第9話 決意と行動

美代子の秘密と祖父の長年の思いを知り、僕の胸にはいくつもの感情が渦巻いていた。美代子が守り抜いた名前、そして伊藤圭介への愛。祖父がその思いを受け継ぎ、今度は僕がそのバトンを引き継いだ。


それでも、まだ僕は一つの問いに答えを出せていなかった。「美代子の物語をどう伝えるべきか?」という問題だ。彼女がスパイとして追われながらも、伊藤圭介のもとで静かな日々を過ごし、偽名の下で生きたその複雑な人生。どれだけの人がその苦しみを理解できるだろうか?


僕は、絵と手紙をただ手元に置いておくという選択肢も考えた。しかし、それは彼女の生きた証を世に伝えないということでもある。美代子はずっと自分を偽り、逃げ続けた人生を送ったのだ。もしかしたら、彼女の本当の姿を世に出すことが、彼女の名誉を取り戻す一歩になるのではないか。


決意を固めた僕は、美代子の物語を公にする方法を模索し始めた。まず最初に頭に浮かんだのは、伊藤圭介の作品を展示している美術館だった。もし、この絵が圭介の作品として展示されれば、美代子が生きた証もまた同時に伝わることになるだろう。


翌日、僕はすぐに美術館に連絡を取り、担当者に会う約束を取り付けた。美術館での展示に加えて、彼女の手紙を解読したこと、そして祖父の話も伝えたいと思っていた。


数日後、僕は再び美術館を訪れた。美術館の学芸員である森田さんは、以前にも僕の持ってきた絵に強い関心を抱いていた人物だ。彼は温かく僕を迎え入れ、早速本題に入った。


「この絵について、少し話を聞いてほしいんです。」


僕は美代子の手紙、そして祖父から聞いた話を森田さんに伝えた。森田さんはじっくりと話を聞き、時折驚いた表情を見せながらも、冷静にうなずいていた。


「これは非常に興味深い話ですね。伊藤圭介の作品としても貴重ですし、この手紙に込められた背景も重要です。もしあなたがよろしければ、この絵を当館で展示させていただきたいと思います。」


僕はその提案に安堵しながらも、少しの不安を感じていた。美代子の秘密が公になることが、彼女の望んだことなのか、それともまた違う道を彼女が望んでいたのか、確信が持てなかったからだ。


「ただ、手紙に書かれている内容は非常に個人的なものです。彼女が名前を隠して生きていた理由も含めて、全てを公にするかどうかはあなたの判断です。展示するかどうかは慎重に考えてください。」


森田さんの言葉に、再び僕の心は揺れた。彼女の本当の姿を明らかにすることが、彼女の名誉を守ることになるのか、それとも新たな苦しみを生むのか、答えは見つからないままだった。


家に戻り、再び祖父の言葉を思い返した。「君自身が決めることだよ」というその一言が、何度も頭の中で反響していた。祖父が託された美代子の思いを、僕がどう伝えるか。それを決めるのは僕自身だった。


一晩中考え抜いた結果、僕は一つの結論に至った。美代子の真実を隠しておくのではなく、彼女が生きた証をこの世に残すことで、彼女の物語を完結させる。それが、彼女が生きた証を敬意を持って伝える最良の方法だと感じたのだ。


翌日、僕は森田さんに電話をかけ、絵と手紙の展示をお願いすることを伝えた。美術館での展示を通じて、美代子と伊藤圭介の物語が多くの人に伝わることになるだろう。


そして数週間後、絵と手紙は美術館に正式に展示された。多くの来場者がその絵の前で立ち止まり、静かにその美しさに見入っていた。彼女の名前と彼女が生きた背景に触れた人々は、それぞれの思いを抱えて帰っていった。


僕は、美代子の物語がようやく終わりを迎えたことに、どこかほっとした気持ちだった。彼女の秘密は公になり、彼女の人生は伊藤圭介の作品と共に永遠に刻まれることとなった。美代子が望んでいたかどうかは分からないが、少なくとも彼女はもう隠れることなく、この世界でその存在を認められたのだ。


祖父もまた、その展示を見て、静かに微笑んでいた。その微笑みの裏には、美代子への思いと、長年守ってきた秘密をようやく解放できた安堵があったのかもしれない。


僕は、絵の前に立ち、静かに目を閉じた。美代子の姿が脳裏に浮かぶような気がした。そして、彼女の物語がこれで終わったことを感じながら、静かに美術館を後にした。

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