結局、村長の家には夜までお邪魔してしまった。具体的には夕飯も一緒に頂いて、風呂も借りて、夜間の見回りに備えて数刻ほどの仮眠まで取らせていただいてしまった。

 ノアは深々と頭を下げて礼を告げながら、彼らの家を後にする。セヴランはついて来たがったが、危険だからと同行を却下した。昨晩の段階では漠然としていた推測も、今は既に情報が出揃い、先の調査で確信が得られるものとなった。今晩が正念場だ。ノアは気を引き締め直した。


 見慣れたあぜ道を足取り確かに進んでいく。水面で星空が揺れている。若い苗が白く輝く。頭上を確認すれば、丸い月は東の空にあった。まだ問題の時間まで、余裕がありそうだ。

 思い返されるのは、昨晩の見張りで感じた僅かな大気中の魔力濃度の揺れだ。魔力はこの世の物質全てに宿っていて、魔法はその魔力をエネルギーとして対象の物質を操ったり変化させたりする。つまり、昨晩の月が西に傾いてしばらく経ったあの時間に、魔法が行使されたと考えるのは妥当だということ。


「……どのような魔法が行使されたのかは、想像がつく。問題は魔法を使ったのか、ということね」


 それを探るために、あわよくば犯行現場を押さえて取り締まるために、ノアは今ここに立っている。

 ノアが辿り着いたのは、今日の昼過ぎにノアが手伝った田地だった。目の前には代掻きをして再び平らになった土地がある。一見はただの何も植わっていない水田だが、ノアの目には水田の中に、等間隔の魔力の塊が埋まっているのが見える。

 あの魔力の塊こそがノアの仕掛けた餌なのであった。ノアは昼過ぎの手伝いで田地の苗を取り除く作業を行いながら、苗と同じ場所の奥深くに『ノアの魔力を施した』苗の根元を再び埋めていたのだ。


「被害区画は、魔力濃度の高い水田に偏る傾向にあった。わたしが来てからは、わたしの手伝った田地の周辺に集中していた」


 均衡状態に戻りやすい大気と違い、地中の魔力は一度消費すると均衡状態に戻るのに数日はかかる。だから村長を始めとした村人の目には、これが無作為的な被害として映っていた。

 ノアが来てからは、ノアが地中に手を埋めた時に残ったノアの高い魔力残滓に反応して、被害区画が偏ったのだろう。稲作は隠密活動でもなし、微量の魔力なぞ垂れ流していても平気だろう、むしろ地中の魔力の糧となって良かろうと、気を緩めて作業していたことが返って手掛かりの決め手となった。

 ノアの推測が正しければ、相手は今晩、必ずこの水田の周辺区域を狙いに来る。


「あとは……仕上げの罠を張る作業ね」

「ノア!」

「……」


 危険だからと同行は却下したはずだ。どうして背後からセヴランの声がするのだろう。


「……よくここが分かったわね、セヴラン。もしかしてあなたが犯人なのかしら?」

「えっ」


 嫌味たっぷりな返事と共にノアが振り返ると、そこには目を丸くしたセヴランがいる。ノアに端正な笑みで見つめられたセヴランは、ノアに疑われていることを徐々に自覚したのだろう、みるみるうちに顔を青くした。


「ち、違うよ、ノア。本当に違うんだ、おれじゃない。おれはただ……」


 何かを言いかけて、セヴランが口を噤んだ。可哀想なほど顔面蒼白にして、伏せられた目の焦点は忙しなく揺れ動いている。

 これは尋常ではない、とノアは判断した。彼は何を言いかけたのだろう。


「……まあ。来てしまったものは仕方がないわね」


 頭上を確認すれば月は真上から僅かに西に傾き始めている。昨晩の魔力が揺れ動いた時刻まで、あと半刻といったところか。今晩も同時刻に魔法が行使されるとは限らないが、時間に余裕がなくなってきていることは確かだった。

 ノアはセヴランに、自分の隣に来て、座るよう促した。


「時間がないから、魔法を使いながらで良ければ話を聞くわ」

「おれのこと、疑わないんだ? そうやってノアが他所に目を向けているうちに、刃物でぶすっと刺しちゃうかもよ?」

「たかが刃物程度で、わたしが傷つけられるわけないじゃない」

「う〜ん、なんか釈然としないけど……まあいいか。あのね、ノア。おれ、ずっとノアに隠してたことがあって」


 それを言うために、わざわざノアを追いかけたというのか。この区域は森や川に近くないとはいえ、月明かりだけが頼りな田地の合間を一人で出歩くことがどれだけ危険か、セヴランが知らないはずもないというのに。


「別に話したくなかったら、話さなくたっていいのよ。わたしだって、セヴランには隠し事ばかりだもの」


 例えば今、ノアが田地に向かって手を広げているのは何故か、とか。ノアとセヴランの周囲に燃えない火の粉が上がっているのは何故か、とか。ノアが何を見据えて何をしようとしているのか、ノアはセヴランのためを思って、一切何も話してはこなかった。


「……話さないわけには、いかないよ」


 セヴランが夜の空に舞う火の粉を眩しそうに眺めながら言う。


「村長さん……マチアス義兄さんも、モルガーヌおばさんも、良い人でしょ。寛容で、聡明で、愛情深くて。非の打ち所がない。ヴァレリーも二人に似て、将来は美人で優しい女性になるだろうね」

「……?」


 突然何の話だろう。ノアは疑問に思うが、目前の作業から目を離さず、彼の言葉の続きを静かに待った。


「近所に住むアドリアンはね、年が近いからって理由で、昔からおれのこと気にかけてくれてたんだ。昨年度にコレットさんと結婚して、今度第一児が産まれるんだ。めでたいよね。コレットさんのお兄さんは好奇心旺盛な人で、今は魔法原理に興味があるんだって。ノアと話したいけど機会に恵まれないって嘆いてたよ。今度紹介してもいいかな」

「……それは、ええ、勿論いいけれど」


 このままではただの雑談だ。彼の発言意図がわからない。

 ノアがふと隣下を見ると、セヴランは今にも泣きそうな顔をしていた。


「おれね、カンファーロが好きなんだ。おれを受け入れてくれたカンファーロの皆が好き。だからおれ、皆を守るためなら何でもするよ。どんな役を担ったって構わない。村のためなら……おれはおれの未来も、夢も、命すら、差し出したっていい」

「……その自己犠牲的な献身は、あまり褒められたものではないわね」

「はは、ノアも義兄さんたちと同じこと言うんだね。でもほら、村には既に聡明な義兄さん……村長さんがいるでしょ。だからおれが村のためにできることって、本当に少なくて」


 ふっとセヴランが自嘲して、その痛々しい顔のままノアにお茶目に笑いかけた。


「おれにできることといえば、せいぜいこの顔を活かして、もしかしたら暴君かもしれない辺境伯令嬢を予め手駒にしておく程度だったんだよね?」

「……あなた、よく馬鹿だって言われない?」

「へへっ、それほどでも」

「褒めてないわ」


 でもこれで、彼が執拗にノアに声をかけてきていた理由がわかった。同時にノアがモルガーヌにかけられた言葉――ノアちゃんが良い子で本当に良かった――の違和感の正体も判明した。

 ノアがカンファーロに来る以前、村人たちはノアを警戒していたのだ。よくよく考えてみれば当然のことだ。こんな田舎も田舎なカンファーロに、辺境伯令嬢が単身で真っ当な理由でやってくるはずがない。害獣被害の解決のための派遣というのは建前で、裏ではきっと皇都で追放か謹慎処分でも喰らったのだろう――


「だからあなたはわたしを口説き落として、カンファーロで好き勝手しないよう手中に収めるつもりでいたと」

「そうだね、それが最初の理由。で、次第にノアは本当に害獣被害の解決のために派遣されたんだって分かったから、次はノアに拾ってもらうことで権力を手に入れて、カンファーロを政治的に守る作戦に切り替えたんだよね」

「……外交はそう簡単な問題ではないわ」


 しかもノアは辺境伯の末の娘だ。仮にセヴランがノアに婿に迎えられたとして、レイゼル辺境伯領はおろか、カンファーロでの実権すら握らせてはくれないだろう。


「けれど、あなたの村へ恩返しをしたい気持ちは理解したわ。だからってわたしに娶られるのは、良策だとは言えないけれど」

「だよねえ……」

「で? それがあなたの、本当にわたしに伝えたかった隠し事なのかしら」


 ノアがセヴランに微笑みかけると、ぎくりとセヴランが肩を強張らせた。


「セヴランは村を守りたい。守ることで恩返しがしたい。その気持ちは伝わったわ。けれどそれは……『村に脅威が迫っている』と知っているから出てくる言葉よね」

「……そうだね」


 セヴランは俯いて、首元に右手を添えた。


「前にさ、おれには物見やぐらが見えてるのかって、ノアはおれに聞いたよね。実を言うと、はっきりと見えているわけじゃないんだ。距離が近ければ近いほど、靄が晴れていくように見えるようになるだけで、遠く離れていると皆と同じように、見えなくなる」

「……もしかして、あなた。今回の害獣被害の犯人を見たことがあるの?」

「犯人って、いうか――」


 刹那。ひりっと肌を焼くような殺意が、ノアに向けられた。

 ノアは反射的に背後を振り返り魔法を放つ。指先から業火が放たれ、それはすぐ近くで轟音と共に爆散する。

 眩い残火に照らされ浮かび上がったのは人型の泥人形だった。べちゃっと音を立てて崩れ落ちるその背後で、水田から何かが這い出すように、ずるりずるりと大小さまざまな塊が頭をもたげていく。


「……あ」


 その光景を一足遅れて現実だと認識したらしいセヴランは、恐怖に満ちた瞳のまま、息を呑んで後退りをした。その先にあるのはあぜ道の崖だ。ノアは咄嗟にセヴランの手を掴んで強引に引き寄せた。

 彼をかばうようにして背中に手を添え、中腰のまま目を白黒させるセヴランに、ノアは凛と告げる。


「セヴラン。わたしから離れないで」

「え」


 ノアの周囲で爆音が立て続けに鳴った。強烈な火の爆撃が絶えず泥の塊に叩きつけられる。周囲の水田から湧き出す泥の猪、鹿、熊、そして人型のナニカが、炎に壊されぼとぼとと泥に還っていく。しかし泥は伸縮を繰り返し、絶えずノアたちに殺意を向ける。

 ずる、と、また周囲の水田から泥のもたげる音がした。


「……キリがないわね。セヴラン、この辺りの田地の所有者はどなた?」

「え⁉ えっと……この周辺は全部アドリアンの、かな……」

「そう。明日一緒に謝りに行きましょうね」


 どういうことだ、とセヴランがノアの横顔を見る。彼女の頬が火に照らされている。きめ細やかな白金の髪が薄い赤の不規則な点滅を繰り返す。いつもは微睡んでいる雲色の瞳が、今は溢れ出た魔力を帯びて爛々と輝いている。

 は、とセヴランは息を呑んだ。


 瞬間、また泥と炎のぶつかる轟音が鳴り響く。何度目かわからぬ泥の塊が、水田から這い出ることすら許されず、炎を前に朽ちていく。何度かの伸縮の末、崩れ落ちた泥たちは、集まり、寄せ合い、遂にノアの目の前に大きな龍を生み出した。泥の龍は翼を羽ばたかせ咆哮し、ノアたちを威嚇する。


「ふ。咆哮しても声はおろか、魔力の衝撃波すら生み出せないなんて、所詮は泥の塊ね」


 ノアがセヴランから手を離した。そばにあった温もりが消えて、セヴランは咄嗟にノアの袖を掴んでしまった。はっとすぐに我に返りセヴランは手を離す。その仕草にノアは僅かに目を見開いたあと、くすりと柔らかく微笑んだ。


「大丈夫よ、セヴラン。怖くはないわ。わたしがあなたを守るから」


 女神が正面から泥の龍を見据える。すらりとした右手の人差し指が泥に向けられる。指先に淡い青い光が凝縮する。周囲に熱風が巻き起こる。

 彼女はゆっくりと口を開いた。

 胸を焼くような、ひりひりと焦げ付くような、ぞっとするほど美しい声だった。


「しつこいわよ。――失せなさい」


 全ての音が止んだ。指先から放たれた一筋の光線が龍のはらわたを射抜いた。

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