第7話
家に着く頃には、土砂降りの雨が降っていた。
びしょ濡れになってしまった制服を脱ぎながら玄関を上がると、母さんが居間からひょっこりと顔を出した。
「おかえりなさい。あらら。そんなにずぶ濡れになっちゃって。それ、洗濯機の中に入れておいて。洗濯して明日までには乾かしておくから」
「ただいま。ありがとう」
「さっさとお風呂に入っちゃいなさいよ。お湯張っておいたから」
「うん。そうする」
母さんに促されるままにお風呂場に移動する。
脱衣所にある洗濯機に制服を放り込んでから鞄に目を移した。
「明日は使えないかもな。はあ」
なんか今日はため息ばかりだな。
それもこれも全て滝沢のせいだ。
さっきまであんなに苛ついていたのに、強い雨にうたれたせいか気持ちは落ち着いていた。
滝沢がおかしい事は間違いないが、少し言い過ぎたかもしれない。そうとまで思っていた。
悪いのは滝沢。しかし、俺が滝沢を責める必要はあったのだろうか。権利はあったのだろうか。
別に俺は矢野さんの彼氏でもなければ、友達でもない。
ただのクラスメイトだ。矢野さんからしてみれば、顔見知り程度の認識なのかもしれない。
当事者じゃない、被害者でもない俺にあそこまで言う資格はあったのだろうかと。
俺が声を掛けたせいで怪我までさせてしまったのに。
「……次、会ったら謝るか」
三十分くらい前まではもう、二度とかかわらないつもりでいたのに、すっかり体も頭も冷えた今では考えが百八十度変わっていた。
浴室に入ると頭を洗い、体を洗い、冷え切った体を温める為に母さんが張ってくれた湯船に浸かる。
「はー、染みるなあ」
染みると言えば今頃、滝沢も風呂に入っているだろうか。顔中擦りむいていたから、俺とは違う意味でかなり染みているだろうな。
そういや、別れ際に滝沢が見せてきた本の表紙。どこかで見覚えがあったよなあ。どこで見たんだっけか……?
口まで湯船に浸かって記憶を辿っていくと、ぼんやりと
どうして、あいつの事を思い出すんだろうか……
「あっ!」
閃いた。記憶の点と点が線となり繋がった瞬間だった。
秋斗が置いていったあの本。恋愛心理学がなんちゃらって本にそっくりだった。
というか、あんなピンク色を基調とした奇抜な模様の派手な本、他にあるとは思えない。
思い立った瞬間。居ても立ってもいられなくなって風呂場を飛び出した。
体を拭くのもざっと拭くに留めて、パンツを履いて鞄を抱えると部屋に向かって走った。
どうしてかわからないけれど、滝沢の言っていた事が引っかかっていた。
冷静になって考えてみると、どう言う訳か彼女が嘘をついているようには思えなかった。
横島先生に連行されて行く時、『どうして』と呟いていた横顔がとても憂いを帯びていたせいか。
ただ単に別れ際の滝沢の姿があまりにも惨めに見えたから、なのか。
なぜなのか、気になる理由は俺にも分からなかった。
自室に入ると、本棚の端に押し込んだ本を取り出して確認する。
「やっぱりだ。かなり似ている」
似ているというか、滝沢にスマホの画面越しに見せられた本そのものだった。
体を冷やさないように、すぐに部屋着に着替えると、机に座りハードカバーを開いた。
読まないで秋斗に返そうと思っていたのに、まさかこんな物を読む羽目になるとはな。
タイトルは『恋愛心理戦──恋愛心理学を制す者は青春を制す──』
思わず笑ってしまいそうになるタイトルだ。
目次から見ていくと、本の構成は三章に分かれていることがわかった。
第一章
『異性と顔見知りになるには』
第二章
『異性と仲良くなるには』
第三章
『異性と付き合う為には』
どうやら三幕構成らしい。
しかし、異性と付き合うのを目的とした本か……滝沢は、矢野さんと仲良くしたいから本の通りにしたと言っていたが、やっぱり嘘をついていたのか?
……いやまて、時代は多様性の時代。滝沢が恋愛感情を矢野さんに抱いていてもおかしくはない……。
多少の疑問を抱えつつ、恋愛心理戦──恋愛心理学を制す者は青春を制す──を読んでみることにした。
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数時間して、ざっと本を読み終える。
久々に長時間本を読んだものだから、目がとてもつかれた。
右手の人差し指と親指で目頭を揉んでやると少し楽になったような気がした。
激しい雨が降り続いているせいもあるとは思うが、外はすっかり暗くなっていた。
スマホに手を伸ばし時間を確認すると六時前。そろそろ晩ごはんができて、母さんに呼ばれる頃合いだ。
一つ伸びをしてから席を立った。呼ばれる前に居間に向かうためだ。
階段を降りながらふと、思いついた事があった。
もしかして、滝沢ってものすごく不器用なやつなんじゃないかと。
その上、とても単純なやつなんじゃないかと。
居間に入ると、もう食事の用意は終わっていたようで既に配膳されていた。
「ちょうど今、呼びに行こうと思っていたのよ」
母さんはニコニコと菩薩のような笑顔を浮かべながら言った。母さんが呼び出す前に行動を起こしたから機嫌が良いのだ。
「そう思って降りてきたんだ」
「そうなの。父さんは遅くなるみたいだから、先に食べてしまいましょう」
「うん」
返事をして席につく。
いただきますの挨拶をしてから夕食に手をつける。
ふと目をやると、テレビにはニュースの映像が映し出されていた。
どうやら隣町を走る地下鉄が雨によって冠水したらしい。
「あらあら大変ね。これって確かお友達の吉岡くんの家の方よね」
「あー、そうだね。大丈夫かな」
吉岡の家の方と言うことは、矢野さんの家の近くでもある。
矢野さんの家を教えてくれたのも吉岡だったな。
吉岡と矢野さん、そして陽川は大丈夫なのだろうか。
後で吉岡に連絡してみるか。
パクパクとご飯を食べ進みながら何か忘れているような気がした。
そいうや……滝沢はちゃんと帰っただろうか。
イチマツの不安が頭を過る。
滝沢は物凄く不器用で、単純な性格なのかもしれない。
そんな俺は帰り際になんて声をかけたっけか。たしか……『俺は帰る。これから雨が降るらしいから、お前は反省の為に雨にでもうたれたほうが良いんじゃないのか?』と言った気がする。
いや、まさかな。この雨だぞ。
しかし、万が一って事があるよな。
誰か滝沢に連絡を取れるような奴は────そんな奴、居るはずがない。
慌てて残りのご飯をかきこむようにして食べると、急いで空の食器を台所に運んだ。
「ちょっと忘れ物しちゃったから、ちょっと出かけてくる」
「こんな雨の中、出ていく事もないんじゃないの」
「明日までに提出しなきゃならない課題があってさ、その資料を学校に忘れたんだ」
母さんは呆れたようにため息を吐きだすと流れるような仕草で言った。
「まったく。そそっかしいのはお父さんに似たのかしらね。そんな大事な物を忘れてきちゃダメじゃない。……できるだけ早く帰ってきなさいよ」
「うん。わかってる。行ってきます」
そう返事をしてから雨合羽を着込んで、すぐに家を飛び出した。
自転車で無理をして向かえば、十分とかからない道のりだ。
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