第36話 挨拶しにいくだけなのに

「あ、そうだ」

 不破夫妻のテントからスタジアムの客席へ戻る道すがら、乙盗がぴこんと人差し指を立てる。

「りゅーりゅーとちい君のパパとママは? 来てるの?」


 言われてみれば、千色も龍郎の両親については気になる。会えるものなら会ってみたいが――。龍郎は首を横に振る。

「保護者向け配信で観戦しているらしい。うちは遠いからな」


 配信……。

 千色と乙盗は顔を見合わせ、そして、千色だけが思い切り吹き出す。

 ――乙盗は、人間が動かせる全ての表情筋をフル活用して、世界各国の美術館が奪い合うレベルの芸術的な変顔を完成させていたのである。


「何がおかしい」

 龍郎は怒っているというより、純粋に疑問を持っているようだが――。

「いや、龍の、親の、ことじゃなくて、コイツが……!」

 千色は、網膜もうまくに焼き付いた乙盗のアーティスティック変顔を、龍郎の無表情爬虫類フェイスで上書きしようとするが、無理だった。


 笑いすぎてもはや異常な呼吸をしながら乙盗を指差している千色と、その指の先で素晴らしい変顔をしっかりキープしている乙盗を見て、龍郎はぎゅっと眉根を寄せる。

「乙盗の何がおかしい」

「顔がおかしいだろ!」

 笑いすぎと龍郎の天然のせいで急激に怒りを噴出させられた千色が怒鳴るが――。


 龍郎は、疑問にゆがんだ眉をいたかと思いきや、一歩がって千色との距離を離し、「……千色が他人ひとの顔を笑うような奴だとは思わなかった」と呟く。


 引くな。

 引きたいのはこっちだ。


「ふぉむんもんぐむむんむん」

 表情筋を全て使っている乙盗が、何か喋っている。

 ――言葉は分からないが、つまり、乙盗も龍郎の味方なのだろう。

「むふぇんもぐんむん。ふぇー」

 乙盗から同意らしきものを求められた龍郎は、乙盗の、ミイラ化した豆のような目を見て、しっかりと頷く。

 ――これが乙盗が変顔をした顔だと分からないのなら、お前はどうやってこれを乙盗だと認識しているんだ。


 しかし、この二人に真面目に付き合っていてもらちかない。

「……まあ、その、龍んは、配信とか、大丈夫なのかって……」

 もそもそ喋る千色に、龍郎はぐっと、十五歳にしては厚い胸を張る。

「うちにはインターネットがある」

 現代のこの国でインターネットがあることを自慢してる時点で大丈夫じゃねえよ。

 ――そう言いかけた千色だったが。

「俺の母さんはオイリー製油・納嶋支社のセキュリティエンジニアで、父さんは小谷斎農機おやさいのうき株式会社で農業用自動機械のソフトウェア開発をしている。二人はインターネットが普及していなかった頃、自作の無線ネットワーク機器を家に設置して、電波法違反で捕まりかけたことがある。だから今うちにあるのは、ネットワーク機器とは言っても、自作の違法機器じゃなく、きちんと電波法を守るメーカーが作ったものだ」


 誰も電波法違反については心配してねえんだよ。

 あと、バリバリIT系職業の両親じゃねえか。その息子は一体どうしてこうなってしまったんだよ。


 しかし、このウルトラナチュラルドラゴンに何を言っても仕方がない。千色が取り敢えず「見てくれてるなら良かったな」と言うと、龍郎は嬉しそうに頷いた。

 ――顔はいつも通りだが、そんなに目をキラキラさせて――。


「んじゃ、ちい君のパパとママは?」

 千色の視界に、乙盗の顔がにゅっと滑り込んでくる。――さいわいそれは、いつものむかつく不破乙盗の顔に戻っている。

「やっぱり遠いから配信?」


「一年目だし、母さんは来てみるって言ってた。父さんは配信で応援するって」

 千色はつとめて、さらりと言うようにした。

 高校生にもなれば、自分の家庭が平均的なそれとは少し違うことくらい分かる。それでも、千色にとってはこれが普通なのだから――。


「なんで別々なの?」

 乙盗が丸い眼鏡の奥で、糸のような目をぱちくりさせる。

 かれることは予想していたが、いざこうなると、どう答えていいのか――。

「お仕事? おでかけ? 不仲? 別居? 離婚? 病気? 死別?」

「配信で応援してるっつってんだから少なくとも死別なわけねえだろ! 別居だよ!」

 あまりにも不躾ぶしつけで失礼でデリカシーのない乙盗に、千色は脊髄せきずいから怒鳴る。


 ――しかしまあ、変につかわれるよりは良かったのかもしれない。

 ……いや、やはりこれは明らかなノンデリ発言だ。後でどうにかしてやるから覚えてろ乙盗。


「なら、千色のお母さんにも挨拶しにいくか」

 龍郎がそう言う頃には、千色たちはにぎやかな出店スペースを抜け、スタジアムの入り口に続く道の一つを歩いていた。

 龍郎は前方、人がまばらに歩いている景色の中の、どこともとれない場所を眺めながら、体操服のシャツの胸元を握ってぱたぱたとやっている。


 ――こいつはデリカシーがあるというか、何も気にしてねえだけだな。

 あまりにもいつも通りの二人にどこか気が抜けた千色は、ああだのうんだのと返事をして、母親に居場所をたずねるためにスマートフォンを取り出す――。

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