二
さて、ここらで少し、地理的な話をしておこう。
ノアたちの属するノースノヴァ皇国は、大陸の北に位置する小国である。
南東には山脈があって、その向こうには大陸一の大国、セントラル神聖国が広がっている。ノアの父たるレイゼル辺境伯はその山脈付近の統治を任されており、ノースノヴァ皇国の南東防衛の要となっていた。
「ああ、その辺の話は知ってるよ。おれが物心つく少し前に、この村はセントラル神聖国からノースノヴァ皇国に割譲された土地なんだってね。村長さんが言ってたよ」
「ええ。十五年前の戦争の和平条約で定められた割譲地が、この農村地帯、”カンファーロ”だったの。山脈を挟んですぐ向こうの平原は戦争の激戦区だったから、今もその名残が見られると聞くわ」
「でも、それがどうして、ノアが直接この地に派遣された理由に繋がるの?」
水の張った水田には、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。そよ風がノアたちの間を通り抜けるたびに、鏡合わせの星空がゆらゆらと波打った。幼い稲の苗が銀色に輝いている。耳に心地よい虫の音が鳴っている。
平和な夜の光景だ。
ノースノヴァ皇国レイゼル辺境伯領、農村地区カンファーロ。冬期に雪こそ降れど、土壌は豊かで川も滅多に凍らない。北の小国のノースノヴァ皇国が、多大な犠牲を払ってでも手に入れたかった、念願の農村地帯だ。
「……隣国にも魔術師の名を轟かせるわたしなら、どんな害獣被害でも解決できるだろうという、父の采配ね」
「へえ、ノアってそんな凄い魔術師なんだ。こんなに華奢で可愛いお嬢さんなのになあ」
「……」
嘘は言っていない。ただ、真相も喋ってはいない。
我らがノースノヴァ皇国は、たった七十年ほど前に山脈向こうのセントラル神聖国から無理やり独立した歴史を持つ。だからセントラル神聖国とは、領土争いで度々衝突する。酷い時には戦争になる。
今回、レイゼル辺境伯令嬢のノアが山脈そばのカンファーロに直接赴いたのも、害獣駆除という名目で、周辺国に牽制をするためだった。ノースノヴァ皇国は辺境のカンファーロまで統治が完璧に行き届いているという皇国のアピールに、ノアの存在はうってつけであったと言えよう。特にセントラル神聖国は最近また執政官が変わり、いつ先の和平条約を反故にされるか分かったものではない。先手を打っておく必要があった。
だが、それをセヴランたちが知る必要はない。説明したところで好ましい反応を貰えるとも思えない。
「わたしの話はもういいでしょ。それよりも、ちゃんと周囲に気を配っていて。殿はわたしが務めているとはいえ、獣に襲われる可能性を忘れないで」
「りょ〜かい。おれとしては、ノアの隣を歩いてデートっぽくしたいところだけどね」
「何を言っているの? それだとあなたを守れないわ」
「……ノアって結構、男前だよね……」
全然おれになびいてくれないし、とセヴランが肩を落とす。
「やっぱ肩書きがダメなのかなあ。おれってば、ただの農民だもんね。ここらじゃ珍しい赤髪だし、イケメンだし、実は遠い国の王族の血を引いてたりしないかな?」
「引いていたら国際問題になるわね」
「それか、実は天性の魔法の才があって、宮廷魔術師として抜擢されたりとか!」
「そのような特例は聞いたことがないわね」
「じゃあやっぱり、この顔をノアに好いてもらうしかないかあ」
「……」
ノアの口から、今日何度目かわからぬ大きなため息が出た。
「……ずっと気になっていたのだけれど、セヴランはどうしてそう、わたしとの結婚に拘っているのかしら」
「そりゃあ、男女関わらず玉の輿ってのは、おれみたいな平民にとっての浪漫で――いや待って、今のナシ。ちょっと待ってね、今から谷より深く山よりも高い理由を考えるから」
「もう聞く気が失せたわ」
軟派男が軟派たる所以に、深い理由などないらしい。要するに彼はアレだ、皇都の軽薄なご令嬢たちの、農村の青年バージョンだ。
そう思うと彼がノアについてきたがる様子にも納得できた。そして同時に、それらを軽くあしらってきた対応が正解であったことにも確信が持てた。つまり、余計な言質を取られないかぎりは、全て適当に聞き流しておけばいいのだ。明確な対応の方針が決まって、ノアの気はすっきりと晴れた。
「ほい、ついたよ」
不意にセヴランが足を止めて、ノアを振り返った。
「危険がいっぱいの森には入らないって条件で、田んぼを見渡せる高台といえば、やっぱここだよね」
「……物見やぐら」
「ん! 正解!」
さっすがノアは物知りだ、とセヴランは明るく頷いて、やぐらに近付いていく。
ノアはといえば、突然目の前に現れた本格的な物見やぐらに圧倒されていた。いや、姿かたちは確かに物見やぐらだが、その重厚感は監視塔と呼ぶに相応しいだろう。下層部は複数の太い木材で組まれ、上層部は木の外壁で覆われている。頂上には小屋と思しき建築が見られるが、それ以外にも二層ほど、内部に立ち入れる空間があるようだった。
見上げれば結構な高さがあるのに、今までこれの存在に気がつかなかったのは異常だ。ノアの目が節穴でなかったかぎり、この建造物には認識阻害に類する魔法がかかっているとしか考えられなかった。
「……でも、そんな高級で大がかりな魔法を、農村地区の、たかが物見やぐらに使うの?」
「ん? ごめんノア、今なんて言った?」
「いえ……」
杞憂であればいい。
だが、何となく、不吉なものを感じる。
「ねえ、セヴラン。このやぐらは、いつからここにあるの?」
「え、いつからだろ? わかんないけど、少なくとも十五年前の戦争の時にはあったと思うよ。ただのやぐらにしてはありえないくらい頑丈だし、こんなの戦時中じゃないと作らないって」
「そう……」
この物見やぐらは村の中心部から見て北西に位置している。セヴランの証言や、木材がさほど風化していないこと、魔法が生きていることを考慮するに、この建造物はここ二十年の間――つまり、先の戦争で建てられたものに違いなかった。カンファーロが皇国領になるより前、この村の北西にあった脅威といえば、それはノースノヴァ皇国以外には考えられない。
「どしたの、ノア。ボーッとして。何かあった?」
「あ……いえ。ごめんなさい、少し考え事をしていたの」
先の戦争の激戦地であった南東の山脈の向こうにも、かつては大きな農村があったと聞く。一歩間違えれば、ここも火の海となって、今の田園風景なぞ跡形なく消えていた。そのもしもの光景が頭をよぎって、ノアは立ちすくむ思いであった。
セヴランが声をかけてくれて助かった、とノアは思った。
「よくわかんないけど、ノアは考え事してる姿も可愛いね。ここの梯子からやぐらに登れるみたいだよ」
「そう。今行くわ」
月明かりは意外と明るく、梯子を上る手元が狂うことはなかった。慣れた手つきでノアが上っていくと、頂上付近で先に上がっていたセヴランが「こっちこっち」と手招きして、ノアを小屋の中に招き入れた。
「すごいよ、ノア。ここからの景色は最高だ。この美しい田園の夜景をノアと二人きりで見られるなんて……おれは幸せ者だね……」
「本来の目的を見失わないで、セヴラン」
ノアは美しい夜景が見たくてセヴランを夜に連れ出したわけではないのだ。
彼の隣に並んで周囲を見渡し、ノアは「良い具合ね」と頷いた。見晴らしは最高。月明かりも十分。田地の様子が良く見えた。たとえ害獣が保護色であっても、真っ黒な影で異変に気が付くことができるくらいの好条件だ。流石に害獣の正体が小さな虫であったら見つけるのは難しいだろうが、そうだとしても被害の規模を見るに大群で来るに違いない。いずれにせよ、目視で十分だろう。
南西の方角に目を向ければ、遠くの方に、昼にセヴランと弁当を食べた川岸が見えた。あの時は南東の山脈ばかり気にして北西のこちらに気を配っていなかったというのもあるが、それでもこの目立つ物見やぐらの存在には気付いていなかったのだから、やはりこの建築物には目くらましの類の高級魔法が使用されているに違いなかった。
戦争の残り香にまた気が落ち込みそうになって、ノアは慌てて首を振る。
「セヴラン、わたしは田地が遠くまで広がる南東の方角を見張るわ。あなたは南西をお願い」
「らじゃ! 川からの侵入者も同時に見張ればいいんだね?」
「話が早くて助かるわ」
しかし、数刻待てども、害獣が姿を現す気配はなかった。あぜ道を歩いていた頃には東の空に浮かんでいた丸い月も、今ではすっかり西に傾いている。生き物たちは寝静まり、虫の声も聞こえなくなった。
そこから更に半刻ほどが経って、次第に背後でセヴランのあくびを噛み殺す回数が増えてきた。そろそろ潮時だろう。これ以上は、明日の活動に支障が出る。
今夜も収穫なしか、とノアが諦めかけたその時、大気中の魔力濃度が僅かに低下するのを感じた。
「……?」
魔術師として厳しい訓練を積んだノアですら、気を抜いていれば気が付けないほどの微量な変化だった。だが、不思議に感じて周囲を見渡しても、害獣と思しき姿はない。
ノアが身を乗り出して更に遠くを観察し始めると、目尻にあくびの涙を浮かべたセヴランが、「何か見っけた?」と声をかけてくる。
「いえ、何かを見つけたわけではなくて、何かしら……異変というには大袈裟すぎるのだけれど……」
現に、大気中の魔力濃度はもう既に元に戻っている。ノアの勘違いである可能性は十分にあった。
「う〜ん? ぱっと見た感じでは、害獣の姿はなさそうだけど」
緩慢な動きでノアの隣に並んで、セヴランも身を乗り出した。眠たい顔で田地を見渡していた彼は、やがて怪訝そうに目を細めていく。
「……ちょっと待って。ノア。やられたかもしれない」
「やられた? まさか」
「すぐ下に行こう! 今ならまだ、害獣がいるかもしれない!」
ばっと身を翻してセヴランが梯子を滑るように降りていく。先程までの蕩けた表情から一転、あまりに切羽詰まった様子で駆けだしたセヴランに、ノアも急かされるように梯子を下りた。だがすぐに煩わしくなって、ノアは思いきり梯子から飛び降りた。魔法で真下の土を火交じりの風に変え、着地の衝撃を相殺する。
突然隣に落ちてきたノアに、セヴランは一瞥もしなかった。普段の彼ならば大袈裟に驚いてノアを口説いてみせただろうが、今の彼にそんな余裕はないようだった。
田地の前で立ち尽くすセヴランは、目の前に広がる光景に釘付けとなっていた。その理由は明らかだった。
「……稲が、喰われている」
数刻前に通った時には月光で白く輝いていた苗が、齧られ、手折られ、見るも無残な姿となって、寂しく風に揺られていた。
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