君の笑顔だけだったから

君の笑顔だけだったから・本編

平日の深夜、横断歩道で青信号を待ちながらふと彼女の横顔を見た。昔と変わらず、やっぱり綺麗だ。我慢なんてできずに彼女の顎に手を添え、口付けをした。

 時が止まったようだった。その刹那、本当に止まってくれと強く願った。閉じた瞼の裏に、僕たち二人を遠くから俯瞰していている映像が浮かんだ。静かに離すと、梨花ちゃんは傷ついた顔をしていた。

「さよなら。」

 長い黒髪をなびかせて彼女はタクシーに乗り込む。僕が返事をしないうちに自動ドアが閉まった。彼女はこちらを見向きもしない。そのうちタクシーは走り出し、大都会の夜の摩天楼に溶け込んでいった。

 あぁ、暗く終わりのないトンネルの中を僕はずっと彷徨っている。

 そうシンプルに言えば———-

 あなたが好きだった。

 

 高校二年の秋にしてやっと僕たちは互いを愛した。そのとき以前から彼女は高嶺の花だった。そんな梨花ちゃんがなぜ僕を選んだのかはわからない。けれどそんな疑問に悩まないほど十分に彼女は僕を満たしてくれた。

 季節は転がり、まもなく僕らは進級した。大学受験という人生の転換点を目前に、ただがむしゃらに精進する日々。何といったって、梨花ちゃんが僕の活力の源だった。梨花ちゃんと必ず同じ夢を達成する。そう信じて。

 けれど、結果的に僕はその夢を手放してしまった。映画同好会に所属していた僕は、高校三年間を少ない仲間たちと映画作りに捧げていた。二年の終わりに作った作品『ロングサマーナイト』が功を成し、映画甲子園でノミネートした。三年の夏、式典に出席した際はこの上なく嬉しい瞬間だった。その日は財産のありそうな雰囲気の大人たちと幾度も挨拶を交わした。そのうちの一人、S氏が僕の手を取りこう言ったのだ。

「君が監督を務めたんだって?いやぁすごいね、本当に。お世辞ではないよ。才能を感じました。ぜひ今度、この名刺の番号に電話をかけてください。君といつか共同作品を作れることを楽しみにしていますから。」

 【cherish entertainment 代表 S氏】

 それは夢のひとつだった映画業界に足を踏み入れる切符だった。帰りの電車でも就寝時になってもずっと興奮が収まらなかった。

 次の日、僕は当然電話をかけた。やはりなんとなくそうなる予感はしていたが、高校卒業時にその映画会社への入社への検討を求められた。あまりにも良い方向へトントン拍子に進むもので、夢に違いないと何度も現実を疑った。そんな僕は検討などする必要もなくYESを胸の内に据えた。放任主義な両親もこれに反対はしなかった。

 月曜の朝、登校して真っ先に梨花ちゃんにこのことを伝えた。思った通り彼女もいつもの優しい笑顔で喜んでくれた。けれどしばらくして彼女の表情が曇った。

「それってつまり、上京するの?」

 上京。今まで脳内に一瞬たりとも存在しなかった二文字。「あぁそうだよ」とすぐに返事が浮かばなかった。そうか、つまり上京か。彼女に言われて初めて気がついた。確かにそうだよな。ということは、この子との大学生活は?遠距離になって破局して、この子は別の男のものになるのか?僕はもうこれから、こんなに綺麗な子に出会えることもこんなに人を愛することもないだろう。ただの高校生のお遊びの恋愛に過ぎないと他人は思うかもしれないが、僕にとってこれは生半可な恋じゃなかった。だから無理に微笑みを保とうとする彼女が痛々しかった。

 普通の受験生にはない葛藤が僕の中で芽生えた。この波を逃せばきっと一生後悔する。しかし梨花ちゃんを手放したとしても一生後悔するだろう。そのジレンマの中で悩みもがき苦しみ、僕は一択に絞りきれなかった。信じていたから。遠く離れてもきっと大丈夫だと。ずっと愛せると。若さゆえ根拠のない自信があった。

「上京するよ」

 そう告げたときの梨花ちゃんの泣き出しそうな顔が今でも脳裏に焼き付いている。

「やだ、行かないで。寂しいよ、聡くん——-。」

 「許してくれ」と放課後の二人きりの教室で抱きしめた。指に絡む黒髪が愛しかった。肩でヒクヒクと息をする音がし、まもなくそこが濡れだした。

「でも頑張って。聡くんのためなら私はずっと応援するよ。絶対聡くんの味方だからね。」

 自分勝手な男だな、僕は。可愛い彼女の小さな泣き声が響き、瞬く間に激しい自己嫌悪が襲ってきた。無理やりそれに打ち勝てるようにさらにぎゅっと抱きしめた。

 彼女があの日、確かにそう言ったから。彼女が僕を応援してくれる分、僕も彼女の背中を押したかった。しかしやがて切羽詰まったピリピリとした冬になり、僕と彼女の交流の機会もほとんどなくなってしまった。しかしもうあと一ヶ月もすればまた笑顔が返り咲くだろうと僕は春を気長に待つことしかできなかった。

 季節は止まることなく巡った。待ち侘びた卒業式の後、僕は体育館裏に彼女に呼び出された。そこで告げられたのは予想だにしない言葉だった。

「別れたいの。」

 パリンと聞こえた気がした。桃色の桜が満開であるのに、突然視界が暗転した。どういう意味だ?しばらく唖然として、やっとのことで言葉を絞り出した。

「どうして」

「嫌なの。辛い思いをしたくない」

「別れたくない。」

 真っ直ぐ向き合っているのに目も合わせてくれなかった。彼女の手首を掴もうとすると「やめて」と振り払われた。

 そして彼女は背を向けて歩き去っていた。「何で」と訊ねる勇気はなかった。あまりにもあっけなく終わった恋。スッとメスが入ったように胸が痛み、そしてそこから血が流れるように一筋の涙が頬を伝った。

 あの日のあの言葉は一体何だったんだ?もう僕はもう要らない?あなたがいない世界をこれからどう泳げばいい?僕の何が足りないんだ?あなたは何故離れていくの?

「なあ、どうしてだよ?」

 落ちた雫が乾いた土にさっと吸収されてゆくのも見えなかった。

 新春の午前六時。僕は空港行きのバスを独りで待っていた。北風が僕の頬を引っ掻き、ジャケットの中をすり抜けてゆく。空を見上げると、漆黒の闇の中に尖った銀色の三日月が眠っていた。やがてバスがやって来た。並んでいた人々がぞくぞくと乗車して行く。僕の前に立っていた男女が手を解いた。そして女性が「バイバイ」と笑って手を振ると、男性も同じように手を振った。見知らぬ二人とも、力の抜けた寂しそうな顔をしていた。僕はそんな光景を見て、梨花ちゃんのことを思い出さずにはいられない。でもすぐにはっとした。僕はもう、彼女とは破局している。

 地面を見つめて僕はバスに乗り込む。やがて荒めに走り出すバスに揺られ、夜明け前のこの街を見つめながら彼女の存在を思い出した。窓の外を通り抜けていくただのアパートが彼女の家に似ていた。寝不足で瞼が重いが、僕は生まれ育ったこの街を脳に焼き付けるために目を決して閉じない。僕はこの街を捨て、彼女との思い出を捨て、両親と青春を置き去りに上京する。耐え切れなくなって、ぎゅっと固く目を閉じた。ヘッドホンに手を当て、もう何もかも僕の全てを閉じ込めるように。バスを降りた途端、吐いた息が白く視覚化し冷気に溶けた。

———————————————————-

 十九歳の時のある土曜。流行りの洋服を買ってケーキを食べ、新しいネイルに変えた後、駅へ向かっていた。その時偶然私を見かけた編集者に声をかけられ、私は読者モデルの門を叩くことになった。難しくはないのにお小遣いが稼げるなんて、という安直な理由で私はその仕事に飛び乗った。一度だけの話だと思っていたら、その一ヶ月後も、そしてその二週間後も呼ばれ、さらにだんだんと頻度が増えていった。これがただの小遣い稼ぎ感覚ではなくなったのは、雑誌【きらぱふぇ】の専属モデルとしての道を歩む提案をされたときだったと思う。当時私は目指していた職業もなければ今後の人生のことなんて全く考えていなかった。だからこそ、知らない世界を放浪するという無茶な選択を軽く決断できた。

 それを機に上京してから何年が経つだろう。ランウェイを数秒歩き、カフェ紹介をして、CMにエキストラとして出演しては学園ドラマの生徒としてちょこっとだけセリフを貰えてから、ここまで。ずいぶん遠くに来た。やっと映画の鍵役を託され、私はひとりの女優として世間から認識されるようになった。

 今夜は映画界の立食パーティーに参加している。勿論周りの人間は良い大人ばかりで、自分もその場に溶け込めるほどの大人になったことを実感する。赤いドレスに赤い唇と私。すれ違う男性は皆そんな私を意識する。そんな視線にはもう慣れた。

 酒の酔いもほどよく回ってきた頃、大手映画会社の代表S氏とその隣にいる男性と挨拶を交わした。名刺を受け取ると私は目を疑った。

 【cherish entertainment 奥宮 聡】

「お久しぶり。」

「お二人、知り合いなのかい?」

「ええ。高校の同級生でして。」

 まさかこんな場所で会えるとは夢にも思わなかった。高校の卒業式からは容姿も声もずいぶん変わっている。あの頃はこんなにきりっとしていなかったし、こんなに落ち着いた雰囲気もなかった。そう、まさに良い男。どうして私は別れなんて告げたのだろう?

「相変わらずお綺麗で。」

 ああ、そうだ。いつかは別れることになるとわかっていたから。だんだんと蘇ってくる。利害関係なんて一切無しの心からの愛。別れを突きつけたのは私なのに、長い間心の中で密かに彼がくすぶっていた。そしてそれに蓋をして生きていた。

「このあと時間ある?」

 宴も終盤に近づいたころ、さりげなく彼が近づいてきてさらっと誘われた。もう繋がりなんてとっくに切れているのに、彼が作るその慣れた流れに裏切られた気持ちになった。

「ええ」

 それなのに断る理由などなかった。

 ずっと寂しかった。聡くんを最後に、心から愛せる男性に出会えていなかったから。それに聡くんがくれた愛以上を与えてくれた男性もいなかった。もう、どうして私はあの時———。大人になってから悔やんでも仕方ない。若いうちは気づかなくて当然だ。経験も知識も考え方も全てが子供なのだから。

 初めての時を思い出す余裕は与えられなかった。私たちは、傷跡を舐め合うように唇を重ね合わせた。指を絡め、強く抱きしめ合うほど———-こんな感覚は生まれて初めてだった———熱帯夜のアイスの如く脳がとろけていった。感動で身体の震えが止まらなかった。

———————————————-

 あまりの眩しさに目を覚ました。カーテンは全開で、何といっても突き刺さるような朝日が部屋に満ちている。天井と窓、それ以外の部分を見渡してふと思った。ここは一体どこだ?目を擦り、何も纏わぬ自分の胴体を見て眩暈がした。「まじかよ…。」ほとんど声にならなかった。まだ無気力な重い瞼と体が重力に従う。

「まさに夢ね」

 隣の彼女も体を起こし、うなだれる僕にもたれた。髪の束がサラリと僕の肩を撫でる。

———「ごめんなさい。あなたのことを傷つけて…。好きだったのよ?だけど、終わるにはちょうど良いタイミングだった」————

 昨晩、これ以上過去を知りたくなくて無理やり彼女の口を塞いだ瞬間がフラッシュバックした。

 

 僕たちは何事もなかったかのように別々の普段通りの日々へ戻った。僕は労働に耐えながら何度も彼女を思い出した。けれど連絡などすることもなく時が経ち、あの夜は風化していった。もういいんだ。彼女は広い世界の中でのひとりの女にすぎない。それに、意味のわからない理由で僕を裏切るような、そんな女だ。

 そうこうしているといつかは来ると思っていた出来事がついに起きた。僕が今度制作に携わる新映画に彼女が配役されたのだ。それに伴い、仕事で何度も対面する機会があった。もっとも十年前のように胸が高鳴ることはもうなかったが。

 深夜、撮影を終えやっとスタジオを出るとちょうど彼女と同じタイミングだった。

「車のお迎えは?」

「ないの、今日は。」

 夏を乗り越えた涼しい夜風が頬を掠める。なんだか懐かしい気分だ。もう彼女に執着なんてしていない。けれど彼女と歩いていると、気付かぬうちに出来ていた穴が埋まっていく感覚がする。彼女の仕草や言動の節々を大切に思ってしまう。


 —————————————

「最近お仕事はどう?」

 そんな当たり障りのない話を繰り返すうちに、もっとこっちを見てほしいと思った。相変わらず優しい性格が滲み出ている。笑顔も変わっていない。いや、例え過去の記憶が無かったとしてもきっと私は彼を好きになる。

「辛いな」

 私が彼の婚約者として、辛い思いをしている彼を静かに支えるという構想はどうだろう?良いんじゃない?あぁだめだ。ねぇ何を考えているの?もう何よ、何なのよ。

 夜も耽り交通量は少ない。高いビルやマンションのまばらな灯りが夜空を飾る。二人して赤信号で立ち止まった。この街の夜はなんて綺麗なのだろう。

 無言になった。ただぼんやりと車の流れを眺めていた。すると突然彼の手が頬に触れた。驚く隙もないまま強引に顔を動かされ、唇に熱い唇を押しつけられた。

 


 どういうつもり?

 視界の隅には人間の気配が少ないけれどもあるというのに。きっと今、遠くの誰かがシャッターを切ったに違いない。

 何してくれるのよ?嘘でしょう?

 ちょうど少し離れた場所に空車のタクシーが止まっている。乗らなきゃ、すぐに離れなきゃ。熱愛なんてずっと我慢をして避けてきた。明日週刊誌にのってしまえば、私の仕事はこれからどうなるのだろう?やっと大役を任されて、私は女優としてこれからの時期なのだ。好きであろうがなかろうが恋愛なんて今の私には許されない。聡くんはワカッテル男だと思っていた。

 信じかけたこの恋とキャリアを天秤にかけたとき、みるみると彼に対してへの情熱が冷めていった。そっと唇を離され、真っ直ぐ私を見つめる聡くんに告げた。

「さよなら。」

 さようなら。また私から。


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