妹の料理を初めて旨いと思った
一階のダイニングキッチンまで降り、
「え、もしかして、きくらげをそのまま出した?」
物体を箸でつんつんしながら聞くと、杏夏は向かいから冷たい視線で一瞥する。杏夏の手元を見ると同じく黒い物体が皿に乗っているが、彼女は何を気にすることもなく箸で割って口に運んでいる。
「バカなこと言ってないで早く食べて」
妹はまるで兄がおかしいように言うが、丸くて黒くてテラテラ光っている物体はどう見ても大きなきくらげだ。恐る恐る箸で割ってみると意外とすんなり箸が入り、割った断面から黒い粉状のものがポロポロとこぼれた。意を決して小さく割った一切れを口に入れると、焦げた苦みとともにほのかに硫黄の香りがする。どうやら物体は目玉焼きだったようだ。ホッと息をつき、咀嚼しながら改めて皿の上を見ると、確かにハムエッグに見えなくもない。ただ、玉子の下に敷いたハムも真っ黒で、それはただ焦げているという感じではなく、どうやらしょう油をかけすぎたまま焼いたために黒化してしまったようだ。もはやそれは料理に失敗したというレベルではなく、新しいレシピで作った別の料理にも見えた。ハムと玉子を形状を残したまま黒く同化させるには逆にそれなりの技量が必要なようにも思えた。
とはいえ、やはり味はかなり辛い。麦茶とご飯で味を薄めて何とか飲み下すも、もう一品チャレンジしなければならない壁が視界に入っている。汁椀から湯気を上げながら待機している茶色い液体は見た目普通の味噌汁なのだが、問題は中に入っている具材だ。今まで印象深かったラインナップを挙げると、やけに汁が黒ずんでいるなと思ったらイカスミが入っていたり、やけにドロドロしたゾル状になっているなと思ったらアボカドが入っていたり、逆にやけにパサパサしているなと思ったらちんすこうが入っていたり……いや、イカスミやアボカドはまだ分からなくもない(分かりたくはないがかろうじてラーメンやポトフなどのスープに入っている場合もある)、さすがにどうしてちんすこうを数ある食材から選んだのか聞くと、ちょうど友人からもらったお土産が余ってたので、クルトン代わりになるかと思って入れたのだそう。そもそも味噌汁にクルトンは入れないだろうという突っ込みを、パサパサのちんすこうとともに飲み込んだ。
妹は致命的に料理が下手だ。決して不器用というわけではない。本人いわく、火を前にするとメラメラとチャレンジ精神が湧き上がってくるらしい。そもそも妹は両親を火事で亡くしたことで火には恐怖を感じていたはずだったが、どんな心境の変化なのか、数ヶ月前から自分が料理を作ると言い出した。悲しみに沈んでいた心が少しは浮上してくれたのかとその言葉を喜び、彼女の言うままに食事作りを任せてみた。子どもの頃から料理などしたことも無かった彼女なので、基本から教えてやればよかったのだが、手ほどきしようとすると大丈夫だからと言い張って一人でコンロ前を陣取った。そんな彼女が初回からまともなものが作れるわけもなく、出来上がったものは見た目も味も酷かった。だが硯徳は少しでも前向きになった妹の心を挫きたくなく、美味しいと言って何とか腹に収めた。
これが良くなかった…。
杏夏の頭には最初から基本に忠実にやってみるという行程はなく、結構初期の段階で独創性を発揮し出した。傍から見ていると料理というよりは化学実験をやっているようだったが、それでも生き生きとして取り組んでいる妹の姿に、硯徳はいつかはちゃんとしたものを作ってくれるだろうと目を細めて見守った。料理本を買ってきて与えたりもした。だが兄は妹の特性を一つ見逃していた。杏夏は、おそろしくバカ舌だったのだ。そんな彼女がチャレンジした先にまともな完成品があるわけもなく、硯徳は毎回彼女の特異な創作物に唸らされる結果となった。それでも絶妙な塩梅で食べるに堪えないということもなく、何とか笑顔は絶やさずに平らげていた。
そして一つの転機がきた。
その日は味噌汁から、シュールストレミングの強烈な悪臭が漂っていた。さすがに近隣からも苦情が来て、兄は妹にチャレンジ精神を少し弱めて普通のレシピ通りに作ってくれないかと頼んだ。すると妹の目からはうるうると大粒の涙がこぼれ落ちた。五年前に両親が他界してから妹は精神を病んでいたが、涙を流す姿を見たのは久しぶりだった。兄はうろたえながら、実はこの北欧名産の塩漬けを一度食べてみたかったんだよと、などとその時は即座に妹の機嫌を取り直そうと何とかシュールストレミング入りの味噌汁を飲み干し、その後トイレに駆け込んで吐いたのだった。
その日以来、食事当番は交代制にしてもらった。さすがに毎日こんな日が続けば、自分の精神の方がやられてしまうと思った。硯徳の方は特段料理上手というわけでもないが五年前に杏夏の親代わりになってから料理は作り慣れている。一日置きにまともなものを食べられるだけでもかなり気は楽になった。妹の料理は相変わらず酷かったが、それでも食べ物でないものや毒を入れられない限りは、妹の思うようにさせている。
さて、と、味噌汁に手をつけようとした時、妹に伝えなければならないことを思い出した。
「あ、あさってはさ、昼飯食べられないかもだから、自分の分だけ用意してくれる?」
思いついたことを告げると、杏夏は眉毛を寄せ、ジト目で兄を睨んだ。
「何考えてんの?やーらし」
明日の夕方から近場の商店街主催の婚活パーティーがあり、硯徳も参加することになっていた。妹はあさって、パーティーに乗り乗りの兄が家に帰らない気でいると察して訝っている。
「いや、だってさ、リバーウエスト青年会のイベントだからさ、断れないでしょ?」
言って、かなり言い訳がましくなってしまったと思い、手にした味噌汁をズズッと啜った。その味に、眉が上がる。
「ん?これ、美味いよ!」
勢いで飲んだが、普通の味噌汁よりかなり深みがあり、鍋の後の汁のようなコクがあった。妹が今まで作ってくれた料理でピカ
「ん?何だこれ?」
口の中の食感も、貝にしてはガサガサと固く角張っている。一瞬、嫌なデジャブを感じた。恐る恐るヒゲのような毛を引っ張って口から出し、その先の物をよく見る。それは硯徳のよく知る陸上で飛び回る昆虫だった。
「商店街でね、たくさんあるからってもらったの、イナゴ」
途端、ん゛ん゛ん~~と変な声が出てトイレに駆け込んだ。さっきの夢から覚めた時の不快感が蘇り、さすがに妹の前で笑顔を保つことは出来なかった。
(誰だよ妹にイナゴなんか渡したやつは!)
硯徳は一日置きに自分に課せられたミッションを達成できなかった不甲斐なさを、妹にイナゴを渡した者のせいにして呪った。
硯徳の一日の始まりは昼から始まる。というのも、硯徳の仕事が夕方からだからだ。仕事が終わるのがだいたい夜の10時頃で、それから近隣の商店街の中にある居酒屋で食事をし、気が向けばそのまま同じく商店街内にあるバーへハシゴ酒するなどして、日付変更線を越えて帰宅することも珍しくない。
硯徳の住む
商店街横を流れる
硯徳は教室に入る前に、必ず大ケヤキの前に立ち、参拝するようにしている。二回深くお辞儀し、パンパンと柏手を叩き、一礼して締める。そして顔を上げ、大樹を見上げる。キラキラとした木漏れ日が、虹色に輝いて見えた。水醐堂の本堂にはメインの神も仏も祀られているが、硯徳はこのケヤキに一番神聖なものを感じている。母や、おそらくは父も、もしこの町の言い伝えのように風になっているのだとしたら、間違いなくこの樹に宿っているように思えた。さやさやと繁茂した葉を鳴らし、一陣の風が硯徳の頬を撫でる。夏に涼しく、冬に温かな風をいつも送ってくれ、硯徳の身体を包み込んでくれる。その風が吹くたびにやはり両親は近くで自分を見守ってくれているのだという実感を強めるのだった。
今日も無事に一日を始められることを感謝し、父母に語りかけるように目を細めて樹を眺めていると、突然、
「鬼が来たー!」
という鋭い声が背後から聞こえた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。
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