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結局、僕に下された診断結果は「鞭打ち」だった。

首に頚椎カラーを巻かれ、しばらく安静にしているようにとお医者さんに言われて診察所から解放された。


幸いなことに今まで大きな病気にはかかったことはない。


春・秋に日本国民を再起不能にしようと襲いかかってくる花粉症にも幸いながら今の所ご縁は無い。


しいていうなら少し金属アレルギーの気があるくらいか。何かそれっぽいものに触ると肌が荒れて赤みが出る。


だから診察中に特別な処置が必要ということもなかったし、用意される薬も別に特別なものでも無かった。


僕は早々と薬に対する問診票を書き終わると、看護婦さんに言われてロビーで薬の受け取りを待った。

年配の看護婦さんが薬に対する問診票をチェックし、もう少し待っているようにと指示される。


「気分が悪くなったり横になりたくなったら、遠慮せずにすぐに言ってちょうだいね。我慢はだめよ。」

「ありがとうございます。」


僕はそれなりに人好きのする笑みを浮かべて、待合室のベンチに戻った。

待合室には大きな液晶テレビが置いてあり、朝の情報番組が流れている。


音声は字幕表示になっていて、僕を含め、

手持ちぶたさの人はみんな上を見上げていた。

といっても、僕は頚椎カバーが邪魔で上を向いていられない。


仕方がないのでテレビで時間を潰すのは諦めた。

あと出来る事と言えば人間観察か、惰眠を貪るか。

僕は迷うことなく目を閉じ、夢の世界で暇を潰すことにした。


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薬を受け取り、ミントグリーンの塩ビ床を辿って病院の出口へ向かう。

ちょうど午前の健診が終わる時間帯だったようで、病院の総合窓口には白いスーツ(多分スーツ)を着た(おそらく)女性が一人座っているだけだった。


「来栖くん。」


名前を呼ばれて、周囲を見渡す。

周りにはそれらしい人は誰もいない。

おそらく先ほどのスーツの女性かと思ってそちらに向き直った。


視線の先には、小さく手を振りながら(おそらく手だろう)小走りでこちらに近づいてくる先ほどの女性。

自分からも近づこうとすると彼女は先ほど小さく振っていた手を、大袈裟なくらい左右に振りはじめた。


「あー!動かなくて大丈夫!そのまま、そのまま、そこにいてね。」


眼鏡がないので、正直こちらに来てもらう方が助かる。

今僕に見えているのは一昔前のデジタルカメラのような映像だ。

しかもそんな画素数が荒いJPG画像にさらにモザイク処理を施したようなひどい映像が今の僕の世界だった。


「来栖兎於菟(くるす とおと)くんだよね。」

「はい。」

「よかった!すれ違っちゃったらどうしようかと思ってたんだ。」


彼女は安心したように胸に両手を置く。

芝居がかった仕草をする人だなと思った。


「喉乾いてない?お水どうぞ。」

「ありがとうございます……。」


彼女は僕に500mlのペットボトルの水を渡してくれた。

念の為、手触りで開封済みか確認する。

未開封だ。


「あの、どなたですか?」

「あ、そうか。私はあなたの新しいクラスの先生です。佐藤真奈美って言います、よろしくね。」


佐藤先生。頭の中で反芻する。


「……よろしくお願いします。」

「礼儀正しいねぇ。そうだ、いいかな?腕掴んでも。」

「いいですけど……。」


何で?


という言葉を言う前に、先生は僕の腕をとって歩き始めた。

先生曰く、搬送された病院から学校までは距離があるらしく迎えに来てくれたらしい。


歩きながら事故の経緯がどうなったのか、今朝のクラスミーティングや委員会決めのことなどを話してくれてた。


新学期早々、クラスの行事に参加出来なかった僕のことを心配してくれているんだろうか。

佐藤先生はとても背が高いようで、僕が彼女の顔を見ようとすれば見上げなければいけなかった。


彼女は僕の体調や診断結果を聞きたがったが、こちらは彼女の歩幅に合わせるので精一杯だった。

ぼやける目線の先では彼女の履いている踵の高い黒いパンプスと僕の白いスニーカーの距離が近すぎて白黒混じったオセロ盤のように見えてくる始末だ。


「あ、あの先生!もう少しゆっくり歩いてもらえると、嬉しいです。」

「え?」

「眼鏡がなくて、何も見えなくて。正直、先生の顔もこの距離では見えません。」


薄目にしてもやはり先生の顔は見えない。


「ああ、そうだ。ごめんね、そう聞いてたから、君の腕を掴んでいたのに。すっかり忘れちゃってたよ。」


彼女は申し訳なさそうに言うと、歩くスピードを先ほどよりも遅くしてくれた。


「眼鏡は予備ある?家にあるなら寄ろうか?」

「いえ、大丈夫です。学校に予備があるので。」

「用意がいいね。しっかりしてるし、聞いてた通りだねぇ。」

「誰に聞いたんですか?」

「内緒。クラスメイトは学校についてからのお楽しみだよ。はい、どうぞ。」


先生が車の後頭部の座席のドアを開けてくれる。

これは学校の車だろうか、車内には煙草特有の重たい匂いが染み付いている。

まだ車に乗っただけなのに酔いそうだ。


「窓、開ける?窓の近くにあるレバー、回してくれるかな?」


窓の下を探るとレバーのようなものがついていた。

それをぐるぐる回すと窓が少しづつ空いていく。

昔ゲームセンターで見たポップコーンを作るゲームを思い出したが、当然ながらそれよりもハンドルは重く、空気が入るくらいの隙間がやっと空いたころには右手が少し疲れてきていた。


大きく息を吸う。

普段吸っている空気がどれだけ綺麗でありがたいのか、「普通」に改めて感謝したい。


鼻の奥をまち針でつつくような、

脳みそに重りをくくりつけて地面に叩き落とそうとするような煙の匂いは春の軽やかな風によって、幾分かマシになった。


もう一度大きく息を吸い、胸の奥や頭の隅まで空気が行き渡るイメージをしながら息を吐く。


どうして大人は煙草を吸うのだろうか。


頭の動きを鈍くしたくなるような瞬間が、大人になれば増えるのだろうか。

大人になるということを考えるとき、僕はいつも既視感を覚える。

僕はどうやら大人になるということを知っているらしい。


おかしな話だけれど、知っているとわかるのだ。

でも、それを思い出そうとするといつも頭に靄がかかる。


さっきの煙草の煙のように、重たい枷が記憶に縛り付けられて頭の隅から動かない。

そうしていつも、結局何も思い出せないままやはり自分はただの子供だと思い直す羽目になる。


「先生、聞きたいことがあるんですが。」

「何かな?」

「あの、僕を助けてくれた人たちについてなんですが……」


エンジンのかかる音がする。

車に乗った瞬間から感じていたが、やっぱりこの車はだいぶん使い古された車らしい。

例のモザイク画像の先にどう考えても液晶じゃない、メーターらしきものが見える。


「僕を庇ってくれた女の子と、一緒にいた男の子の名前とかってわかったりしますか?きちんとお礼が言いたくて……。」

「ああ、うんうん。あの二人ね。二人ともうちの学生じゃなくて、ちょっと私にはわからないかなぁ。」


先生が僕の右側にあるレバーに手をかける。

ギアというやつだろうか。

見たことはないけど。


「そうですか……。」

「おまわりさんに聞けばわかるかもしれないよ?まぁ、とりあえずお話は学校に戻りながらしようか。」


「あの、すみません。」


先生以外の声がして体が無意識に跳ね上がる。

驚きのあまりシートベルトを両手でしっかりと掴んでいた。


「驚かせてしまってごめんなさい。」

「あ、いえ!僕が勝手に驚いただけなんで……」


僕は急いで窓を開けるためのレバーを回した。

UVカットのためなのか、後頭座席の窓は薄黒い。

女性の顔は、換気用に開けた窓の隙間からはほとんど見えなかった。


「どうされましたか?」


先生が女性に声を開ける。

窓は舞台のカーテンコールのように少しつづ、少しづつ下がっていく。


女性の美しいプラチナ色の髪が見え、

次に冬のように白い肌。

その肌に耳にかけていた銀糸がさらりと落ちる。

細いまつ毛に囲まれた、向日葵のような虹彩の瞳は、まるで人形のようだ。


そして、その白い肌の下に走る青と紫の血の筋。


彼女が確かに生き物だという証。



「すみません、実は……午前検診終わりのバスを逃してしまって。最寄駅まで乗せてはいただけませんでしょうか?」



一瞬だった。



意識が空気に吸い込まれるように消え、体が氷水に浸ったように冷たくなった。

なのに、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

喉元から這い上がる焦燥感。


でも、何を求めているのかわからない。

今まで貧血のような症状はあったけれど、こんなに激しく、意識が呑まれていくようなものは感じたことがない。


僕は急いで、先生が先ほど渡してくれた水を一気に飲み干した。


「最寄り駅はどちらなんですか?」


先生が聞く。


「病院の乗合バスの停留所まで行ければ嬉しいのですが……。」

「だったら、学校の近くですね。」


息を吐いて、整える。

先生が少し考えた後、僕の隣を座席をさしていった。


「どうぞ、乗ってください。」

「ああ、よかった!ご親切に、ありがとうございます。」


彼女は少し頭を下げてお礼を言い、後ろからぐるっと回って、後頭部座席のドアを開けた。

車内の年季の入った薄暗い雰囲気も、彼女が隣に座った瞬間、気にならなくなった。


僕は目を強く瞑り、頭を軽く振った。

気を抜けば襲いかかってきそうな喉の渇きを意識の向こう側に追いやるために。


「お姉さんと弟さんですか?」

「いえ、教師と生徒なんですよ。」


先生がバックミラーを確認する。

この頃にはだいぶ気持ちが落ち着いてきて、いつもの愛想笑いが自然と口元に浮かんでいた。


「その子が事故に巻き込まれてしまって。」

「あら!それは大変!首を痛めてしまったの?」

「あ、でもただの鞭打ちです。」

「それでも、痛いでしょう?怖い思いもしたでしょうに……」


彼女は僕の首に巻かれている頚椎カラーにそっと触れた。

直接触れた訳でもないのに、彼女の優しい熱が皮膚に溶けるように感じられて、さっきとは違い今度は顔が熱くなる。


「お姉さん、高校生には刺激が強すぎますよ。そんな触り方しちゃったらぁ。」

「え?」

「先生!早くいきましょう!」


手で顔を隠しながら、先生に出発を促す。

お姉さんは不思議そうにこちらを見ているけれど、今、その視線は嬉しくない。


「そうしますかぁ。みんな、しっかりシートベルトを閉めて。アシストグリップ持った?あ、窓の上についてるやつね。では、いきましょう!」


え?アシストグリップ?

それを聞く間も無くギアが入る音がして、車は病院の駐車場から文字通り飛び出して行った。

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