幕間 辺境伯令嬢、カイを狩る
一
牛はかわいい。
長い睫毛。つぶらな黒い瞳。艶のある黒毛。逞しい前躯。ぬかるんだ土地で農具を率いるにはよほどの体力が必要だろうに、目の前の役用牛は涼しい顔で泥の中を歩いている。
牛の手綱を握るノアは、進路を慎重に確認しながら、隙あらば牛の横顔を見つめていた。牛は、かわいい。
「ノアってば、さっきから牛を観察してばっかだね」
牛の背後で
「そんなに牛ばかり見ていると妬けちゃうな。牛も良いけど、目の前にも気を配ってよ? 気を抜いていると、泥に足を取られちゃうよ」
「ええ。そのとおりね」
セヴランの言うことを素直に聞き入れて、ノアは再び目の前を向いた。区画の端まではもうしばらく余裕がある。だが牛の進む速度は存外はやく、この調子では十秒も経たずして折り返すことになろう。これでこの水田の区画は七割程度の荒起こしが終えたことになる。昼の休憩までには区画全体の荒起こしが終わる計算だ。順調な作業進度にノアはにっこりと笑った。
そもそもノアたちが、今は田植えの時期にも関わらず、一足遅れて田起こしをやっているのには訳がある。
数日前の泥の襲撃事件で、ノアはセヴランの幼馴染、アドリアンの所有田の一部を水滴一つ残さず干上がらせた。水を加えても加えても粘度を取り戻せなかった田地に、やっと水分が戻ってきたのが昨日の出来事。しかし地を湿らせるだけでは、水田は水田として機能しない。結果として干上がったそれらの田地は、田植えや代掻きをするより更に前、泥をかき混ぜる田起こしからやり直す必要があった。
牛が鞍をつけて、唐犂を引く。それを支えるセヴランの足元では、掘り返された泥が小さな畝を作っている。
それをちらりと視界に収めて、ノアはセヴランに語りかけた。
「ねえ、セヴラン。その唐犂を支える作業は大変ではないかしら。前に代掻きを手伝った時のように、わたしが代わるわ」
「え~、これくらい何ともないよ? てか代掻きの時だって、ほんとはおれ、ノアがすぐ根を上げると思って力仕事を譲ったんだよ。そんでおれが力持ちだってのをアピールするつもりだったんだよね」
「そうだったのね……」
単にノアの希望を素直に聞き入れたのだと思っていたが、まさかそのような思惑があったとは。力仕事を平然とこなすノアの姿に目論見が潰えて、セヴランはさぞ驚いたことだろう。
ノアが再び前を向く頃には、水田の端がすぐそこに迫っていた。ノアは牛を制止させ、セヴランに折り返す旨を伝える。
と同時に、ノアは足元の泥に何かが埋まっていることに気が付いた。それを拾い上げて、泥を魔法の火で洗い流すと、それはどうやら巻貝のようだった。中身は空っぽで、貝殻は黒ずんでいる。先日のノアの魔法で焼け焦げてしまったのだろう。あの業火は田地やノアたちの命を守るために放ったものだったとはいえ、田地に住む生き物にはたしかに申し訳ないことをした。
「ねえ、セヴラン」
「ん~? どったの?」
せめてこの巻貝の名前だけでも覚えておこうと、ノアは顔を上げてセヴランを見た。彼は唐犂を手動で前方に進めている最中だった。やがて顔を上げて、優しくノアを見上げる。
「うん。なあに、ノア」
「あのね。この巻貝の名前を教えて欲しいのだけれど――」
そう言ってノアがセヴランに貝殻を見せると同時に、セヴランがか細く息を吸った。彼の顔から生気が失せる。彼の手元から唐犂の取っ手が滑り落ちる。
「あ……で……」
「で?」
セヴランは片手を口元にあて、もう片手でノアの手元を指し、わなわなと身体を震わせながら、悲鳴にも似た大声を上げた。
「でっ、デカタニシが出たぁ――――ッ!!」
そういうわけで、突如としてあぜ道の上で開かれたのは対デカタニシ緊急会議である。参加者は主催のセヴランとデカタニシの亡骸の第一発見者ノア、田地の所有者のアドリアン。そしてセヴランの絶叫を聞きつけてやってきた近隣区域で仕事をしていた村人たちが若干名。
彼らはみな、例の不可視の害獣被害を語るときよりもかなり切羽詰まった様子であった。村人の中には明確に憤慨を顕にする人もいた。ノアが今も手にするデカタニシという俗名の巻貝は、どうやら村人たちの天敵であるらしい。
「あの、教えて欲しいのだけれど、いいかしら。そのデカタニシというのはどれほどの脅威なの?」
「ぶっちゃけ魔獣よりも恐ろしい天災」
「ええ……?」
その評価は流石に大袈裟だろう。たかが巻貝が、それほどまでに村を混乱に陥れるだろうか。しかしセヴランは深刻な面持ちで顔を横に振った。
「デカタニシを舐めてはいけないよ、ノア。やつらは食用旺盛で田植えしたばかりの幼苗を根こそぎ食べてくんだ。しかも繁殖能力がとんでもなく高くて、短期間にめちゃくちゃな数の卵を産む。気を緩めたらあっという間に田んぼが空っぽだ」
「田んぼが……空っぽ?」
まさかそのデカタニシとやらが幼苗を食いつくすのか。
それはれっきとした害虫被害だ。セヴランたちが焦って対策を講じるのにも納得がいく。
「そんな被害があるなんて知らなかったわ。わたし、害獣駆除のために村に派遣されてきた魔術師なのに……」
「ん〜、どうかな。ノアが知らなくても無理ないと思うよ。カンファーロでデカタニシが確認されるのは稀だし、大発生でもしないかぎり、領主に報告するほどの事柄でもないからね」
曰く、デカタニシは冷気に弱い。カンファーロのような冬期に雪の積もる地域では、春までに死滅することがほとんどなのだそうだ。ノースノヴァ皇国で最も温暖な
なるほど、とノアは頷いた。同時に疑問も生じた。
「話を聞く限り、このデカタニシの生態はカンファーロの気候に適していないわ。それがどうしてカンファーロにいるの?」
「……セントラル神聖国の南部地方では、食用貝として養殖されてるんだってさ。村長さん……マチアス義兄さんが教えてくれたんだ。学生時代に何度か食べたらしいよ。あんまり舌に合わなかったらしいけど……」
「ああ……」
凡そ事情を理解した。つまりデカタニシは昔、食用貝としてカンファーロに生きたまま持ち込まれたのだ。カンファーロの民の舌には合わず、勿論のこと売れなかったデカタニシは、その脅威を皆が知らぬまま野に放たれてしまった。それが細々と定着してしまったのだろう。
「幸いカンファーロの冬がデカタニシには厳しすぎたおかげで、繁殖はしなかったんだけどね。でも一つだけ、デカタニシが越冬できる方法があって」
「それが、泥の中に潜むことなんですよ」
セヴランの説明を引き継いで、一人の青年がノアたちに声をかけてきた。アドリアンだ。
アドリアンは灰色の髪をふわふわと揺らしながら、セヴランの隣に並んだ。
「改めまして、ノアさん。この度はおれの田んぼの仕事の手伝いをしてくれてありがとうございます。本当に助かるよ」
「いえ。わたしこそ、大切な田地を焼き尽くしてしまってごめんなさい」
「でも焼き尽くしてくれなかったら、今頃おれの田んぼにデカタニシが潜んでたかと思うと……」
ぶるっとアドリアンが身を震わせた。
「デカタニシはカンファーロの冬には耐えられない。でも冬を越えれば活動を再開できる。おれたちはそれを阻止しなければいけないんです。だから……」
はいどうぞ、とアドリアンは底の深い桶と
「一匹いれば付近に三十匹はいると思え。それがおれの祖母の教えです」
「……つまり?」
「見つけ次第、片っ端からノアさんの魔法で燃やしてくださると助かります。具体的には、用水路の泥を掘り返して駆除するのを手伝ってください。素手では触らないでくださいね。基本的に野生動物は病原体の温床ですし、やつらは特に寄生虫を抱えているので」
「わかったわ」
そう答えながらアドリアンの背後に目をやると、なるほど他の村人たちも鋤を構えてやる気に満ちている。仕事に余裕のある者が集まって、皆で用水路の泥をひっくり返す予定らしい。
ノアも意気込んで笑顔を浮かべるが、それに待ったをかけたのはセヴランだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。アドリアン、正気? ノアにそんな危険な仕事をさせるの? ノアがデカタニシを触っちゃったらどうすんの?」
「だからと言ってノアさんに田んぼの荒起こしを一人で任せるわけにはいかないよ。そっちは重労働だ」
「じゃあアドリアンが荒起こししなよ。おれはノアと一緒にデカタニシを駆除する。ノアがデカタニシを触らないように見張る」
「そういうわけにもいかないよ。おれはおれで、まだ今日中に終えたい田植えが残ってるからね」
「う、うぐっ……うう……!」
荒起こしよりも田植えの方が重労働だ。セヴランは悔しそうに顔を歪ませる。
「あの……セヴラン。わたしは害虫駆除も重労働も慣れているから、どちらでもいいわよ……?」
「どっちもよくない!」
うああ、と情けない声を上げてセヴランが頭を抱えて蹲ってしまった。手についた泥が彼の赤髪を汚すが、セヴランの頭の中は全くそれどころではないようだ。ノアは彼の頭に手を伸ばし、そっと泥を魔法で拭ってやる。
「……ノアをデカタニシに触れさせるくらいなら……ノアに荒起こしをしてもらった方が……でもそんな重労働をノアにさせるわけには……」
「セヴラン。戻ってきてちょうだい、セヴラン」
「……ああ、わかった。つまり両方おれがやればいいのか」
「だめだこりゃ」
アドリアンが首を振った。
「セヴランはおれが説得しておくので、ノアさんは先に他の方々に話を聞いて仕事を始めてきてください」
「そうね。お願いするわ」
「あ~! 待ってノア、おれを置いていかないで! おれのいないところでおれ以外の男に囲まれないで!」
「うるさいぞセヴラン!!」
ノアの背後でガツンと殴打音がした。アドリアンの言う説得がまさか物理の方だとは思っていなかったが、彼にお願いすると言ってしまった手前、ノアは見てみぬふりをした。
ノアは鋤と桶を抱えて、ノアを待つ村人たちの方へと駆け出した。
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