道徳の貯金箱
失恋したくらいで死ぬか?
──それが初見の感想だった。
夏目漱石の『こころ』を始めて読んだ時の感想だった。友人と同じ女性に惹かれ、友人を出し抜いた主人公はその女性と結ばれるのだが、友人はそのことを苦にして自殺してしまい、主人公は友人を死に追いやった罪悪感からその後の人生を生きる屍のように生きる、ざっくりいうとそんな内容だ。高一時の現国の夏休みの、読書感想文の課題図書として挙げられていた作品の中から選んで読んだのだった。
いざ読書感想文を書こうとさらなる考察を試みたとき、自分の心に不思議な光が灯った。当時私が心を奪われたのは、主人公が友人を死に追いやったその手法だった。恋に
「精神的に向上心のないものは、ばかだ」
結果この言葉がキラーワードとなり、Kは自分に恥じ入り、自ら命を絶つという行為に繋がっていく。『こころ』は第一次世界大戦直前に書かれた小説で、もちろん現代とは時代背景もモラルも違っただろう。だが私はそこに、現代にも通じる心の法則ともいうべきものを感じ取った。そして言葉一つで友人を死に導いたということに、恍惚としたのだった。
Kは浄土真宗の寺の子で、人より厳格な倫理観を持っていた。主人公が放ったキラーワードは元々Kの口癖で、その言質からKはモラルの低い者を普段から軽蔑していたことが伺える。女性に恋することが向上心のないことになるなど、現代のフェミニストが聞いたらSNSで吊し上げられて最悪社会的に抹殺されそうな信条なのだが、大切なのはそこじゃない。Kに取って向上心がないと揶揄されることは命に関わるくらい恥じ入ることで、主人公はそのことを知りながら言葉の矢にして容赦なく放った。そして見事、友人を恋の戦場から退場させるだけでなく、Kにこの世からも姿を消させたのだ。その後主人公はそれを気に病んで暮らすというクダリがつらつらと小説のフリとしても結末としても続くのだが、私に取ってそこは蛇足で、あくまで言葉一つで目的を達成させた主人公の成功談として魅力されていた。
もう細かい内容は覚えていないが、読書感想文にもそんなことを書いて提出したのだと思う。二学期が始まり、私は現国の教師に呼び出された。放課後に国語科の準備室に呼び出され、何か悩み事があるのか、そんなことを聞かれた。教師にしてみれば、私が心惹かれた内容は小説の本質ではなく、あたかも私が死に取り憑かれているように見えたのかもしれない。ちょうどその課題のお陰で心理学に興味を持ち、受験勉強などそっちのけにしてフロイトやユングなどを読み漁っていた私は、目の前のその現国の教師を実験材料にしようと考えた。
私は教師の目の前でさめざめと嘘泣きをし、胸に手を当てて、
「悩んでて苦しいんです。助けてくれますか?」
と切羽詰まった口調で言った。教師はそんな私の手を取り、自分でよければ力になる、何でも打ち明けなさい、と慈悲深そうな笑みを浮かべて語りかけてくれたが、その頬が紅潮しているのを私は見逃さなかった。最初に人気のない準備室に呼び出した時点で、その教師に下心があることを見切っていた。そして私たちがその後、体の関係に至るまで時間はかからなかった。私は日を置かずに放課後になると国語準備室に日参し、教師の方も上手く私と二人きりになれるシチュエーションを作っていた。手を握り、体を密着させ、唇を重ね……親密具合を日に日にエスカレートさせ、ついに体の関係に至るという日、私はその一部始終を隠して設置していたデジカメで録画した。そしてその帰り道、私はほくそ笑んでいた。
これでやつの命は私の手のひらの上に乗った───。
その教師はどちらかというと、普段から道徳意識は高い方だった。道徳的な行動をした人は不道徳な行動を取る可能性が高くなるという、いわば道徳の貯金箱ともいうべき理論を私は夏休みに手に取った心理学の本の中で知った。優等生はゴミを一つ落とすだけで必要以上にバッシングされ、ワルがちょっといいことをしただけで思いの外好感度を上げる、というどこの学校でも起こりがちな不条理も、この理論によると簡単に説明できる気がした。普段から道徳的に見えるやつは道徳の貯金箱がいっぱいで、いつ悪いことをしてもおかしくない状態にある、という見方もできる。ワルはその逆。ようは地震の理論だ。歪みが大きい時は近々地震が起きるかもしれないという警戒心を湧き起こさせ、普段から歪みを吐き出している地域はかえって安全地帯に思える、という。そして、私がターゲットにした教師は大きな歪みを抱えていたというわけだ。
その録画を撮ってからというもの、私はその教師にどんな言葉の矢を放つとトドメを刺せるかということを毎日嬉々として考えていた。戦前だろうと現代だろうと、人の心のシステムはそう変わらない。人は正義という庇護の元に社会的基盤を築き、いざその基盤が崩れれば、いとも簡単にその命を差し出すのだ。時代によって正義の基準が代わるだけだ。
人は恋によって死ぬんじゃない。社会から抹殺されることで死ぬのだ。
なぜなら人は社会的な生き物なのだから──。
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作品の扉絵です。よければ見て下さい。
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