛みが今は嬉しかった。
「一方的に、ごめん。でも、そういうことだから。」
彼が手を離す。今度はその手を僕が掴んだ。
「ありがとう。本当に、赤羽は俺のことよく見てるね。ありがとう……。」
掴んだ手の震えが指先から伝わってくる。
「今なら、少しだけ松田よりも君のことが好きだよ。」
パチン、パチン、と玄関の蛍光灯が鳴る。
光に誘われた虫が、弾かれているんだろう。
何度も何度も光を求めて、少しづつ全身を焼かれながら。
「そういうのは、もっと早く言ってくれ。」
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