第31話
廊下を走り抜けて階段を昇り、たどり着いた場所は今朝、滝沢と訪れたばかりの屋上へと続く踊り場だ。
極力、第三者に話を聞かれない可能性の高い場所を考えたらここしか思い浮かばなかったのだ。
「ちょっと、桐生君、離して!」
足を止めた途端、陽川は腕を強く降って、俺の手を振りほどいた。
「こんな所に連れてきてどうするつもり……?」
猛獣のような視線が俺を射抜く。陽川の声色は落ち着いていたものの、静かに怒っている事がわかった。
だけど、俺の言い分も聞いて欲しい。なんせ今後の学生生活にも関わってくる事なのだ。
勘違いをそのまま放置していたら、俺はおろか、滝沢すらも後ろ指をさされながら苦しい生活を送らざるを得なくなる。
なんとしても勘違いを否定した上で、理解をしてもらう必要がある。
さもなくば暗黒な未来が待っている。横島先生の不適な笑みも脳裏をよぎる。
「どうもこうもないさ。正しい事実を理解してもらおうと思ってな。勘違いされたままじゃあ、困るからさ」
「それなら教室で、みんなが聞いている前で堂々と話せば良かったじゃない」
陽川の言っていることは正しい。
しかし────あの場で俺が何を話そうとクラスメイトは俺の話を信じようとはしなかっただろう。
人間ってのはだいたいが、自分にとって都合のいいほうか、関係のない事なら面白いと思った方を真実だと思い込もうとする。
そう言った心理的要素を、心理学用語で確証バイアスと言う。
あの恋愛心理学書にもそう書いてあった。思い込もうとする人の心は厄介だ。
噂話に尾ひれ背ヒレがついて拡散していく。
そうなってしまっては後の祭り。そうなる前に元を断つ。
仮に噂話になってしまっても、陽川と昨日までの元通りの関係を築けていれば、次第に噂は立ち消えとなるだろう。
「クラスメイトなんてどうでもいいさ。せっかく仲良くなれた陽川に勘違いをしてほしくなくてさ」
「なによそれ……早い話、言い訳を聞いてほしいってだけよね」
陽川は自らの右手の肘を左手で掴み、少し身を捩った。
人が人を拒絶する時に見せるポーズだ。
「陽川がそう思うのなら、それで構わないさ。とにかく俺は、包み隠さずに事実だけを話す。後は陽川が判断してくれ」
「……」
睨め回すように俺のつま先から頭の先までを順繰りと見たあと、陽川は一つため息をついてからボソリと「わかったわよ」と呟いた。
「助かるよ。まず、さっきの陽川の話だけれど、滝沢の部屋を度々訪れていたのは本当だ。それにも理由があるんだけど」
ここで公開すべき事実と、話さなくて良い事実の選別は間違えてはいけない。
別に全てを話す必要はないのだ。
陽川にとって耳心地の良い事柄だけを並び立てれば良い。
逆に確証バイアスをうまく利用して、この場を乗り切る!
「女の子の部屋を度々訪れるって普通じゃないわよ」
「陽川。今から俺が話すことは、吉岡にも話していない事だ。知っているのは、俺と横島先生。そして、……被害者である滝沢凛の三人だけ。今からお前も知ることになるんだけどな」
俺が次に駆使しようとしている心理学は秘密の共有だ。
陽川は緊張を覚えたのか、喉を鳴らす。そして、少ししてから小さな声で「何よ?」と呟いた。
「新学期を迎えた朝、滝沢が矢野さんに対して、やらかしてしまった事は記憶に新しいよな?」
陽川は渋い顔をして、首肯した。彼女にとって、あまり良い記憶では無いだろう。今は矢野さんが許して何もなかったようになってはいるが。
「あの日、陽川の知らない所でもう一つ事件が起こっていたんだ」
「……もう一つの事件?」
「ああ。あの日の放課後は吉岡と陽川、そして俺の三人でマスドに行った後の話だ。実はあの後、俺は個人的に滝沢に遭遇したんだ。その時は知らなかったんだけどな。滝沢の家の近くの公園だった」
滝沢が矢野さんのストーキングをしていた事を話す必要はないだろう。イタズラに反感を買うだけだ。
俺が話すべきは、滝沢に怪我を負わせてしまったこと。
そして、怪我を負わせてしまった事で申し訳なく思い部屋に通っていた事。
実際、少しでもそう思っているのは事実なのだから、嘘はついていない。
「ふーん。それでどうしたのよ」
「滝沢の顔に怪我を負わせてしまったんだ」
「はっ?女の子に手を出したって事?サイテーなんだけど」
「違う違う。そんな事するわけないだろ。おかしな服装をしていたんだけど、見た目で滝沢だってわかったから声をかけたんだ。そうしたら、慌てて逃げようとして、シャチホコみたいなポーズで地面に顔から倒れたんだ。そして顔がズタズタ」
「ふーん。それは可哀想な事かもしれないけれど、だったとしたらあなたが負い目を感じる必要はないじゃない?ただ滝沢さんが勝手に転んだだけでしょう?」
陽川は「ははん」と頷いた後、続けて言った。
「滝沢さん。顔だけは良いもんね。男子だったらチャンスがあれば取り入ろうとしちゃうのもわかるかも」
言いながら、蔑むような目つきで俺を見た。
「そこで終わりじゃないんだよ。滝沢が傷だらけだったのは事実だ。あの日、警報が出るくらいの雨が降ったのを覚えているか?」
「そうだったかもね。あんまりよく覚えてないけど」
「降ったんだ。かなりの土砂降りだった。
────それでさ俺も矢野さんに対してあんな事をしたことを許せなかった。だから俺は、『滝にでも打たれたつもりで、反省をしろ』といって帰ったんだ」
「ふーん。賛否はあるだろうけれど、そこに関しては私的には別に良いと思う。あの子のしたことは到底許される事じゃないし。でも、そんなのに従うバカはいないでしょう」
俺は軽く目をつむり、小さく首を左右に振った。
「いたんだよ。そんなバカが」
「まさか?確認したわけじゃないんでしょう?」
「ちょっと心配になって、様子を見に行ったんだ。川が増水して通れなくなっていた道もあったから、たどり着くだけでも苦労した。これで滝沢がいなからったら、俺がバカを見ていた所だったよ」
「で、どうなったのよ」
「大雨に打たれ続けた滝沢は体温を奪われて低体温症で倒れて、転んだ拍子に画面が割れたスマホは水没」
「なんというか、違う意味でバカだったのね」
「あいつはバカ正直なんだよ。それで対人スキルも皆無だから、スマホの修理すらままならなくて、俺が助けてたんだよ」
「ふーん。まあいいよ。それで。仮に私が百歩譲って、家に行っていた事は目を瞑るとして、キスをしていたってのはどう説明するつもり?」
「そこなんだよな。神に誓って俺は滝沢には手を出していない。だからそんな噂が立つこと事態がおかしいんだよ」
よくよく考えてみても、分からない。俺と滝沢がそんな雰囲気になったことも無ければ、滝沢がそれを望まない。なぜなら、マイノリティな癖を持つ滝沢に限ってはありえないのだ。
「サクラちゃんが駅前で見たって言ってたんだけどなー」
「どこの駅前だよは?」
「平和台。一週間くらい前って言ってたかな」
俺はぼんやりと、一週間前くらいの回想をしてみた。
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