夜が明けた。

 干からびた田地とノアの謝罪を前に、アドリアン夫妻や村長たちは皆驚き目を丸くしていたものの、セヴランが言いふらしたノアの功績を聞くや否や、今度は揃ってノアを褒め称えた。


「ありがとうございます、領主様。……え? 堅苦しくしないで良い? そうですか。ノアさん、この度はありがとうございました。水田のことは気にしないでくださいね。……え? 修復を手伝う? それならお言葉に甘えようかな……」

「夫の言う通りです。わたしたちの田んぼが戦いの舞台になったなんて、むしろ光栄ですよ。今度セヴランと遊びにいらして。歓迎しますから」


 セヴランの友人アドリアンと、嫁のコレットの言葉である。セヴランの言っていたとおり、平和を象徴するかのような善い人たちだ。


「よくやった、ノア嬢! だが僕は魔法に詳しくないので教えて欲しい。それはつまり、害獣被害の問題は解決したということか⁉」

「いえ。マチアスさん。そうではないの」

「マチアス

「……」


 全くもって面倒な人だ。


「マチアス兄さん。わたしは被害をもたらしていた原因を突き止めて、一時的に大きく力を削いだだけよ。根本的な解決には至っていないわ」


 村長たるマチアスの言葉に、ノアは首を振って否定する。


「けれど正体と魔法の出処が判明したから、対策を取ることはできる。これからわたしが皆の田畑に応急処置となる魔法をかけてまわるから、次第に被害自体は数を減らすはずよ」

「……そうか」


 まだ何やら言いたげな様子ではあったが、それらを飲み込んでマチアスは頷いた。根本的な解決に至らなくても、被害が落ち着くのであれば、ひとまずはそれでいい。


 ノアの言う「応急処置となる魔法」をかけてまわる順番は、地中の魔力濃度の高い区域から行われることになった。

 ノアがあぜ道を歩きながら水田に魔法を降り注いでいく傍らで、セヴランが初等教育の教科書と睨めっこをしている。その背表紙にはマチアスの名前が刻まれていた。セヴランが神妙な顔でマチアスに相談事をする様子が容易に想像できて、ノアは少し笑ってしまった。教科書の貸し借りでも、ちょっとしたコントが繰り広げられていそうな二人だった。


「ねえ、ノア。ちょっと聞いてもいい?」

「いいわよ。どこが分からないの?」


 立ち止まって、ノアがセヴランの手元の教科書を横から覗き込んだ。ノアの髪がセヴランの腕にかかる。

 ひゅ、と頭上から息を呑む音が聞こえた。


「ちょっ……と、ノア、距離が近いかな! も少し離れよ? おれがかっこいいから近付きたくなるのはわかるけどさ?」

「あら、ごめんなさい。そんな意図はなかったの」

「……そこはそんな意図があってほしかったけどな?」


 セヴランは苦笑して、気を取り直して口を開いた。


「大したことじゃないんだけどね。分からないのは、今ノアが使ってる魔法だよ。ノアはこれを応急処置って言ってたけど、具体的には何をしてるの? さっきから火の粉みたいなのが水田に降りかかってるだけで、何も起きてないよ?」

「……端的に言えば、ガス抜き用の罠みたいなものね」


 本来ならばここで説明を終えてしまうところだが、セヴランはこれから魔術師を目指す身だ。もう少し深堀しても良かろう、とノアは判断して仕組みまで教えることにした。


「魔法が周囲の魔力をエネルギーにして、物体に宿る魔力の属性を変化させているという話は聞いたことがある?」

「うん。魔力には変換可能な四つの属性と、不変の一つの属性があるんだよね」

「その属性の種類は言える?」


 ノアが尋ねると、セヴランは自信満々に頷いた。


「変換可能な『地』『水』『風』『火』と、不変の『エーテル』だよね!」

「そのとおり」


 ノアも頷いて、言葉を続けた。


「泥の魔法は『地』と『水』の複合魔法。わたしは火属性の魔術師だから、相反属性の水に対しては相殺することでしか対処できない。昨晩のように水田の水を干上がらせたら泥の魔法に対処はできるけど、それだと稲作が立ち行かなくなる。だから応急処置として、『地』に作用することにしたの」


 ノアは水田に向かって手を伸ばす。セヴランによく見ているよう伝えてから、ノアが水田の土の一部を火に変えようとすると、そこから一筋の火の玉がひゅるひゅると打ち上がって、目の前でポンッと破裂音。小さく火花が散って、火の粉がひらひらと空に消えていく。そのまま水田には何の異変も起こらない。


「……えっ、なに今の。可愛いんだけど」

「魔力のエネルギーに反応して、自動でそのエネルギーを奪い取る魔法よ。それを地表に埋めているの。あまりに強大なエネルギーだと吸収しきれないけれど、昨晩の泥相手ならこの程度で十分だわ」

「説明ありがと。でも今は魔法のデザインについて聞きたいな? あの小さな花火ってノアが考えたの? ノアって可愛いもの好きなの?」

「違うわ」


 この魔法は火属性の低級魔法を応用したものだ。魔法の存在もデザイン自体も昔からあるものだから、あの可愛らしい見た目に関してノアに色々と尋ねるのはやめて欲しい。


「そっか。ノアの好みが知れると思ったんだけどな」

「そう……」


 ノアは生返事をして話題を流した。気を取り直して、「ちなみに」と魔法の解説を再開する。


「魔力には残滓という、人でいう香りみたいなものがあるの」

「香り?」

「そう、香りね。直前まで誰のどんな性質の魔力がそこに存在していたか、それを示すのが魔力の残滓よ。今回用いられている泥の魔法は、どうやらわたしの残滓に反応して、その周辺の魔力を取り込みやすい性質みたいだから、わたしがこうやって村中に魔法をかけて回るのはかなり効果的ね」

「……つまりこの泥を操る魔法の使用者は、ノアの香りを頼りにノアを追いかけまわしている不届きものってこと?」

「顔と発想が怖いわ、セヴラン」


 魔力の残滓を人の香りで例えたのは悪手だった。金輪際この表現は使用すまい、とノアは頭に刻む。


「本来、あの泥傀儡には、件の物見やぐらと同じ水属性の高級魔法――幻影の魔法がかかっていたと思うの。だから村人たちは視認できなかったし、物見やぐらでの偵察の時にも、わたしたちの目には泥の猪の姿が見えなかった」

「なるほど。じゃ、昨晩の泥たちも、おれたちの他に見えてる人はいなかったのか。あんな化け物を見ずに、ノアの綺麗な火の魔法だけを遠くから楽しめていたなんて羨ましいな」

「そうね……と言いたいところだけど」


 昨晩の戦いの中で、『水』の幻影の魔法と相反属性である『火』のノアの攻撃は、何にも相殺されずに泥そのものに放たれているように見えていた。それに、火の魔力を植物や魔獣が吸った時と同様の凶暴性を、あの泥人形たちは見せていた。

 つまり、だ。


「ノアの残した魔力の残滓の属性は『火』だから……それを取り込んだ泥の怪物たちには、相反属性の『水』の魔法が効きにくくなっていた……ってこと? ごめん、全然意味が分かんない」

「そうね……」


 詳細に語ると、魔力の保持がどうのこうの、生命体のエーテルがどうのこうの、という複雑な話になってくるため、ここでは割愛させてもらうとする。概念的には、およそセヴランの解釈で間違ってはいない。


 泥を操る魔法によって生み出された傀儡獣は、地中の魔力濃度の高い区域で主に猪の姿で発生し、苗を食い荒らしていた。

 しかしノアが村に来て以降は、どういうわけか、ノアが地中に残した魔力残滓に反応して、泥の傀儡獣が寄って来ていた。

 そこでノアが『火』の魔力そのものを地中に残すと、泥はそれを吸って凶暴化した傀儡を生み出し、その場にいたノアたちを襲った。ノアの『火』の魔力は『水』属性の幻影の魔法と相反するものだから、泥の傀儡は自らの姿を幻影で隠すことができなくなっていた。だからノアは泥をしっかりと視認したうえで、退治することができたのだ。

 まだ不明な点はいくつもあるが、ひとまず害獣被害の正体についてはこのようなまとめで良いだろう。


 それよりも、ノアにもセヴランに対してひとつ尋ねたいことがあったのだ。丁度よい機会だから、ノアはここで聞いておくことにした。


「ねえ、セヴラン。昨晩のことについて、わたしも聞きたいことがあるのだけれど、聞いていいかしら」

「えっなになに? きみを口説くことならやめられないよ?」


 やめる努力をする前にやめられないと結論付けるのは如何なものか。

 けれど目の前でお茶目に笑うセヴランが、どうしてだか薄氷のように危うげな雰囲気を纏っていたため、ノアはそれに関して言及するのをやめた。呆れて嘆息するにとどめる。


「わたしが聞きたいのはそれではないわ。あなたがわたしにしていた隠し事の話よ。害獣被害の犯人を見たことがあったのかという問いに対して、わたしはまだ答えを貰っていなかったから」

「ああ……なんだ。そんなこと?」

「そんなことって、あなたね」


 わざわざノアの忠告をも破って伝えに来るような、重大な隠し事ではなかったのか。

 ノアが訝し気な目をセヴランに向けると、彼は恥ずかしそうに首元に手を当てた。


「本当に、おれにとってはもうどうでも良くなっちゃったんだよ。おれさ、昔に一度だけ、水田から這い出た泥人形に襲われかけたことがあるんだ。でもそういう化け物が出たって言っても、村の誰も信じてくれなくて。今思えば、あの泥の化け物には物見やぐらにかかってたのと同じ、幻影の魔法がかかってたんだね。だから超至近距離にいたおれにだけが見えてたんだ」

「……それって何年前の話かしら」

「え? えっと。義兄さんがまだ村長さんになってない頃だから~……だいたい十年前かな?」

「そう……」


 だとしたら、泥を操る魔法は約十年前から行使されていたことにならないか。いや今回の被害は今年初めて起きたものらしいから、別人による仕業だろう。泥を操る魔法自体は、傀儡を生み出す類の魔法では最も手軽で簡単なものだ。十年前と現在で術者は異なると考える方が自然だ。

 だが、こうも胸騒ぎがするのは、何故だろう。

 黙り込んだノアに、セヴランが心配そうに声をかける。


「ねえノア、何か気になることがあるなら相談してよ? おれ、きみのためなら何でもするよ」

「……わたしの思い過ごしだろうから、今は良いわ」


 それよりも気になるのは。


「十年前ということは、当時のあなたは十歳にも満たない子供でしょう。よくトラウマにならなかったわね」

「いやいや、トラウマになったよ〜? 今回の被害がもしあの時と同じ泥人形か、それに似た何かだったらどうしようって、ここ数週間ずっと悪夢を見てる気分だったよ。それをノアに告げてもさ、信じてくれるとは限らないし、もし『そんな魔法はないわ』って言われた暁には……もう、ね?」


 ノアの物真似がやけに上手い。

 

「そう……ごめんなさい。そうとは知らずに、昨晩はあなたに怖い思いをさせてしまったわ」


 それならもっと気を遣ってやればよかった。火の壁で姿を隠してやったり、目を閉じているよう指示だってできたはずだ。自然と思い返されたのは、頬に泥をつけて呆然と立つセヴランの姿だ。泥が自分のもとへ飛び散ってきたとき、セヴランはどんな思いでいただろう。


「何で謝るの?」


 セヴランは困ったように笑った。


「言ったでしょ、もうどうでも良くなったって。だってノアが守ってくれたもんね」

「……本当に? 無理はしてない?」

「してない、してない! も~、そんなことよりさ、もっと魔法について教えてよ!」


 ほら次の田んぼに魔法をかけに行こ、とセヴランがノアの背中を押した。

 隠し事自体についてはどうでもよくなった反面、今度はどうでもよくなった理由の方を隠したくなったようだ。何はともあれ、彼のトラウマが払拭されたのなら良かった。

 ノアはくすくすと笑って答える。


「魔法について教えるのも良いけれど、先にその初等教育の教科書を読み終えた方がいいのではないかしら」

「うっ、ノアって結構さ、あれだよね、意地悪だよね」

「心外だわ」


 そう言いながらも楽しそうに笑うノアに、セヴランは諦めたように首を振って、いつの間にか閉じていた教科書を再び開いた。

 そしてノアが上機嫌に水田に火の祝福を降らしていく様子を、時たま顔を上げて眺めながら、セヴランは眩しそうに目を細める。


「あ〜あ。ほんと、昨日まではこんなつもりじゃなかったのにな」


 ――大丈夫よ、セヴラン。怖くはないわ。わたしがあなたを守るから。

 ――しつこいわよ。――失せなさい。


 頬を抱く熱気。舞い上がる篝火。星々を掻き消す強烈な煌めき。

 目を閉じれば容易に昨晩の出来事を思い返すことができた。あの日あの晩、セヴランは世で最も美しく輝く一等星を見た。


「……なんとかして、おれのものに、ならないかなぁ……」


 あの瞬間からずっと胸がじりじりと焦げるように熱いのだ。

 その熱を肺から逃がすようにして、はぁ、と青年は教科書の下で息を吐いた。

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