私の芸術の女神<ミューズ>
浬由有 杳
お題:聴こえないメロディー
「それでは、早速、よろしいでしょうか?」
勧められるままアイスティーで喉を潤してから、私はバックからICレコーダーを取り出した。
「どうぞ」
社のロゴ入りの私の名刺を胸ポケットにしまうと、I氏はテーブルに肘をついて両手を軽く組んだ。
銀縁眼鏡の瞳の奥に見えるのは好奇心?それとも呆れているのか?こんな小娘が音楽界の巨匠I氏に厚かましくも単独インタビューを申し込んだことに対して?
無作法なのは承知の上。けれど、ここで特ダネが取れなければ、編集局から総務に回されるのは確実だ。
だからこそ、我が町出身の名士I氏に、
気取らない人だとは聞いていたが、本当に取材に応じてくれるとは思わなかった。
「奥様のこと、ご愁傷様でした」
彼の孤独な幼少期や音楽への思い入れを一通り質問した後、私はようやく本題に入ることにした。
I氏はつい半年前に妻を亡くしたばかり。海外遠征中に、奥さんが乗った車が事故に遭ったのだ。奥さんとお抱え運転手は即死だった。
愛妻家で知られていたI氏に、今から私が告げる事実は酷なはずだ。
「妻は、私と違って、正直で感情豊かで。私のインスピレーションの源でした」
「奥様を愛しておられたのですね」
目の前の端正な口元が歪み、口角が微かに上がった。
「彼女なしには私の成功はなかったでしょう。彼女を失った今、過去の栄光となるのかもしれませんが」
I氏の作曲家としての転機が結婚であったのは、音楽業界では割と知られている。
それまで鳴かず飛ばずだった彼は、結婚後、突如として才能あふれる音楽を発表し始め、偉大な作曲家の仲間入りをしたのだ。
特にここ数年の彼の作品には、目を見張るものがあった。
まさに老いも若きも。彼が創り出した音楽に魅了されたのは、クラシック愛好家だけにとどまらなかった。
音楽評論家が評していたっけ。
単に美しいと言うより、人を不安にさせるような、なのに妙に惹きつけられる独特の心揺さぶられる旋律。誰もが持つ心の深淵に触れる音楽だと。
奥さんを失ってから、I氏は全く新曲を発表していない。
それまでの活動がウソのように。
最愛の妻の死で創作意欲を失った悲劇の天才音楽家。
世間は、彼の再起を危ぶみながらも、彼の次の作品を今なお熱望している。つまり、彼は世間の注目を引くには打ってつけの素材となりえる。
私はごくりと唾を飲みこんでから、口を開いた。
「なのに、裏切られた。ですね?」
「君は何を…」
「私、知っているんです。奥様と運転手の関係。二人が深い仲だったってこと。学生の時、彼と付き合っていたことがあって。時々、ラインでやり取りしてたんです」
あの男は、Kは、悪人ではなかったが、誠実でもなかった。愚痴を聞いてやり、適当に甘い言葉をささやいて、お小遣いをもらって。そんな関係だったのだと思う。
ラインのトークには、さすがに相手の名前は書いていなかったが。私も記者の端くれ。ちょっと調べれば、それくらいすぐにわかる。
事故の直前には、Kは明らかに関係を断つつもりだった。被害妄想的な泣き言ばかりで辟易していたようだったから。
「奥様、あなたと別れたがっていましたよね?証拠のラインは残してあります」
「あの男は、思っていたより、おしゃべりだったようだ」
I氏は顔色一つ変えなかった。切れ長の瞳をやや眇めただけだ。
I氏は全て知っていたのだ。それでも、なお、妻を愛していたということか?
それとも…?
「それで、あなたは何を望むのですか?」
「大したことじゃありません。あなたとの独占インタビューを連載させてください」
これは、私の文才を認めさせるため。一流のジャーナリストとして世に出るための手段に過ぎない。できるだけ卑怯な真似はしたくない。
I氏が笑った。
ほれぼれするほど嬉しそうに。
「あなたは面白い人だ。それに素晴らしい『音楽』の持ち主だ」
「音楽?」
予想外の反応に、言葉に、私は首を傾げた。
罵声を浴びせられることなら覚悟していた。警察に訴えられるかもしれないとも。
しかし、こんなふうに微笑まれるとは。それに、音楽とは?
「あなたの中に渦巻く感情。野心、妬み、プライド。それから焦りかな?実に美しい。妻の『音楽』とはまた違った旋律だ。あなたがいれば、私はまた曲を作ることができそうだ」
コントラバスの響きにも似た男の声に、なぜかぞっとして、立ち上がろうとして…
どうしたんだろう?身体に力が入らない。
まさか。あのアイスティー…。あれに何か薬が?
「私はね、『人の感情』が聞こえるんです。いわゆる共感覚の一種なのかな?聞こえるはずがない感情が奏でる音楽。他人には聴こえないメロディー。それを皆に聞こえる
薄れゆく意識に響いた囁きは優しかった。
「私の
私の芸術の女神<ミューズ> 浬由有 杳 @HarukaRiyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます