第12話 世界を変える魔法

「おいかえで、この問題おしえろー」

 千色が手のひらでばしばしとテーブルを叩くと、向こうの席で乙盗に勉強を教えていた瀬界がぱっと顔を上げ、寮の食堂を駆けてこちらにやって来る。

 ――ここは千色の知らない場所であったが、何故なぜだか千色は、ここが寮の食堂であることを知っていた。


「お待たせ、七変なながわり君。どこが分からないんだい?」

 千色の横に来て、テーブルに置かれた参考書を覗き込んだ瀬界からは、甘いハーブのような、柔らかくも目の覚める香りがする。


「ここだよ、ここ。この解説文、解説のくせに説明ばしすぎてて、意味かんねえ」

 千色は手元にあるこの本を見たことがなかったが、千色はそれが数学の参考書であることを知っていたし、千色にとってそこに書かれている文章は、まるで違う言語で書かれているかのように意味不明だったが、千色はそれが数学の問題の解答を解説する文章であり、その文章が説明不足であることを知っていた。


「ああ、この参考書は初心者向けとうたっているくせに、時々、プロの数学者にしか分からない書き方で書いてあるからね」

 瀬界は納得しつつ頷くと、千色の参考書やノートを指差したり、ペンで書き込みを入れたりしながら、丁寧に説明していく。

 千色には瀬界の言っていることが何一つ分からなかったが、千色には、瀬界の言っていることが全て理解できた。


「ねえねえ、楓くぅーん」

 千色はもっと瀬界の話を聞きたかったのに、向こうで乙盗が呼んだせいで、彼はそちらへ行ってしまう。

「おい、楓。楓ぇー」

 千色は何度も彼を呼ぶが、瀬界は「ちょっと待っていてね」と言うばかりで、一向に乙盗のところから離れようとしない。

 クソ、乙盗め……。


「瀬界、こっちも教えてくれ。緊急だ」

 そう言ったのは、龍郎だ。

うそけ龍! 緊急なわけねえだろ!」

 しかし瀬界は千色の声を無視して、乙盗との話を切り上げると、龍郎の方へ行ってしまう。


「このクソドラゴン! 俺が先に予約してたのに!」

 千色は文字通り地団駄じだんだむが、瀬界は「予約とかはないからね」と、困り顔で笑って誤魔化ごまかす。そしてそのまま、千色の頭上、食堂の壁に掛かった時計を見上げて――。さっと顔を青くする。


「三人とも、ごめん! 今から、白尾しろおさんたちの勉強会にも顔を出さないといけないんだ!」

 申し訳なさそうに両手を合わせた瀬界は、千色たちがめるのも聞かず、大急ぎで荷物をまとめて食堂から走り出ていってしまう。

「ああもう! なんで楓は一人しかいねえんだよ!」

 千色は無駄だと分かっていながら、食堂の椅子をけ掻き分け、既に姿の見えない瀬界を追いかける――。


「ぐぇっ」

 顔面に強烈な痛みを感じ、握り潰されたカエルのような声を漏らした千色は、走っていた勢いをひっくり返されて、背中から倒れ込む。

「いって……」

 食堂の広い出口から出たはずだったが、慌てていたから戸枠とわくにでもぶつかったか?

 千色は、千色を嘲笑あざわらうかのように脈打ち痛む鼻をさすりながら、目を開ける。さいわい、流血はしていないようだが――。


「ん?」

 寮の食堂にいたはずの千色は、まぎれもなく、一年C組の教室にいた。

 千色が倒れているのは自分の席の近くではなかったが、見慣れた教室の中の、いつも先生たちが入ってくる前方の扉の横、まだ何も貼られていない貼り紙コーナーの下の床だ。

 ――画鋲がびょうが無くて良かった。

 千色が一瞬えた心臓を押さえつつ、龍郎と乙盗の方を振り返ると、二人は千色の方を見もせずに楽しげに談笑している。


「なるほど、あれが瀬界の魔法か」

「うん、初めて見たぁ。面白かったねぇ」

 一見には平和な空気が流れる教室には、あの食堂と同じように、瀬界の姿がない。

 ――千色にも、何となくではあるが、状況が飲み込めた。

「お前らも、壁に激突しろよ……」

 千色は自分でも理不尽だと分かる文句を垂れながら、すごすごと自分の席へ戻る。


 ――確かに、彼の魔法は面白いものであった。

 瀬界は入学式当日の自己紹介で、そして事あるごとに、自分の得意な魔法は「世界を変える魔法」だと言っていた。今までは、ただの大げさな形容で言っているのだと思っていたが、彼の魔法は本当に、一定範囲の世界を一時的に変えるものだったのだ。

 さっきは、瀬界が移動をしたことによって、千色が魔法の効果範囲から抜けたために、千色の目の前にいきなり教室の壁が出現したのである。


「ん」

 千色は自分の席に座ったところで、足元に一枚の紙が落ちているのに気が付き、それを拾い上げる。

「なぁに、それぇ?」

 遠慮なく身を乗り出して覗き込んでくる乙盗と共に、千色と龍郎もその紙に書かれている文字を読む。



 一学期 中間考査成績表 1年C組12番 瀬界楓


 クラス内順位 36位(36人中)



「……つまり、あいつは……」

 千色の目配めくばせに、龍郎が頷いて続ける。

「ただ、寮生活に憧れていて」

 龍郎から目配せのパスを受けた乙盗が、首をかしげつつ、その続きを言う。

「本当はもっと勉強ができるようになって、勉強会でひっぱりだこになりたい、ってこと?」


 ――世界を変更する魔法は、プロの世界でも難しいとされるが、一方で非常に強力な魔法でもある。

 瀬界は、そのような魔法をこれまでに見せてこず、何故か今、千色たちの前では初めてそれを発動して、自分が、実際にはおとずれたこともない学生寮でクラスメイトたちに勉強を教えているという、一見には意味の分からない世界を作り出した。


 これは恐らく、今の瀬界が難易度の高い世界変更魔法を発動するには、「自身の『意識』が最高潮に高まったとき」などの厳しい条件が必要であるからだろう。

 そして、これも恐らくであるが、彼はその条件のせいで、自分の得意魔法を十分に練習することができていない。


 ――千色たちはあの魔法のどこかに、幼児が遊びで使う魔法ににじむ、甘いミルクのような初々ういういしさを感じていた。

 千色たちがかかった魔法は、瀬界の感情のままにあふた、コントロール不能の魔法だったのだろう。


 瀬界の純粋な願望だだれの世界を体験してしまったらしい千色は、えず、拾った成績表を瀬界の机の中にそっと入れた。

 龍郎はかばんからスマートフォンを取り出しつつ、「『いつでも寮に遊びに来い』ってメッセしとく」とつぶやいた。

 乙盗は、「楓君の魔法、盗んでみたぁい」と、にこにこ笑って言った。

 千色と龍郎は、全力で乙盗をめた。


 あの魔法は瀬界が持っているからこそ、この世界の平和が保たれているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る