−3

二ーAの教室についた頃には、精神的にも肉体的にも疲弊しすぎていた。


一週間分の労力を、この一日に注ぎ込んだに違いない。

それくらいの疲弊感が全身に漂っている。

もちろん、物理的に頚椎カラーに対するストレスもあるが。


お姉さんは無事、バス停前に送り届けられ、僕は先生の荒っぽい運転を乗り切り、無事ここまで辿り着いた。

車の返却があるらしい先生とは、駐車場で別れた。

あれはやっぱり学校の車らしかった。



荷物は既にクラスに運び込まれているらしいから、以前の教室に立ち寄る手間は不要らしい。


ニーAと書かれたプレートを見上げる。

いつだってそうだけれど新しいクラスは緊張するものだ。


僕は目立たないようにそっと扉を開けた。


「あ、来栖くんだ。」


扉を開けた瞬間、クラスの女子に見つかった。


聞いたことがあるけれど、名前を思い出せない声。

先まで楽しくおしゃべりしていたクラスメイトたちの声がピタリと止んだ。

そして、全員の視線がぴたりと僕の顔と首元に張り付く。


「お、はよう。」


視線が痛くて、思わず言葉につまった。


「来栖くん、首痛そう!大丈夫?」


髪を肩くらいで切り揃えた女子生徒が、心配そうに駆け寄ってくる。

頚椎カラーを見て、よほどの重体だと思ったらしい。


「ただの鞭打ちだから。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。」

「来栖くん、あんまり無理しちゃダメだよ。ちょっと、そこ。どいてあげなよ。来栖くん、怪我してるんだからさ。」


また別のところから他の女生徒が気を使って、席までの道を開けようとしてくれる。

椅子の背に体重を乗せて木馬のように器用に上体を揺らしていた男子生徒が慌てて座席を引いて道を開けてくれた。


「ありがとう。ごめんね。」


「来栖じゃん!首大怪我してる!」

「あ、来栖きた。赤羽呼んでこいよ。あいつどこ行った?」


欠けていたクラスメイトが揃ったことで、一旦墓場のように静かになったクラスが騒がしくなってきた。


いろんなところから

「事故大丈夫だった?」

「首痛そう!」

「新学期なのに。」

などいろんなコメントが押し寄せてくる。


僕はヘラヘラした笑みを浮かべながら、とりあえず案内された席についた。

教室の一番後ろ。

椅子には、今朝の事故に巻き込まれた際に怪我の確認のために脱がされたジャケットが掛けられている。


窓際の日当たりのいい席。

学校ドラマや漫画なら主人公とヒロインが隣り合わせに座るような席だ。

二階の窓からは心地よい風が吹き込み、学校の年季の入ったレースカーテンが風を含んでふわりと膨らむ。


「臭い。」


突然聞こえた声に手元が滑り、座ろうとした椅子からあやうくずり落ちそうになった。


「土と、焼けた灰の匂い。」


僕の右側の席は空いており、声は前の席から聞こえてきた。


目の前には太陽の光を全否定しているような真っ黒のジップパーカーを羽織った生徒が座っていた。

頭からすっぽりとフードを被っているので後ろから見るとうちの学校ご自慢の制服の凝った意匠が全く見えない。


椅子が床を引っ掻く、耳障りな音をたてながら目の前の黒尽くめの誰かが勿体ぶったようにゆっくりと振り返る。


「死臭がするぞ、お前。」


死臭がする。

というとんでもない言葉を吐かれながらも僕は何も言い返すことが出来なかった。

というか、いつの間にか開いた口を閉じることが出来ず、おおよそ目の前にいる人物を現実と認めるのが難しかった。


件の黒づくめの生徒はすっぽりと被ったパーカーで春のうららかな日差しを拒絶しながらもうっすらと入り込む太陽の光に忌々しげに片眉を顰めていた。


日焼けしていない病的なまでに白い肌、

それに反して真っ黒な黒い髪は緩い三つ編みでふたつに纏められており、その両房がフードの裾からゆったりと垂らされている。

少しつりぎみの目元は長いまつ毛に覆われ、一見して髪と同じく真っ黒に見えた瞳は太陽の光に当たるとアメジストのように輝いた。


彼女の顔を形作るパーツはどれも力強く印象的だが、それを奇妙に際立たせているのがその右目に付けられた黒い眼帯だ。


眼帯には銀糸で薔薇が刺繍されていて、それが彼女が作る暗闇の傘の中でも光を放とうと抗っている。


僕が呆気に取られていると、彼女はそのアメジストの中に僕が映り込むくらいに身を寄せてきた。


彼女の体が机にあたり、真っ直ぐ揃っていた机が斜めに傾むく。


「このまま明けの明星の光に抱かれ、塵となるのもお前のさだめか。」


僕は彼女の目の中に虚に映る僕の姿を、彼女は僕の目に映る彼女の姿を見るように、お互いの顔が見えなくなるまで近づいた距離。


彼女の吐く息がうっすら僕の口元を撫でた瞬間、


我に返った。


「ごめん、ちょっと近いかも!」


彼女の肩に手を置き、失礼がないようにゆっくりと後ろに引き戻す。

彼女は僕になされるがままで、ほとんどゼロに近かった距離が人の常識の範囲内のパーソナルスペースに戻っていく。

やっと自分の周りの空気を吸う権利が与えられ、失った酸素を吸い込んだ。


「飢えに抗え。迷える子羊よ(ストレイシープ)。タナトスの囁きが訪れるまで。」


そう言い残すと彼女はパーカーの袖がたっぷりと余り、指先しか見えなくなってしまった手で僕の腕を払い落とした。

そして、振り返った時と同じような気だるげな足取りで教室から去っていく。


(誰……?!)


あれが世に言う厨二病なのだろうか。

あまりにいかにもな容姿と言動に、言葉も体も凍りついてしまった。

言われていることの半分以上理解できなかった。

未知との遭遇に、心臓が早くなる。

さっき血液検査のために血を採取されたせいか心臓の動きに血液がついていかない。

グラグラと目が回るような気がして、僕は机に突っ伏した。

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