−5
結局、眼鏡は戻ってこなかった。現場にはそういったものは残ってなかったらしい。元々あまり期待していなかったけど、残念だ。
僕を助けてくれた女性と男性のことを聞いてみたら、個人情報だから教えられないと言われてしまった。
少し食い下がってみたけれど、お巡りさんも申し訳なさそうにしていたのでこれ以上無理も言えず、泣く泣く引き下がった。
一緒に帰ろうといった赤羽は、警察署まで着いてきてくれた。
心配しすぎだとは言ったけれど、正直言うと一人では少し心細かったので、ありがたい。
そもそも生きてきて警察のお世話になる日が来るとは思わなかった。
悪いことをしたわけではないけれど、心臓と目線が落ち着かなかった。
まだ少しドキドキしている。
「そんなに気になるか?その二人のこと。」
「そりゃあ、助けてくれた人だもん。できれば直接お礼を言いたいよ。明日ちょっと早めに学校に行って、校門のあたりで待ち伏せしてみたら会えるかな?」
「うちの制服を着てなかったんなら、たまたまそこにいただけかも知れないだろ。希望薄じゃないか。」
「そうかなぁ……。」
「お前がそんなに人に執着するなんて珍しいな。クラスメイトの名前すらろくに覚えないくせに。」
「流石に今回の件は気にするでしょ。だって命の恩人だよ?」
そう口に出しながらも、それだけではないのはわかっていた。
あの二人がどうしても気になってしまう。
不思議なことに僕の記憶の中の彼女らの姿は時間が経つごとに薄まるのではなく、逆に段々とハッキリしてきた。
その不可思議な現象が、ますます僕の感情に波をたてる。
「そういえば、眼鏡はどうする?店に行くか?」
「いや、大丈夫。今日はもう家に帰ってゆっくりしたいかなぁ。これが取れたら買いに行くよ。それまではこの予備で我慢する。」
「これ」こと頚椎カラーをちょんちょんと突く。
これがあると、首の可動域がいつもより九割減になってしまうし、首がそもそも見えないので、眼鏡と顔のバランスがわかりづらい。
どうせ買うなら似合っているものが欲しいし……。
「見えづらくないか?」
「なんとかいける。」
「なんとか?」
「大丈夫だって。」
彼のまっすぐな目線を手の甲で遮りながら、帰り道を急ぐ。
朝は春の空気を感じさせるような温かみのある水色を掲げていたは空は、美しいグラデーションを描くキャンパスに代わっていた。
空は微かに夜の気配を纏い、影を紫色に染めた雲の淵から、オレンジ色の光が強く差し、その周辺を薄紫に染め上げている。
とても綺麗な夕暮れだった。
「今日はありがと、赤羽。助かったよ。」
「俺のこと、松田よりも好きになった?」
「ええ?まだ気にしてたの?」
「当たり前だ。好きだって言ってくれるまで、離さないからな。」
赤羽の右手が僕の制服のジャケットの袖を掴む。
言葉の割にはすぐに振り解けそうな拘束に思わず口元が緩む。
「赤羽って、絶対末っ子だよね。」
「長男だ。」
流石に恥ずかしいのか、顔を伏せて泳いでいる目線を隠そうとする。
可愛いところもあるんだな。
いつもお兄ちゃん然とした同級生のこんな一面を見るのは、悪くない。
僕よりも背の高い彼を見上げる。
夕焼けに染まる肌に惹かれるように、左手が自然と彼の首元に伸びる。
彼の柔らかい皮膚を指先で確認し、その薄い皮膚の下に確かに脈打つ熱を感じる。
左手をそのまま首に手を回すように滑らせ、親指で彼の右顎の下あたりを押し上げた。
傾いた首筋の、なんて綺麗なことだろう。
「来栖?」
僕は子供に言い聞かせるように、自分の口元に人差し指を立てた。
もう少し、このまま。何も喋らずに。
顎の下に置いていた手を頭の後ろに回り込ませる。
彼の短い襟足が、僕の手を拒むようにちくちくと刺さった。
あと少し、我慢して。
冷たい心臓の氷が溶けていく。
喉が渇いて仕方ない。
無意識に喉が上下に動いた。
期待している。
赤い熱がこの喉を通る恍惚を。
今はもう、そのことしか考えられない。
ッーーーーー
空気が切れた。
音も無く、何かが目の前を通り過ぎた、ような気がする。
何が通ったのかはわからない。
でも、確実に何かが目の前を通ったと感じた。
赤羽も気づいたらしく、何かが来たであろう方向を確認している。
「あ、ちょっと!」
先まで遠慮がちに掴まれていた裾を思い切り引っ張られた。
そのまま歩道の脇にあった空地の塀に隠れるように僕の体を押しつける。
「え!何?何?」
「何かわからないから隠れてる!」
赤羽がスマホを出し、緊急通報を呼び出そうとした瞬間。
目の前でスマホの画面が無惨に砕け散り、彼の手から破裂したように飛んでいった。
ここまでくると恐怖と疑問で頭の中が混乱を起こしそうだけれど、僕はそのいずれも感じなかった。
ただ「問題ない。」と感じ、なんの根拠もないその言葉に別の僕が子供のように頷いた。
「赤羽、怪我は?」
赤羽の手は先ほどスマホを吹っ飛ばされた状態で固まっていた。
驚きのあまり、固まってしまっていたんだろう。
それでも彼はすぐに我に戻ると、もう一度僕の手を取ろうとした。
「ちょっと!待って待って!!やりすぎだよ!!」
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