第8話 祖父の告白

祖父の「私の名前を守ってください」という美代子の最後の言葉が、僕の胸に重くのしかかっていた。彼女が抱えていた秘密と、それを託された祖父が守り続けてきたことが、僕にとってますます重要な意味を持ち始めた。祖父がなぜこの手紙と絵を何十年もの間隠し続けてきたのか、その理由をもっと深く知りたくなった。


「おじいちゃん、どうして美代子さんのことをずっと秘密にしてたの?」


僕が尋ねると、祖父は少し目を伏せ、考え込むように沈黙した。何か重いものを背負っていることは明らかだった。そして、ついにゆっくりと口を開いた。


「美代子さんは、ただの絵のモデルじゃなかったんだよ。彼女は、当時の政府に追われる身だった。スパイとして活動していたことは、戦争が終わってからようやく私にも伝えられた。でも、その頃にはもう彼女はすでに消えてしまっていたんだ。」


祖父はしばらく言葉を途切れさせ、遠い目をしていた。そして、僕に向き直り、続けた。


「美代子さんは、圭介さんの作品の中でしか生きられなかった。それが彼女にとっての唯一の逃げ道だったんだ。彼女が名前を隠していた理由も、全ては自分の命を守るためだった。しかし、それだけじゃなかったんだ。」


「どういうこと?」


「彼女は、圭介さんを愛していたんだよ。だけど、その愛を貫くことはできなかった。名前を偽り、真実を隠して生きることは、彼女にとってとても辛いことだった。彼女が圭介さんに手紙を託したのは、彼女の本当の姿を伝えたかったからだろう。でも、圭介さんにそれを直接渡すことができずに、私に託していったんだ。」


祖父の言葉は、僕の中で少しずつ点と点が繋がっていくような感覚を生んだ。美代子は、命を守るために名前を変え、スパイとしての役割を果たしながら、伊藤圭介と共に過ごす時間だけが唯一の安らぎだった。しかし、愛する人に自分の正体を告げることもできず、最後には祖父に全てを託した。


「でも、どうして絵と手紙を祖父に?」


「それは…彼女が姿を消す前に、私が彼女に助けを求められたからだ。彼女は命の危険を感じていた。だから、彼女の遺志を守るため、手紙と絵を預かることになったんだ。それ以来、私はずっとそれを秘密にしてきた。でも、今こうして君がそれを見つけたということは、きっと何かの運命なんだろう。」


祖父の言葉は静かだったが、その背後には長年抱え続けた重い思い出があったことが感じられた。美代子を守り、彼女の記憶を守るという役割を祖父は果たしてきた。そして、今その役割は僕に引き継がれたのだ。


「僕は、この絵と手紙をどうすればいいんだろう?」


祖父はしばらく考え込んだ後、優しく微笑んだ。「それは、君自身が決めることだよ。美代子さんの記憶を守り、彼女の物語を伝えるのか。それとも、そっと胸にしまっておくのか。どちらが彼女の望む道かは分からない。だが、君がここまで辿り着いたのは、彼女が君に何かを託したからだろう。」


僕はその言葉に静かに頷いた。祖父が守ってきた美代子の秘密をどう扱うべきか、まだ答えは見つかっていない。しかし、少なくとも彼女が伊藤圭介に遺した思いを、そして彼女の複雑な人生を伝えることが、何か意味を持つのではないかと感じていた。


その夜、僕は家に戻り、再び美代子のヌード画を見つめた。彼女の穏やかな表情には、どこか儚げな悲しみが漂っているように感じた。彼女が隠し続けた真実、そして彼女が伊藤圭介に抱いていた愛。それらがすべてこの絵に込められている気がした。


僕は、次の一歩を決める時が来たと感じていた。

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