辺境伯令嬢、稲を刈る

芋羊羹

第一部

一 辺境伯令嬢、赴任する

 麗らかな晴天。目前に広がるのは青々とした田地。靴越しに伝わる泥の感触はまとわりつくようにひんやりと冷たく、だが不思議とそれが不快でない。

 遠くに見える山脈は薄らと雪を積もらせていて、清涼な空気を村に届けてくれていた。うんと背伸びをしながら深呼吸をすると、土と草木の匂いが身体を満たした。頭がすっきりする。世のしがらみから開放されたかのような気分だ。


「……これじゃあまるで、ね」


 皇都に住まうご令嬢の中には、失態を犯して地方に長期休養を取らされる者もいると聞く。もちろん、今回ノアがこの村に訪れたのは、そのような不名誉な理由ではないのだが。


「まさか、村に早く馴染むために、稲作を手伝うことになろうとは思わなかったわ」


 こめかみを伝う汗を拭って、ノアはひとり嘆息する。お気に入りの真っ白なブラウスは早くもタンスの肥やしとなった。運動服にと持参した紺のツナギ服は今、泥の色を吸って元の高貴な色の見る影もない。

 今のノアの姿を見て、家の者や皇都に住まう友人たちはどう思うだろう。元来可愛げのない辺境伯の末の娘とはいえ、令嬢が視察先の領地で田植えをしているなんて、誰も想像だにしないに違いない。

 まったくどうして、このようなことになったのか。

 それは、たった数日前のことに遡る。





 ノア・レイゼルは、レイゼル辺境伯の末の娘である。

 長男は次期領主として隣国に留学中。次男は皇都で騎士団に務める。長女は許嫁の男爵に嫁いだ。順当に考えれば、末っ子のノアも有力氏族のもとへ嫁ぐのが普通だっただろう。

 だが、現レイゼル辺境伯はノアの優れた洞察力と高い魔力量に目をつけた。彼女を精鋭の魔術師として育て上げれば、必ずや辺境伯領の先鋒、つまり国境付近の防衛の要として役に立つに違いないと考えたのである。

 かくして、軍人が如きスパルタ教育を受けたノアは、皇都の宮廷魔術師に引けを取らないほどの魔術師となった。友人たちには婚期を逃していることを心配されていたが、色恋沙汰に全く興味のないノアは、むしろ辺境伯たる父の右腕として働くことを好都合と思っていた。

 だからノアが農村に単身で派遣されることを父に打診されたときも、ノアは二つ返事で請け負っていたのである。


 当時のことを思い返して、ノアはふっと息を吐いた。


「……たった十日前のことなのに、もう懐かしく感じるわ。たしか村からの要請は『ただの害獣駆除』だったのよね」


 領民の手に負えない害獣に対処するのも、領主や皇国の務めだ。ノアが害獣駆除の仕事をこなすのはこれで五回目になる。

 憤る農民たちや報告を待つ父のため、今回も手早く片付けてしまいたいところだが――


「……これが『ただの害獣駆除』なんて、何の冗談かしらね。村は今日も雲一つない快晴で、大気中の魔力濃度に乱れはないし、害獣が姿を現す気配もない」

「だというのに、苗を植えたばかりの田んぼは依然として、毎晩何者かにより荒らされている。おかしな話だよね」

「あら。来ていたのね、セヴラン」


 あぜ道からノアを見下ろしていた青年は、セヴラン、とノアに声を掛けられてぱっと破顔する。一つくくりにして垂らされた赤髪が、そよ風に吹かれて微かに揺れた。


「ノアは田植えをしていても可愛いね。そろそろ昼食時だからさ、一旦休憩しない? 一緒に昼食をとれたらいいなと思って、おれも弁当を貰ってきたんだ。どうかな?」

「そうね……」


 前半に何か聞こえた気がするが、彼は出会った当初からこうなので、都合良く聞き流すことにする。

 ノアは手元の苗と、目の前に広がる田地を見渡して、「そうね」ともう一度頷いた。過去の厳しい鍛錬のおかげで体力的には余裕があるけれど、田植え作業はとにかく重労働で、時間がかかる。このまま最後まで働いていると食いっぱぐれたまま夜になるのは目に見えていた。


「それじゃあ、お昼ご飯にしましょうか」


 この村に来て稲作を手伝うようになって以来、食事はいつも目の前の青年、セヴランがノアの元まで運んできてくれていた。害獣駆除に訪れたノアは村の客人であるから、衣食住を保証するために、世話役が用意されているのである。

 けれど、その世話役は本来セヴランでないことを、ノアは知っている。


「今日はあの小さな女の子は一緒じゃないのね、セヴラン」


 ノアの本当の世話役は、村長の幼い娘だった。世話役といっても、仕事内容はノアに食事を届けることと、村長からの定期連絡を預かることだけだ。十歳の女の子には丁度良い仕事だろうということで、ノアもその話に異論はなかった。

 異論はなかったのだが、悲劇はそこで起きた。十歳の子供は無知で純粋すぎたのだ。


「小さな女の子ってのは、ヴァレリーのこと?」


 セヴランが村長の娘の名を口にした。


「ノアは酷なことを言うね。村長さんの家からこの田んぼの区画まで、結構な距離があるよ? ただでさえ病弱なヴァレリーに使い走りさせるのは無理だ」

「だからセヴランが代わりに弁当を届けに来たの?」

「うん、そしたら君とお喋りもできるからね。優しくて気が利いて一途なおれ、君も好きでしょ?」

「そうね……」


 生返事をしながらノアはあぜ道に上がった。手についた泥を魔法で火に変え落としていく。ぞんざいに扱われたセヴランは残念そうに口を尖らせるものの、やはり軟派な発言には慣れているのか、あまり気にしていなさそうだった。

 とはいえ、彼が優しいのは事実だ。

 思い出されるのは、ノアが来訪して三日目――今日から数えて三日前――のことである。十歳の世話役のヴァレリーは、日中常に貸家にいるノアを、どうやら無職と勘違いしたらしかった。だからヴァレリーは、彼女なりの正義をもってノアを叱った。働かざる者食うべからず、この弁当は没収よ、と。

 その時のノアは、三日滞在しても害獣の手掛かりすら掴めていないことに項垂れており、十歳の娘の説教にただ「ええ、その通りね……」と頷くことしかできないでいた。今思えば相当に恥ずかしい絵面である。それに助け舟を出したのが、丁度ノアの様子を窺いに、もとい口説きに来ていたセヴランだった。


 ――それなら、ノアも田植えを手伝ってみようよ。


「どうせ害獣の正体すら掴めていない現状では、村の穀潰しになるしか道がなかったものね。稲作を教えてくれたあなたには感謝してるわ、セヴラン」

「え〜? 急にどったの? おれに惚れちゃった?」

「そういう軟派なところは、本当にどうかと思うけれど」


 思い返せば、セヴランと初めて会ったのも、この舗装されていないあぜ道だった。赴任初日、地図を頼りに村長の家に向かっていたノアを田地から呼び止めて開口一番、「そこのお嬢さん、可愛いね。おれで妥協しない?」と彼がウィンクした時の、ノアの衝撃たるや。


「……困惑で硬直していたら、今度は『おれさ、逆玉の輿ってやつ? 狙ってんだよね。お嬢さん、高貴な生まれでしょ? 顔の良い男はすき?』だものね」


 確かにセヴランは端正な甘い顔立ちをしているけれど。おまけに蕩けるテノールボイスの持ち主でもあるけれど。そういった客観的な事実と、実際に彼に惚れるかどうかは全く別の話だ。

 ――ここに居るのがわたしでなく、日々端正な顔立ちな男に飢える皇都のご令嬢たちの誰かであれば、まだ可能性はあったでしょうに。

 そう同情の眼差しをセヴランに向ければ、「どしたの?」と彼は人懐っこい笑みでノアの顔を覗き込んでくる。

 ノアは顔を正面に直して、ため息をついた。


「何でもないわ」

「それ、何かあった人の言い方じゃない?」

「本当に何でもないの。ただ少し、あなたって女運がなさそうね、と哀れに思っただけよ」

「突然の悪口⁉」


 わあわあと喚くセヴランを無視して、ノアは綺麗になった手で弁当を受けとる。近くの川沿いに移動しようと足を進めれば、やかましかったセヴランも大人しく着いてきた。

 土の堤防に腰をかけて、二人揃って弁当箱の結びを解く。客人のノアの昼食は、村長の奥さんが用意する手筈となっていた。隣に座るセヴランも同じ木製容器を手にしているのを見るに、あの軽快で人の好い奥さんは、毎日ノアのもとに通うセヴランにも弁当を渡すことにしたのだろう。

 弁当箱の蓋を慎重に開ける。箱の中には、大きなおにぎりが二つと、複数の串刺しの小魚の丸焼き、肉と野菜の炭焼きが詰め込まれていた。野菜の切り口が可愛らしく潰れているのは、きっとヴァレリーが村長の奥さんの料理を手伝ったからだ。健気な姿が思い起こされてふっと笑みがこぼれた。

 麗らかな太陽の下で、食事をとる。目前には田園風景が広がり、その奥には未だ雪を被ったままの山脈が見える。


「のどかね」


 穏やかなそよ風が、ノアの頬を優しく撫でた。彼女のきめ細やかな白金の髪が昼過ぎの日の下で揺蕩う。


「こんなにも静かで平和なのに、夜には害獣が田園を荒らしていくのね」


 昨日ノアの手伝った区画の田んぼも、今朝には稲の苗が根こそぎ齧られていた。泥から掘り返され、一日の労力が無に帰する惨状を目の当たりにした時の絶望感は、今後一生忘れることができないだろう。

 この被害を放置していては村が滅ぶ。

 改めて、ノアは自分がここに来た意味を強く感じている。ノアは領民の田畑を守らねばならない。


「害獣は……相変わらず、正体の見当も付かない状態なのよね」

「うん。犯行時刻が夜間なのは間違いないけど、見張りをしていても姿が見えないんだよね。で、気付いたら作物が食われてる」

「柵や罠で対策しても効果がなかったのよね」

「そうだね。どれだけ工夫しても、ぜ〜んぶ綺麗に避けられてるんだ。こんな知能犯は過去に例がないって、村の人たちも言ってるよ」

「荒らされた跡からも、本当に害獣の正体には一つも心当たりがないのかしら」

「そうだなあ。強いて言うなら猪が荒らした時に状況は似てるかな。でも、猪が田んぼを出入りした形跡はないね。奴らに羽が生えてるっていうなら、話は変わってくるけど」


 もぐ、とセヴランが串焼きを咥えながら答えた。


「ノアは今日も、夕方から見回りをするの?」

「ええ。昨晩は森の方を見ていたけれど、全く収穫がなかったから……今夜は川を見張るか、高台から監視するつもりでいるわ」

「おれも手伝うよ。可憐なお嬢さまを夜にひとり、放っておく訳にはいかないからね」

「……それなら、その好意に甘えさせてもらうわね」


 人手が増えるに越したことはない。それに、実のところノアは狩りができるというだけで、田畑の害獣には明るくない。田地の生き物についてはセヴランの方が詳しいに違いなかった。

 とはいえ害獣の正体が、熊や巨大猪、魔獣などの人に害をなす生き物である可能性は十分にある。特に魔獣は魔法を扱うから、一介の農民であるセヴランには対処が難しい。ただでさえ彼を危険な夜間に連れまわすというのに、更に相手が暴走した魔獣であったとなれば、最悪の事態だって考えられる。


「手伝ってくれるのは嬉しいわ、セヴラン。でも夜の間は、絶対にわたしの目の届く範囲にいてちょうだいね」

「え~、なんかその言い方、子守りみたいでヤだな。もう少しどうにかならない?」

「……お願いだから、わたしの隣から離れないで」

「わお、今のいいね、ときめいたよ! 夜間だけと言わず未来永劫きみの隣にいるからさ、おれで妥協しない? 顔が良くて一途な男、好きでしょ?」

「…………」


 言い直さなければ良かった。ノアは大きな溜め息をついた。

 今晩の見回りが不安だ、とっても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る