七
一瞬の出来事だった。
爆風があぜ道の上に立つ二人を襲った。目の前の泥の龍は眩い光に呑まれて姿が見えない。だが確認せずとも、泥の脅威は去ったに違いなかった。ノアはそれほどの威力の魔法を放った。
背に庇っていたセヴランはどうなっただろうと、ノアは真後ろを振り返った。泥に放った砲弾は次第に光力を失い、土は篝火となり星空に舞い上がっていく。その火の粉の一部がセヴランに降りかかり、それを目で追ったノアは、おやと目を瞬かせた。
「泥が顔についてるわ、セヴラン。ごめんなさい、あなたには指先一つ触れさせないつもりでいたのだけれど……まだ甘かったみたいね」
ノアが得意とする火の魔法は攻撃に特化している。攻撃は最大の防御とは言うが、味方に鉄壁の守りを提供するという点においては、やはり防衛に特化した水の魔法には遠く及ばないようだ。
ぼんやりとしたままのセヴランに近付いて、ノアは彼の頬についている泥を指で拭い、火の粉に変えて空に飛ばしてやった。
一方で幻想的な絵に目を奪われていたセヴランは、突然目の前にやってきたノアの指の感触に身体が震えて、勢いよく飛び退いた。
ノアが心配そうな顔をしている。何か場を和ますことを言いたかったが、言葉は空しく吐息となって漏れ出ていってしまった。先程からずっと頬が熱い。指で触れられたところから、全身に熱が回るようだった。視界が潤む。咄嗟に両手で顔を覆い俯いた。けれど指の隙間から見え隠れする足元ははっきりと火の明かりに染まっていて、セヴランには逃げ場がなかった。
ああ、まるで。
まるで強烈に輝く一番星のようだ。
「……セヴラン?」
流石にセヴランの奇行を訝しんだらしいノアが、一歩セヴランに近づいて彼の顔を覗き込む。反射的にセヴランは顔を上げて、「待って!」と手を前に突き出して、彼女を制止させた。
これ以上近づかれると、だめだ。何がだめかわからないけど、とにかくだめだ。
とにかく今は気を逸らさなければならない。セヴランは素早く周囲を見渡して話題を探す。そして都合よく目に入ったのが、消えかけている残火と、それに照らされている乾燥した田地だった。
セヴランはそこに駆け寄って、改めて田地を観察する。ノアもそれに倣って、自身が干上がらせた田地に目を落とした。
「うわあ、見れば見るほどすごいね。田んぼがからからに干上がってるよ……」
「泥は土と水が混ざったものだもの。泥の傀儡を生み出す魔法なら、これは地と水の複合魔法だろうから、火で水を全て消してしまえば再生はしないだろうと思ったの」
「……周囲の田んぼにはまだ泥が残ってるよ?」
「良い着眼点ね。大がかりな魔法を行使するには相応の体力がいるの。相手は今回、幻獣たる龍を模した泥傀儡を生み出すのにかなりの体力を消費したはずだわ。大気中にはまだ水分が残っているし、他の水田には大量に泥があるけれど、しばらくは襲ってこないはずよ」
「なるほど。魔法って意外と体力勝負なんだね……」
話題が尽きた。
いつもはどう会話を続けていただろうとセヴランは頭を悩ませるが、結局上手い言葉が出てこずに沈黙が続く。
「……あ、あのさ、ノア」
最後の火の粉が舞い上がって消えたのを見届けてから、やっとのことでセヴランは口を開いた。予想以上に声が震えてしまったが、首に手を当てて何でもないふうを装いつつ、努めて明るく彼はノアに笑いかけた。
「さっきの火の魔法、すごかったね! 今回、泥が襲ってくるって分かってたから、ノアは初めに魔法で何か仕込んでたの?」
「いえ。あなたと話している時に地中に仕込んでいた魔法は、全くの別のものね。魔力操作の逆探知のために糸を張り巡らせていたの」
「逆探知? それって……」
「そうね。本来ならば、先程の泥の魔法が、誰によって行使されたものかが分かるはずだったのだけれど……」
ノアが干上がった田んぼを再び見下ろした。つられてセヴランも土に目をやる。
眩い炎が未だ瞼に残っているセヴランには、火の光の消えた今、ひび割れていた田地が見えない。けれどノアの言いたいことは漠然と理解できた。ノアの視線は、その土の奥に注がれていた。魔法の逆探知の糸の先は――地中だったのだ。
「犯人はわからなかったの?」
「そうね……事態はわたしが思うより複雑みたい」
張り巡らされた魔力の糸が細工された痕跡はないし、相手に細工されるような時間は与えなかった。となれば、魔法の術者は地中にいることを視野に入れる必要がある。どういうことかしら、わからないわ……
そう呟く彼女を、魔法の知識のないセヴランは見守ることしかできない。
「呼ぶとしたら、知り合いの方がいいかしら……」
「えっ」
誰を呼ぶというのだろう。セヴランの頭は断片的な知識から高速に仮説を編み出した。
魔法の属性には少なくとも火、水、地がある。ノアは火属性の魔術師なのだと言っていた。今回の魔法は地と水の複合魔法で、術者は地中にいる可能性を視野に入れる必要がある。もしや地属性の魔術師を呼ぶつもりでいるのだろうか。
問題解決にまた一歩近づくのは喜ばしいことだ。セヴランも村の人たちもそれを望んでいる。だが、そのために地属性の魔術師が来るのだとしたら。これの解決のためには地属性の魔術師が必要なのだとしたら。
そうだとしたら、今までカンファーロで調査してくれていた火属性のノアは――
「ま、待って!」
――帰ってしまうかもしれない。
「い、行かないで、ノア」
「……何の話かしら」
咄嗟にノアの腕を掴んでいたセヴランは、己の醜態にはっと顔を赤くした。これではまるで赤子のようではないか。第一に、ノアとセヴランでは身分も立場も、背負っているものも違う。セヴランがどれだけ縋りついたって、辺境伯令嬢のノアは近いうちにカンファーロを発つ運命にある。ただの農夫が夜空に手を伸ばしたって、天上の一等星には決して手が届かない。
それを重々承知で、だからこそ相手から手を伸ばしてもらうために、この一週間ものあいだ弁えて口説いてきたというのに!
「セヴラン、どうしたの? さっきから様子がおかしいわ。泥に襲われて混乱しているの?」
「ちが、違うんだよ、ノア……」
ノアの優しい声に、セヴランは羞恥で顔を覆って俯いた。すると彼女はあやすように頭を優しく撫でてくるのだから、セヴランはどうにかなってしまいそうだった。
全部あの魔法のせいだった。彼女の放つ業火が、強烈に輝くから。ゾッとするほど美しい炎だったから。
そう、魔法。
――なるほど。魔法か。
「……ねえ、ノア。魔法って誰にでも扱える?」
「そうね。理論上はどんな生命体でも魔法を行使できるわ」
「なら、おれも魔術師になれる?」
顔を上げたセヴランの真剣な瞳がノアを射抜いた。ノアはそれを受けて、考える素振りを見せる。
セヴランはその仕草を、単純にセヴランの能力を推し量っているのだと思っていた。だが実際には少し異なっていた。ノアはその先を見据えていた。
「……皇都には魔法を学べる国立教育機関があるの。名目上は試験にさえ合格できれば誰でも入学できて、卒業と同時に魔術師の称号を与えられるわ」
その試験の内容もさほど難しいものではない。皇国の中等教育レベルの筆記試験と、最低限の魔力を操作できるだけの魔法の才能さえあればいい。筆記試験はマチアスに教わることができるし、魔法に関しては余程適正がないかぎり魔力操作だけならば数日あれば十分だ。
入学金や授業料、衣食住に関しても、皇都の国立教育機関だけあって奨学金制度を含めた福利厚生が充実している。いかにセヴランが農民といえど資金的にも問題はないはずだ。
問題は、別のところにあった。
「……おれ、頑張って勉強するよ。今は文字もあんま読めないくらい馬鹿だし、魔法なんてもっとわかんないけど……」
「でも計算は得意で、この村で村長さんの次に情報通なのでしょう? それについては心配していないわ」
稲作だってその全てではないとはいえ、ノアに作業内容を教えられたのだ。勉強してこなかっただけで頭が悪いわけではないはずだ。ノアがあっけらかんと答えると、セヴランはわかりやすく狼狽えた。
ノアに険しい顔をさせているのは別の要因だ。
「……言ったでしょう、名目上は誰でも入学できるって。皇都の教育機関を出ることは貴族のステータスの一つでもあるから、入学だけなら誰でもできる魔法学園では貴族の後ろ盾がないと……」
ぐ、と苦い顔でノアが続きの言葉を飲み込んだ。
「いえ。将来カンファーロの役に立ちたい将来有望な魔術師のためだもの、そこはわたしが何とかしないとね。セヴランは勉学に専念するといいわ。わたしも協力するから」
「……今更だけど、ノアはおれが魔法を学ぶことに反対しないんだね」
文字も満足に読めない農民を皇都の学校に入れる手筈を立てるなんて、冗談でも正気ではない。それはノアもセヴランもわかっているはずで、だからこそノアは彼の本気を感じ取ったのだが、彼は違ったのだろうか。
「そうね……それなら、一応聞いておこうかしら。セヴランはどうして魔法を学びたいと思ったの?」
「……笑わない?」
「笑わないわ」
人の夢を笑うようなことはしない。
ノアが頷いて続きを促すと、セヴランは僅かに顔を赤くして、「カンファーロを守る魔術師になりたくて」と答えた。
「素敵な夢ね」
「ほんと? お前には無理だとかって思わない?」
「どうして思うの? あなたのカンファーロの役に立ちたい気持ちは本物だもの。それが報われる日は必ず来るとわたしは信じているわ」
「え~! どったのノア、おれのことめちゃ肯定してくれるじゃん!」
そして彼は何か調子のいい言葉を続けるのだろう。彼がこのわざとらしい人懐こい笑みを浮かべている時は、大抵がふざけている時だ。
けれどセヴランの口から発せられたのは、「ね、ノア」という大層幸せそうな囁きだった。透き通った灰色の瞳が、蜂蜜のように蕩けてノアに向けられた。
「おれが一人前の魔術師になったら、ノアの隣に立つ権利をちょうだいね」
「セヴラン……」
「うん、なあに?」
星空の明かりを受けながら、セヴランの赤髪が柔らかく揺れた。
「……もう辺境伯令嬢を手駒に収める必要はないし、もし逆玉の輿というものがしたいのなら、学園に集うご令嬢を狙うといいわ。もし宮廷魔術師になればもっと人気が出てお見合い話も殺到する。あなたの将来のためにも、何の実権も持たないわたしのような小娘を口説くのはやめにしなさい」
「……………」
セヴランの身にピシッと亀裂が入ったかのようだった。甘い表情のまま顔から感情を削ぎ落すという何とも器用な技を披露して、やがて瓦礫が崩れるように動き出したかと思うと、彼は随分と落ち込んだ様子で絶望に染まりきった声を出した。
「念のため聞くけど……そうノアが考えた根拠って、何……?」
「何って……あなたが自分で言っていたじゃないの。わたしを口説くのはカンファーロを守るための行動だったって」
「だよねえ~~!!」
わっと顔を手で覆ってセヴランが項垂れる。
「……なぁんで、あんなこと言っちゃったかなぁ! 半刻前のおれのばか……!」
ぶつぶつと何やら呟いているが、その言葉まではノアの耳に届いていない。尋常でないセヴランの落ち込みように、ノアは訳も分からず慰めようと言葉を探す。しかしそれも束の間、彼がぱっと顔を上げた。
いつもの人懐っこい笑みだ。
よかった、とノアは安堵した。だがノアはその判断をすぐに撤回した。
セヴランはたしかにいつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。しかしいつもと違って、その瞳には僅かな怒りを宿していた。敵意ではない。もちろん殺意でもない。悪意のない怒りなど初めてだ。初めて向けられる感情に、ノアは硬直した。さながら蛇に睨まれた蛙のように。
「ど、どうしたの、セヴラン……?」
「なんでもないよ!」
ここまで空虚な「なんでもない」は聞いたことがない。ノアは戦慄する。
「いや〜ごめんね、ノア。おれってば、ノアを口説くのすっかり癖になっちゃったみたいで!」
「え、ええ……今後やめられるといいわね……?」
「うんうん、だからさ」
セヴランはうっそりと目を細めて言った。
「これからもきみを口説くかもしれないけれど――寛大な心で、許してね」
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