三
「苗一本から七十粒。苗一株から千五百粒。対する茶碗一杯は三千粒。カンファーロの田地は広いけど、そのうちたった一畝やられるだけでも茶碗十杯分は消えるんだ。本当に勘弁して欲しいね」
ダメになった田んぼを再び代掻きからやり直すべく、牛が馬鍬を引いている。その役牛の手綱を握り見守りながら、セヴランが文句を垂れた。ノアもそうね、と頷きながら、その馬鍬を掴み支える傍ら、泥に浮く廃棄苗を摘んでいく。
田んぼの荒らされ方は一貫して猪の跡に似ている。水田の泥は踏み荒らされたが如く凹凸をつくり、苗は根元から掘り起こされたり、茎だけを齧られたり、踏まれ倒されたりしている。しかし実際の猪のように、何かが水田を出入りした跡は全く見受けられないのであった。つまり、あぜ道や溝に、泥の跡がない。
「魔法で痕跡を消しているって可能性はないかな?」
セヴランが考えを口にする。
「ノアもよく泥を火に変えて、手を綺麗にしてるよね。あれと同じことを魔獣がやってたりして」
「魔獣が自分の行動を人にとっての悪事と認識しているのだとしたら、可能性はあるわね」
暗にその可能性は限りなく低いことを伝える。魔獣は所詮、魔力に適応して魔法を扱えるというだけの野生動物だ。はたして猪が自在に水を操れる力を得たからといって、自分自身についた泥を綺麗に洗い流すだろうか。
馬鹿げた妄想だ、とノアはセヴランの推測を一蹴した。だがセヴランは魔獣の可能性を諦めていない。
「それなら犯人は、空を飛ぶか、地中に潜ることのできる魔獣だよ。地上を移動しなければ、周囲に泥の跡は残らない」
「あら。だとしたら、昨晩の監視で魔獣の姿が見えなかったのはどうして?」
「……それに関しては、ノアの方が心当たりがあるんじゃない?」
予想外の彼の反応に、ノアはおやと目を瞬かせる。彼は意外にも洞察力に優れているらしかった。
「昨晩おれたちが行った物見やぐら。あれ、『周囲から見えなくなる』魔法がかかってたでしょ」
「そうね。認識を阻害する魔法はいくつかあるけれど……あの物見やぐらに使われているのは、きっと『幻影を見せる』魔法ね。大気中の水滴を利用した、水属性の高級魔法よ。カンファーロには酷乾季がないから、相性がいいのでしょうね」
「そなの? 原理はよく分かんないけど、相性が良いなら、それを魔獣が使ってる可能性はない? それか、カンファーロを混乱に陥れたい第三者が、幻影の魔法をかけた獣を使役してるとか」
「残念だけれど……」
ないと断言はできないが、それらの可能性も限りなく低いだろう。
まず、幻影を見せる魔法は、水属性の宮廷魔術師が数人がかりでやっと行使できるほどの複雑な高級魔法だ。それを一介の魔獣が扱えるとは思えない。
次に、魔法の特性的な理由だ。そもそも魔法は、あまりに対象物と術者の距離が離れすぎていると効果が薄れる。仮に魔法で動物を使役する者がいたとして、カンファーロ全土を標的にするのはほぼ不可能だ。また、昨晩の物見やぐらのような建築物ならともかく、動植物のような生命体、それも複数体に対して魔法を行使し続けることも難しい。生命体には”エーテル”と呼ばれる、強力な魔力装甲が宿っているからだ。
それらをノアがかいつまんで説明すると、セヴランは納得いかない様子で首を傾げた。
「じゃあさ。何であの物見やぐらには少なくとも十五年前からずっと、周囲から見えなくなる魔法がかかってるの?」
「数年おきに術者が魔法をかけ直しに来ているか、建築物自体に何か仕掛けがあるか、の二択ね。わたしとしては、後者だと思うわ」
あれを建てたであろうセントラル神聖国は、昔から魔法工学に秀でた国だ。僻地のカンファーロや他国にまで浸透しているインフラ設備を見れば、その技術力は明らか。戦争を見越して物見やぐらにからくりを仕込んでいたって、何ら不思議なことではない。これがレイゼル辺境伯である父に報告すべき案件であることは、セヴランには秘密だ。
それよりも、ノアはセヴランと話していて、一つ気になることがあった。
「ねえ、セヴラン。あなたもしかして、あの物見やぐらが見えているのではない?」
「……どしてそう思ったの?」
言い方こそ明るいが、声色は僅かに強張っている。セヴランが泥の中でゆっくりと足を前に動かして、ぐぽ、とくぐもった音がやけに鮮明に鳴った。
今のノアの発言が、どうして彼の警戒心を買ったのかはわからない。だが、ここでノアが返答を間違えたら、彼は金輪際ノアを信用しはしないだろうという妙な確信があった。ノアはその緊迫した雰囲気に気が付いていないふりをして、あくまでも自然に口を開く。
「深い理由はないわ。ただ……そうね、昨晩のあなたの足取りが、目的地を視認できていない人のものには見えなかったから」
「何度も通っていたから場所を覚えていただけかもよ?」
「……セヴラン。その言い方では、今も物見やぐらが見えていると自白しているようなものよ」
だが、元々ノアは根拠のない憶測を口にしただけで、何も彼の秘密を暴こうと思ったわけではない。
「答えたくないのであれば、答えなくていいわ。わたしもこの質問をしたことを忘れることにするから」
「……ノアって優しいんだか残酷なんだか、よくわかんないね」
「そうかしら……?」
ここで残酷だという評価が出てきた理由がわからない。ただセヴランに続きを語る素振りはなかったので、ノアもこの件はなかったこととして処理することにした。
「それで、魔獣の話だけどさ」
セヴランがこれ幸いと話題を戻す。
「おれはやっぱり、魔法で姿を消した猪の魔獣が、毎晩田んぼを荒らしているんだと思うんだよね。で、泥の痕跡も魔法で綺麗さっぱり消してるんだ」
「柵にも罠にも引っかかっていないのに?」
「それはだから、空を飛ぶか、地中を潜るか、してるんだと思う」
「猪が魔法で空を飛んでいるとでも言うの?」
魔法はセヴランが考えるほど簡単なものではない。そして先程も説明したように、野生動物が痕跡を消す目的で魔法を扱うとも思えない。
ノアが呆れたように答えると、セヴランはむっと頬を膨らませた。稚拙な仕草だが、彼ほどの甘い顔立ちをした男がしたら、どうしてだか不快には感じないのだから不思議だ。
「ノアはおれの意見を否定してばっかりだね。そんなに言うならノアの考えも聞かせてよ。害獣の正体は何だと思うの?」
「そうね……」
確信こそまだないが、昨晩の見回りのおかげで、凡そこれだろうという想定はついている。そのためにもノアは、今日の農作業を手伝っているのだった。今晩の見回りでこの騒動に始末をつけられればいいけれど、と彼女はひとり心の中で呟く。
「……正体はまだ秘密、ということにできないかしら。確信が持てるまでは、あまり話したくないの」
「え〜? 今ここで教えてくんないの? 秘密は二人で共有した方が盛り上がるよ?」
「盛り上がったら困るから、噤んでいるのよ……」
とはいえ、村の穀粒しになる一歩手前であったノアに稲作の手伝いという道を与え、昨晩も今もノアの仕事を手伝ってくれているセヴランを、邪険に扱うのも気が引ける。それならば、とノアは一つ提案をすることにした。
「……セヴラン。今日この後、空いてるかしら」
「え! なになに、デートのお誘い? もちろん喜んで!」
「…………」
早速声をかけたことをノアは後悔しかけた。違うわよ、と端正に微笑み返してから、本題に入る。
「犯行現場を確実に抑えるために、あなたにも力を貸して欲しいの。わたし一人では手がかりを見過ごすかもしれないから」
「そんな可愛いノアのお願いごと、聞き入れる以外の選択肢はないけど……何をするつもりなの? おれ、ノアみたいに魔法は扱えないよ?」
「いえ。手伝って欲しいのは、夜間の見回りではなくて、資料調査ね」
「……おれ、文字もあんま読めないよ? 計算は得意だけど、流石にノアの方が速いだろうし……」
「構わないわ。教えて欲しいのは、カンファーロの地理だもの」
ぱち、とセヴランが瞬いた。そしてすぐに、表情を歓喜の色で染めた。
「うんうん、それなら任せて! カンファーロでおれは村長さんの次に情報通だからね! 期待してくれていいよ!」
「それは朗報ね」
「あっ、でもカンファーロのおすすめデートスポットは教えられないよ。もし知りたいならおれを連れて行ってね?」
「それは遠慮しておくわね」
ノアが嘆息すると、同じタイミングでセヴランの隣の牛もブモウと鳴く。ノアの心情に呼応したかと思いきや、牛を撫でるセヴラン曰く「お腹空いたみたい」とのこと。
言われてノアが頭上を確認すれば、たしかに太陽が僅かに西に傾いている。休憩にすべき時間だった。
「おれは牛を小屋に戻しに行ってくるよ。ノアはどうする?」
「村長さんの奥さんから昼食を受け取ったら、寝泊まりしている借家に戻るつもりよ。既にカンファーロの地図と、村長さんがまとめた被害報告書は手元にあるの」
「え~と。それって、おれにノアの借家に来て欲しいって、遠回しに言ってんだよね?」
「……念のため言っておくけれど、調べ物をする以外の他意はないわよ」
白けた目でノアがセヴランに言うと、「わかってるよ」とセヴランは困ったように眉を下げる。軽薄な彼のことだからまた戯言を宣うかと思いきや、彼は意外にも本気で乗り気でない様子で首を竦めてしまった。
「ね、ノア。調査するのはいいけど、ノアの借りてる家でするのはやめよ? 変な噂が立ったらノアも困るでしょ?」
「おかしな噂に関しては既に手遅れなのではないかしら……」
特にセヴランの奇行に関しては近隣区域に知れ渡っている。今朝もノアは、朝食を届けに来た村長の奥さんに「セヴランちゃんのことをお願いね」と約束できない約束を持ち掛けられたところだ。もちろんお断りした。
「でも、そうね。セヴランが気になるというのなら、屋外に机を持ち出して資料を読むというのはどうかしら」
「風で資料が飛ばされたらどうするの? もしうっかり水田に落としてしまったら……」
「……そう言うのなら、セヴランが代替案を考えてちょうだい」
数分前の応酬のような切り返しをすると、セヴランは少し考える素振りを見せたのちに、「それなら」と口を開いた。
「村長さんを頼るのはどうかな。村長さんの家にはカンファーロの色んな種類の地図と、最新版の報告書と、調べものにぴったりな書室もあるよ。ノアは領主の娘だし快く貸してくれると思う」
「無茶を言わないで。そんな失礼な振る舞いはできないわ」
「い〜や、ノアが何かをする必要はないよ。あの家はおれの育った家でもあるからね。村長さんにとってのおれは弟のようなものだし、数刻のあいだ部屋を借りることくらい、どうってことないよ」
それは初耳だった。確かに村内で、セヴランの両親と思しき人物は見たことがない。そもそも彼のような深い赤髪を持つ者を見たことがない。セヴランが村長の奥さんと交流があったりヴァレリーをよく気にかけていたりしたのも、彼が何らかの理由で親族を失い、村長の義弟として引き取られ育てられたのだとしたら、納得がいく。
「……それでも、突然わたしたちが押しかけてしまったら、迷惑ではないかしら」
「ノアは慎重さんだね。おばさんやヴァレリーも、ノアが訪ねてきて、頼りにしてくれたら嬉しいと思うよ?」
「そうかしら……」
村長の奥さんにも仕事があるのだし、ノアの訪問は邪魔になってしまわないだろうか。けれどこれ以上、セヴランの提案を強情に突っぱねるのも気が引けてくる。
ノアが煮え切らない反応でいると、セヴランはやれやれと首を振った。
「まあ、いいや。今はとにかく昼休憩にしよう。これ以上この子を放っておくと、おれが食べられちゃいそうだ」
そう言ってセヴランは牛の馬鍬を外し、馬鍬を抱えて牛と共にあぜ道にあがる。細身の体系とは裏腹に意外と力持ちだ。
腹を空かせた牛はセヴランに先導されながらモウモウと不満を訴えている。
「はいはい、どうどう。今から小屋に帰るからねえ、食べないでねえ~……じゃ、そういうわけだから。村長さんの家で待っててよ、ノア」
セヴランの肩に垂らされた一つくくりの赤髪が、牛に執拗に狙われている。それを躱してセヴランはノアに手を振ると、牛と軽いじゃれ合いをしながら、ゆっくりとあぜ道を歩いていってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます