第1章 恋の軍師降臨す

スズの一日の始まり

 滝尾たきお硯徳すずのりの朝は新妻が愛をこめて作った朝食から始まる。だし巻きにほうれん草のおひたしに味噌汁というシンプルなものだが、シンプル・イズ・ベスト!愛情がたっぷりこめられているので、そんじょそこらの朝食とは比べ物にならないくらい美味しい。


「はい、あなた、あ〜ん」

「あ〜ん」


 妻が一口大に切っただし巻きを口の前に差し出し、これ以上下がらないくらい目尻を下げた硯徳が口を開ける。パクっと勢いよく食いつき、その勢いのまま箸までボリボリ食いちぎる。口の中にジャリジャリという感触が広がった。


「おいしい?」

「うん!お・い・し……」


 生臭い臭気が鼻を突き、眉を潜める。箸まで食べてしまったからだろうか?口の中に不快なザラつきがある。正直、美味しくはない。が、満面の笑顔でこちらを伺っている妻に、そんなことは言えない。この愛らしい新妻の顔を曇らせるようなことを言うなんて……


 この愛らしい……


 ん?


 よく見ると、目の前の妻の顔がぼやけている。顔の輪郭で微笑んでいる雰囲気は伝わるのだが、顔の中心がまるでのっぺらぼうのようつるんとしている。


 あれ?そもそも俺って結婚してたっけ?


 脳内検索をかけるが、結婚式のデータが見つからない。



 ジージジジ〜



 どこかの木でセミが鳴いている。寝る前にオフタイマーをセットしていたエアコンはとっくに止まり、じっとりとした寝汗がTシャツを肌にへばりつかせている。



 そうだ、硯徳25歳、結婚どころかろくろく女性と付き合った経験もない。



 次第に覚醒してきた頭が、硯徳に現実を突きつける。目を開くと、いつもの見慣れた天井に、カーテンの隙間から入った日の光が明るく揺らいでいた。



 夢というのは不思議だ。何かの本で夢には記憶を整理する役割があると読んだことがあるが、どう考えても経験していない内容も現れる。硯徳は幼い頃に学校の運動場的なところで恐竜に追い回される夢を何度も見て、その度に泣いて母親の元に走り、あやしてもらった記憶があるのだが、恐竜に追い回されるなんてことを実生活で経験しているわけがない。だが夢の感覚は経験したことと言っても過言でないくらい鮮やかで、今でもあの身がすくむような恐怖を思い起こすことができるのだ。


 いや、百歩譲って、起きた時にあ〜夢でよかった〜と思えるものならいい。現実のありがたみを噛み締めながら一日を始めることができるのだから。だが今のような夢はダメだ。起きてからの喪失感がひどく、元気よく起き上がるどころか、すでに心にダメージを負っていてマイナスからのスタートだ。もし人の夢を采配している存在がいるのなら問いたい。エイプリルフールなどで人をがっかりさせるような嘘はダメだと教わらなかったのか、と。まあそんな人の夢を操るなどという超自然的な存在にエイプリルフールがあるかどうかは知らないが。


 それにしても……


 もう一度、さっきまでの幸福感を反芻する。それにしてもリアルだった。あの新妻役の女性、実際にどこかで会ったことはなかったろうか……?


 脳内検索をかけてみるが、女性に関する数少ないデータを紐解くまでもなく、現実の中でヒットする女性はいない。では、これまで読んだことのあるマンガや観たことのあるアニメなどはどうだろう?今度はデータ量が膨大で、焦点が定まらない。そもそもフィクションの中の女性にヒットしたところで虚しいだけなのだが…。


(ああ〜それにしても、リアルだったな〜)


 新妻を愛しく思う感覚が、ほのかな灯りとなってまだ胸に灯っている。いつまでもその温かみを噛み締めていたいがずっと寝ているわけにもいかず、このまま現実の生活に埋没すればやがてさっきの感覚は跡形もなく消えてしまうだろう。そう思うと、チリっとした痛みが胸を刺した。苦虫を噛み潰したような顔になり、再び目を閉じて何とか胸に灯る残り火を脳裏に残そうと努める。と、ジャリっとした感触が、口の中にまだ残像のように残っている。


 ん?夢の残像?触感だから残触か。


 いや、口の中に、確かに何かがある。まさか、食い千切った箸が実体化した?そんなファンタジックな考えを頭を振って打ち払い、きのう寝る前に歯を磨かなかっただろうかと思い起こす。歯は寝る前に確かに磨いた。ではこの口の中のジャリジャリとした感触は……


 太い糸のような物を舌が捉え、寝てる間に髪の毛でも口に入れてしまったのかと指で摘んで口から出す。黒い、長い線の先に、小さな頭が………



 飛び起きてゴミ箱に顔を埋め、口の中のものを急いで吐き出す。苦虫を噛み潰したようなではなく、硯徳は本当に苦虫を噛み潰していた。苦虫……すなわち、黒い、よく家の中を闊歩しているあの……苦虫の全体像が脳内再生され、全身に鳥肌が湧き立つ。



「あ゛~~~!!お゛え〜〜〜!!」



 大きな声とともに、唾液を全て吐き出す。そしてティッシュを取り、舌をゴシゴシと拭う。



 とその時、階段をドタドタと上がってくる音が響き、硯徳は、しまった、と思った。体勢を立て直す間もなくバタン、と部屋の扉が開き、見慣れたポニーテールがファサっと揺れる。可愛い小顔が、ジトッとした視線を投げてくる。硯徳の右手には大量の丸めたティッシュ、左手にはティッシュの箱……さらにバツの悪いことに、暑さでスウェットの下は脱ぎ捨てていた。


「オ○ニーしてるとこ失礼する!」

「いやオナ○ーしてないから!」


 ポニーテールの放った言葉を即座に否定すも、説得力は全くなかった。ティッシュの箱をポンと投げ出し、その手をポニーテールの前に突き出してブンブンと振る。


「そもそもオ◯ニーしてたとしても、あんな声出さないから!」


 ポニーテールの娘はしばらくジトッとした視線を外さないでいたが、やがてフンと鼻を鳴らすと、


「昼ご飯、できてるから」


 と言ってトントンと階段を下りていった。





 何度このやり取りを繰り返しただろう。硯徳が少しでも部屋で物音を立てると、このポニーテールの妹、杏夏きょうかが部屋に乗り込んでくる。硯徳と杏夏の兄妹きょうだいは父母の残してくれた遺産で買った三階建ての狭小住宅で二人暮らしをしており、三階に兄の部屋があり、すぐ下の二階に妹の部屋があるのだった。


 まったく……兄のオ○ニーを見て何が楽しいというのだ……


 深いため息をつき、万年床から起き上がって傍らに脱ぎ捨ててあったスウェットの下を履く。部屋に充満した湿度の高い熱気を入れ替えるために、カーテンを開け、窓を開く。夏の強い日差しが直で照りつけ目を細める。涼風が顔を撫で、清涼感に深呼吸した。


 硯徳が住んでいる町は都会ではないがド田舎というほどでもなく、私鉄に一時間も揺られれば県庁所在地の街に行き着く。とはいえ自然はそこそこ残っており、北東は山に囲まれ、二級河川が町を貫いて流れている。北東の山からは真夏の昼であっても時折涼風を送ってくれるのだ。


 窓を開けたことで町の音が部屋に飛び込んでくる。早朝のクマゼミの抑揚のある合唱はとっくに止み、ジーというアブラゼミの長音で低音のビブラートが夏のジリジリとした日差しの暑苦しさをパワーアップさせている。鉄骨をカンカンと叩く金属音が、昼前まで寝ている硯徳にいつまで寝ているのかと叱責しているようだった。ここ数ヶ月、町のどこかで新築の住宅が建設されている音が途切れることなく響いている。一見子どもの頃から変わっていないように見えるこの町ののどかな風景も、ジワジワと近郊住宅地化しているのかもしれなかった。



「母さん、父さん、おはよう」



 窓を閉める前に、空に向かっていつもの挨拶をする。硯徳の住む町、猿上町さるかみちょうには言い伝えがある。この町で生まれ、この町で暮らし、そしてこの町で死んだ者はやがてこの町の風になる、という。


 五年前、硯徳たちの父母は不幸な火事に遭って他界し、兄妹二人が残された。当時硯徳は成人したばかりで、5歳年下の杏夏は高校受験の真っ只中だった。悲嘆の沼に沈んでしまった妹の精神状態を何とか安定させるため、当時住んでいた一戸建ての建っていた土地は手放して今住んでいる三階建ての狭小住宅を買った。土地を売った代金と火災保険、そして親の残してくれた遺産で何とか手に入れたこの住宅で、硯徳はずっと妹と二人で暮らしていく覚悟でいる。



 妹は幼い頃から兄べったりで、何なら硯徳の女性経験が少ないのは妹のせいと言っても過言ではない。両親が亡くなって以来、硯徳が妹の親代わりを兼ねているのだったが、彼自身はそこに不満を感じたとこはない。ないのだが、今朝のような夢を見た日には、やはりあんな新妻とのラブラブの未来に憧憬を掻き立てられる。


 窓を閉め、万年床を見た。まだかすかに、新妻への想いの欠片が胸に残っている。羨望とも未練ともつかない感情が沸き立ち、感極まってドンと敷布団に膝をついた。


「あ゛あ゛~!」


 思わず声も漏れ、ハッとして慌てて口を噤む。が、時すでに遅く、ドタドタと階段を駆け上がる音。続いてバタン!と扉が開き、


「オ○ニーしてるとこし……」

「オナ○ーしてないから!ていうか、入る前にノックして?」 


 妹はまたしてもジトッとした視線を送り、兄の言葉に答えることなくその視線を下半身へ下ろす。


「いやちゃんと履いてるから!ほら」


 兄が股を突き出し、それを見た妹はまたつまらなそうにフンと鼻を鳴らすと、


「早く食べちゃって!」


 と、トントンと階段を下りていく。はあ~~っと、硯徳はまた深いため息を吐くのだった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。


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