第35話 セールスプロモーション

 不破夫妻が飲み物を配るテントの横で『おいしい水』をぐびぐび飲んだ乙盗が、ぷはぁっ、と、お手本のようなおいしい声を出す。

「パパとママのお水、おいしーっ」

 気持ち悪い顔でうひうひ笑う乙盗の横で、龍郎も、すずな汗をかいたグラスから小麦色の液体を飲み、ふむ、と頷いている。


 ――千色は正直、乙盗がファミリーレストランのドリンクバーで毎回千色たちに作ってくる、『おつとりくんのおいしいスペシャルドリンク』ようの液体が出てくることも警戒していた。しかし、不破夫妻が提供してくれた水、茶、スポーツドリンクはいずれも、ごく普通の色をしている。


 それでも千色は、二人がぶっ倒れないことをよくよく確認してから、恐る恐る、自分の水筒に口をつける。

「ん」

 腹の奥から声を漏らした千色は――。

 そのまま、水筒の半分を飲み干した。


 ――なんだこのスポーツドリンクは。

 ほどよい塩味えんみ甘味あまみ旨味うまみに乗った水分が、するすると体内に入っていく。

 これは、今の千色の身体が求めていたものと寸分すんぶんの狂いもなく同じもの――。そのうえ、千色が少し苦手だと思っていた、普通のスポーツドリンクの、喉をひりひりと刺激するような酸味がない。代わりに、体温が〇・五度は下がりそうな、夏の水辺のように爽やかな風味がある――。


「これはまずい」

 思わず呟いた千色の顔を、乙盗と龍郎が同時に覗き込む。

「……おいしくなかった?」

 乙盗は非常に悲しそうで、

「失礼だぞ」

 龍郎は恐らくけわしい顔をしているつもりのようである。


「いや、そうじゃなくて」

 千色は不破夫妻に誤解をさせなかったかとテントの下をうかがいつつ、慌てて首を振る。

美味うますぎて、俺、明日からこれ以外のスポーツドリンク飲める気しねえ」

 ――乙盗のにんまり顔が、千色の視界の左斜め下からにゅるんと覗く。

「まいどありぃ」

 乙盗の手は隠す気など一切ない、綺麗な『お金』マークを作っている。――そして乙盗は、台本も料金表もなしに、ぺらぺら喋り始める。

「そのまま飲めるペットボトルは二リットルで税抜き三九五円。軽くてコンパクトな、水に溶かすだけのパウダーは出来上がり十リットル分で税抜き一六四二円。パウダーは二リットルのペットボトルを五本買うより税込みで三六六円お得だけど、ちい君がいま飲んでるのと全く同じ味にするには専用のお水も買わないけないよ。で、これだとかなり高くつくから、ぼくは、税抜き三千円で一か月飲み放題のレンタルドリンクサーバープランをお勧めするよ」


 ――この野郎。

 しかし、本当に美味いのだから文句も言えない。

 歯軋はぎしりしながらスポーツドリンクを味わう千色の横で、ブレンド茶を飲み終えた龍郎は「乙盗、営業はほどほどにしておけ」などと言いながら、時間の経過で消滅した即席グラスの代わりに新しいグラスを三つ作り、不破夫妻のテントの列に並び直していた。

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