一瞬の出来事だった。

 爆風があぜ道の上に立つ二人を襲った。目の前の泥の龍は眩い光に呑まれて姿が見えない。だが確認せずとも、泥の脅威は去ったに違いなかった。ノアはそれほどの威力の魔法を放った。

 背に庇っていたセヴランはどうなっただろうと、ノアは真後ろを振り返った。泥に放った砲弾は次第に光力を失い、土は篝火となり星空に舞い上がっていく。その火の粉の一部がセヴランに降りかかり、それを目で追ったノアは、おやと目を瞬かせた。


「泥が顔についてるわ、セヴラン。ごめんなさい、あなたには指先一つ触れさせないつもりでいたのだけれど……まだ甘かったみたいね」


 ノアが得意とする火の魔法は攻撃に特化している。攻撃は最大の防御とは言うが、味方に鉄壁の守りを提供するという点においては、やはり防衛に特化した水の魔法には遠く及ばないようだ。

 ぼんやりとしたままのセヴランに近付いて、ノアは彼の頬についている泥を指で拭い、火の粉に変えて空に飛ばしてやった。先程からセヴランが紅潮して瞳を潤ませているように見えるのは、背後で未だ空に舞う炎のせいか、それとも火の魔法が彼には熱かったせいか。


「……セヴラン?」


 ともすれば恍惚しているかのような様子のセヴランに、ノアは心配になって顔を覗き込む。もしや何か粗相があっただろうかと不安になった彼女だったが、すぐにセヴランが我に返って「だっ、大丈夫!」とのけぞったので、その言葉を信じて安堵の息を吐いた。

 どこか落ち着きのない様子のセヴランは、首元に手をやって視線をうろうろと彷徨わせる。そしてノアの背後に何かを見つけた様子でうわあ、と感嘆の声をもらした。


「すごい。完全に田んぼが干上がってる……」

「泥は土と水が混ざったものだもの。泥の傀儡を生み出す魔法なら、これは地と水の複合魔法だろうから、火で水を全て消してしまえば再生はしないだろうと思ったの」


 魔法の根幹を絶ったわけではないが、相手も幻獣たる龍を模した泥傀儡を生み出すのにかなりの体力を消費しただろう。大気中にはまだ水分が残っているし、他の水田には大量に泥があるとはいえ、しばらくは襲ってこないはずだ。


「あ、あのさ、ノア」


 どこかぎこちなくセヴランが話を持ち掛けてくる。


「さっきの火の魔法、すごかったね。今回、泥が襲ってくるって分かってたから、ノアは初めに魔法で何か仕込んでたの?」

「いいえ。あなたと話している時に地中に仕込んでいた魔法は、全くの別のものね。魔力操作の逆探知のために糸を張り巡らせていたの」

「逆探知? それって……」

「そうね。本来ならば、先程の泥の魔法が、誰によって行使されたものかが分かるはずだったのだけれど……」


 ノアが干上がった田んぼを見下ろした。つられてセヴランも土に目をやる。

 星空を映していた水田は、暗闇でもわかるほどカラカラに干上がり、ひび割れている。ノアの視線は、その土の奥に注がれていた。魔法の逆探知の糸の先は――地中だった。


「犯人はわからなかったの?」

「そうね……事態はわたしが思うより複雑みたい」


 ノアの張り巡らせた魔力の糸が細工された痕跡はないし、相手に細工されるような時間は与えなかった。となれば、魔法の術者は地中にいることを視野に入れる必要がある。どういうことだ、わからない。

 仮に地中の奥深くに何かが埋まっているのだとしたら、地属性の魔術師を呼ぶ必要がある。火属性の魔術師のノアは土を火に変えることはできても、火を土に変えることはできないのだ。地中の奥底を調査する手段はないに等しかった。


「呼ぶとしたら、知り合いの方がいいかしら……」


 仕事の連絡にいちいちレイゼル辺境伯を挟んでいては時間の無駄だ。かといって、父も認める地属性の優秀な魔術師で、ノアと直接連絡の取れる者と言えば、一人しか思いつかない。皇都の学園からの友人である地属性の宮廷魔術師の男。だが根っからの出不精の彼が、わざわざこの田舎まで来てくれるだろうか。それに、宮廷魔術師をこの地に呼んでしまえば、過度に隣国を警戒させてしまうことに繋がらないだろうか。

 うんうんとノアが悩んでいると、背後でセヴランが「あのさ」と慎重にノアに声をかける。


「……おれ、たしかに頼りないし、学も魔法の才もないから、何もできないかもしれないけど。協力できることがあるかもしれないから、その……」


 カンファーロ。学と魔法の才。宮廷魔術師。

 それらの言葉を並べて、ノアは電流が走ったかのような錯覚を覚えた。


「……そうだわ! その手があるじゃない!」


 そのままノアはセヴランの両手を掴む。彼はわかりやすく硬直した。

 気のせいだか、拘束した彼の両手が熱い。よく見ればセヴランの目元もほんのり色づいている。先程の戦闘ではそんなに火の温度を上げすぎていただろうか。いやいや、とにかく今はそんなことはどうでもよくて。

 僅かに裏返った声で「ど、どしたの?」と尋ね返してきたセヴランに、ノアは目を輝かせて彼の顔を覗き込んだ。ひく、と彼の喉が引き攣った気がした。


「セヴラン。魔法を学ぶ気はないかしら」

「……へ?」

「皇都には魔法を学べる国立教育機関があるの。名目上は試験にさえ合格できれば誰でも入学できて、卒業と同時に魔術師の称号を与えられるわ。そこで秀でた成績を収めれば宮廷魔術師だって夢じゃないし、レイゼル辺境伯の魔術師兵志願をすれば、カンファーロ駐在魔術師にだってなれるわ」


 カンファーロのために役に立ちたいセヴランにぴったりだ。名案だとノアはひとり満足げに頷くが、セヴランの反応は芳しくなかった。


「それって……皇都の学校を出るってことだよね? 提案は嬉しいけど、おれ、文字もあんま読めないくらい馬鹿だし、魔法なんてもっと分かんないよ」

「でも計算は得意で、この村で村長さんの次に情報通なのでしょう?」


 稲作だって、全てではないとはいえ、ノアに作業内容を教えられたのだ。勉強してこなかっただけで、頭が悪いわけではないはずだ。

 ノアがあっけらかんと答えると、セヴランはわかりやすく狼狽えた。彷徨わせる視線は明確に迷いを顕にしている。


「心配しないで、初等教育と魔法の基礎はわたしが教えるわ」

「えっ⁉」

「え?」


 今の提案は彼の声が裏返るほどのものだっただろうか。ノアがセヴランに将来の選択肢を提供した以上、ノアが彼の面倒をある程度見るのは当然のことだ。

 ノアがセヴランを不思議そうに見つめていると、彼は恥ずかしそうに顔を赤く染めて、咳払いをした。


「でもさ。そういう皇都の学校って、入学金とかも必要なんじゃないの。いくら国立の機関とはいえ、無料ってわけじゃないでしょ?」

「学費に関しては返済不要の奨学金制度があるわ。試験料については、そうね……あなたがわたしのもとで勉強して、見込みがあると判断できたら、わたしの名で推薦状を出してあげる。それで試験料は免除ね。あなたに学園での後ろ盾もできるし、一石二鳥だわ」


 とんとん拍子でセヴランに都合のいい話が進んでいく。彼は長いこと悩んでいたが、やがて深いため息をついた。

 ノアはセヴランの手を離し、彼に向き直り、彼の返事を待った。


「うん……わかったよ。ノアが教えてくれるなら、勉強も続けられそうだしね」

「あら。諦めた過去があるの?」

「まあね……ほら、おれの隣にはずっと村長さんがいたからさ」


 勉学の面においては比べられていたのだろう。それが義兄に劣っていた故か優れていた故かは分からないが、どちらにしてもセヴランのような若者にとっては苦痛だったに違いない。

 なるほど、とノアが相槌を打つと、セヴランは打って変わってぱっと表情を変えた。


「ありがとう、ノア。おれ、頑張ってみるよ。応援しててね」

「ええ。わたしがこの村にいる間は、わたしも全力でサポートするわ」


 そして彼は何か調子のいい言葉を続けるのだろう。彼がこのわざとらしい人懐こい笑みを浮かべている時は、大抵がふざけている時だ。

 けれどセヴランの口から発せられたのは、「うん」という大層幸せそうな頷きだった。


「宮廷魔術師の肩書きを得られたら、ノアの隣に堂々と立てるもんね」

「セヴラン……」

「うん、なあに?」


 星空の下でセヴランの赤髪が柔らかく揺れた。


「……もう辺境伯令嬢を手駒に収める必要はないし、もし上昇婚がしたいのなら学園に集うご令嬢を狙うといいわ。宮廷魔術師になればもっと人気が出てお見合い話も殺到する。あなたの将来のためにも、何の実権も持たない辺境伯の末の娘を口説くのはやめにしなさい」

「……………」


 セヴランの身にピシッと石に亀裂が入ったかのような錯覚を覚えた。彼は甘い表情のまま顔から感情を削ぎ落すという、何とも器用な技を披露してから、深い深いため息をついた。


「念のため聞くけど……そうノアが考えた根拠って、何……?」

「何って……あなたが自分で言っていたじゃないの。わたしを口説くのはカンファーロを守るための行動だったって」

「だよねえ~~!!」


 わっと顔を手で覆ってセヴランが項垂れる。


「……なぁんで、あんなこと言っちゃったかなぁ! 半刻前のおれのばか……!」


 ぶつぶつと何やら呟いているが、その言葉まではノアの耳に届いていない。尋常でないセヴランの落ち込みように、ノアは訳も分からず慰めようと言葉を探す。しかしそれも束の間、彼がぱっと顔を上げた。

 いつもの人懐っこい笑みだ。

 よかった、とノアは安堵した。だがノアはその判断をすぐに撤回した。

 セヴランはたしかにいつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。しかしいつもと違って、その瞳には僅かな怒りを宿していた。敵意ではない。もちろん殺意でもない。悪意のない怒りなど初めてだ。初めて向けられる感情に、ノアは硬直した。さながら蛇に睨まれた蛙のように。


「ど、どうしたの、セヴラン……?」

「なんでもないよ!」


 ここまで空虚な「なんでもない」は聞いたことがない。ノアは戦慄する。


「いや〜ごめんね、ノア。おれってば、ノアを口説くのすっかり癖になっちゃったみたいで!」

「え、ええ……今後やめられるといいわね……?」

「うんうん、だからさ」


 セヴランはうっそりと目を細めて言った。


「これからもきみを口説くかもしれないけれど――寛大な心で、許してね?」

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