4.小と大に関する実験(全3話)

第8話 永久機関

 こ、こすっ。


 そっと、そーっと、扉を叩く音がする。

 せっかくの休日を潰し、寮の自室で中間考査ちゅうかんこうさに向けての勉強をしていた千色は、勉強を中断する口実ができたことと、扉が叩かれたときに自分が静かに座っていたことに感謝しつつ、席を立つ。


 なぜ、扉が叩かれたときに静かに座っていなければならないか――。

 それは、扉を叩いたのが龍郎だからである。

 龍郎には、春の入寮初日に男子寮『慶桜寿けいおす八号館』の全員に律儀りちぎに挨拶をしに行き、そのこぶしで全室の扉を破壊したという過去がある。


 それ以来龍郎は、ノックを最大限に優しい力でするようになったため、部屋のあるじが立って歩いているだけで、龍郎のノックの音が聞こえなくなるのだ。

 千色はいつだったか、自室で筋トレをしている間に龍郎が来たことに気が付かず、一通りのトレーニングをし、トレーニング後のプロテインを作って飲み、休憩がてらにゲームをして、シャワーを浴びようと部屋を出たところで、二時間ものあいだ扉を叩き続けていた龍郎と鉢合はちあわせしたことがある。


「どした、龍」

 千色が扉を開けると、龍郎はそのいつかの日と同じ位置に、同じ顔で立っている。

「千色」

 龍郎はとかく表情が薄いうえ、時折ときおり、その無表情で突拍子とっぴょうしもないことを言い出すので、彼の顔を見ただけでは用事の想像がつかない。


「変身魔法を教えてくれ」

「変身魔法?」

 千色はすぐさま聞き返してしまう。

 龍郎の場合、変身魔法の実技に関しては千色に劣るものの、ドラゴンになるという稀有けうな魔力が変身の魔力に近い系統のものであるからか、変身魔法も得意な方である。それに、先日『魔法理論』や『世界史』の授業で行われた変身魔法に関する筆記小テストの結果は、千色より良かったはずだ。

 しかし、龍郎は彼なりに、変身魔法に関しての悩みがあるのだろう。千色はそう判断して、龍郎の相談に乗ることにする。


 ――これは決して、勉強を休むための口実作りなどではない。

 千色は親友の龍郎のために変身魔法を教え、そして千色自身も、それによって中間考査に向けての復習をするのだ。教え合いが徐々に消滅して二人でゲームをしてしまうなどということは、決してあってはならない。

 千色の脳内で良い理論が組み立ったので、彼は龍郎の親友として「教え合いは大事だからな。今から龍の部屋に行こう」と提案する。しかし。


「まずはトイレだ。そのあとに理科室だ」

 龍郎の顔は、真剣そのものである。……彼の表情はよく分からないので、恐らく、ではあるが。

 しかし、きっと千色の聞き間違いに違いない。『理科室』は分からないでもないが――。

「あー、トイレ? つったか?」

 千色の問いに、龍郎は、しっかりと顎を引いてうなずく。


「……行きたいなら、行ってこいよ」

 千色が廊下の向こう、この階の共用トイレがある方を指差すが、龍郎は間髪かんはつ入れずに「行きたいわけじゃない」と言う。

「練習材料は多い方がいい。千色の尿もくれ」

 ……ん?

 話が全く見えてこない。

 というか、『尿』……?


「いらないだろ、尿」

 龍郎は何がおかしいのかとでも言いたげに、まばたきをする。

「いや、いらないけども……」

 千色は龍郎のぐな視線につらぬかれながら、文字通り頭を抱える。


「なんで俺の尿がいるんだよ。変身魔法の話は?」

 そう。そもそも龍郎は、変身魔法を教えてくれと頼みに来たはずではなかったか――。

 千色のその疑問に答えた龍郎の表情は、変わらず、恐らく真剣であった。

「自分の尿を水に変身させて飲めば、永久機関ができる」

「できないけど⁉」

 人間が飲み物や食べ物から摂取した水分は、尿からだけでなく汗や呼吸などによっても体外に排出されているので、出た尿を全て飲み続けても、体内の水分は結果的に減っていく。そのうえ、変身魔法は効果が永続しないので、水に変身させた尿の成分が体内に残っている間に変身魔法がけてしまって、体内のあるべきではない場所に尿の成分が急に出現するという事態が発生するリスクもある。――ということを千色が説明すると――。


「……そんな悲しい目をしないでくれよ」

 龍郎の表情は相変わらずだが、その黒い瞳の奥は、留守番るすばんを命じられた子犬のようにひどく悲しげだ。

 しかし、その悲しい光はすぐに、スイッチが切られたかのようにパチンと消える。

 ――何を思い付いたのだろうか。


「ドラゴンにはうろこがあるから汗をかかない」

 確かに、ドラゴンになった状態であれば、水に変身させた尿から水分を取る際の効率は良いかもしれないが――。

「ドラゴンだって呼吸はするし、尿の成分が体内の変なところに出現したらまずいだろ」

 龍郎の目の奥に、再び悲しい光がともる。

「……ああもう、分かった、分かったって」

 龍郎の目によるうったえは何故なぜか、どんな言葉よりも千色の脳のずいに突き刺さるのだ。


「どうしても水が無いときとか、緊急時にはたぶん役に立つよ。うん。ほら、早くトイレ行こうぜ」

 龍郎の瞳が、ぱあっと輝く。

 千色は龍郎の肩を抱いて仲良くトイレに向かい、魔法で作った即席の薬瓶くすりびんにそれぞれ尿を詰めてトイレを出たところで乙盗と鉢合わせし、「二人ともおしっこ持って何してるの?」とかれたところでわれかえったが、もう遅かった。

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