14 寂しい、

朝起きると、いつかと同じように、ソファーの上には誰もいなかった。

急いで下へと降り、ばらばらとお客さんの入り始めている客席を抜け、カウンター裏へとまわる。

「っ姫さん、ユキトは!?」

思ったよりも大きな声が出て、お酒の準備をしていたらしい姫さんが肩を跳ね上がらせて、こちらを振り返る。

「えっ、ユキト?ユキトなら、まだ降りてきていないと思うけど……どうかしたの?」

いぶかしげに首をかしげられ、尋ねられる。だが、僕はすぐに返答できなくてうつむいた。

降りてきていないわけがない。だって、二階に部屋は一つしかない。そこにユキトがいないのなら、絶対に、一階に降りてきているはずだ。

じゃあ、どこに、行った?

「…………ハル。まさか貴方、今から向かうつもりなの?」

「えっ?」

いつまでも返答しない僕に、姫さんがそう言う。顔を上げれば、鋭い目が僕を見つめていた。

「分かってたわよ。あのお客さんと貴方が話していたときより、ずっと前からね。ハル、貴方、『雲』に行くつもりなんでしょう?現世に戻るために。」

「……止めないんですか。」

そう言うと、姫さんは、僕から目をそらして苦笑する。

「最初に言ったでしょ、『深く関わるつもりはないけれど、』って。情けをかけるほど、ハルと仲良くなったつもりはないわよ、私は。良いお手伝いさんだったな、って思うくらいよ。」

そういえば、そんなことを言われたような。

寂しさなんてみじんも感じられない姫さんの言いように、少しだけ、安心する。

突き放された、というのがないわけではないけど。こうやって送り出してもらえるのは、こちらとしてはすごく有り難い。

……だが、これで、分かった。ユキトが、どこにいるのか。

「姫さんが気付いていたのなら。ユキトも、気付いていたと思いますか。」

問う意味もないと思ったのか。ほとんど間を開けることもなく「当たり前でしょ」と返ってきた。

「だから、今ここにいないんでしょうね。……言っておくけど、あの子は、私ほど大人じゃないわ。ただの子どもよ。」

二つのグラスをお盆に乗せて、姫さんは、さっきの言葉が噓みたいに悲しそうな顔をした。

弟を信用しているけど、心配している。仕方ないな、みたいな。姉みたいな表情だ。

「子どもを子どもに任せるなんて、情けないことだけど。もし行くのなら、ユキトをよろしくね、ハル。」

いってらっしゃい、とは、言われなかった。

急な旅立ちをしてしまったことに罪悪感を覚えながらも、僕は、笑顔で僕を見送ろうとしてくれている姫さんに、軽く頭を下げた。

「任せて、ください。」

向かうのは、切符のある電話ボックス。


見覚えのある路地を、走っていく。

最初、追手から逃げていたときよりも、ずいぶんと足が軽い気がしていた。ここで過ごすうちに、体力がついてきたのだろうか。死んでいるというのに、まあ皮肉なものだな。現世に戻っても、この体力が残っていたら嬉しいものだが。

真っ直ぐ伸びていた路地から、ある一角を曲がる。

その向こうにあるのは、薄く光を放つ電話ボックス。そして、その前に立つ、一つの人影。

「ユキト!!」

ここは街に近い路地で、もしかしたら、声が街の方にまで響いてしまうかもしれない。

そんなことも思ったが、僕は、気づけば声を張り上げて人影に駆け寄っていた。

振り返った反動で、ふわふわと、黒髪が揺れる。よく見れば、その手には、見覚えのないガラケーが握られていた。

「ハル。」

荒くなった息を整えようと、彼の前まできたところで、手を膝につく。と、頭上から、僕を呼ぶ声が聞こえた。

いたって穏やかで、ほとんどいつもと変わりのない声。

「どうしたんだよ、そんな、大声あげて。俺は別に、何も、」

「っ、その手に持ってるのが、『切符』か?」

ほとんど、賭けだった。

いや、別に、「違う」と言われたら、僕がユキトを押しのけて電話ボックスから切符を取れば良い話なのだが。

何が「切符」になるのか分からない以上は、一度、「行こうとしたことのある人」に聞くのが早いに決まっている。

それに、確認したかった。ユキトが本当に、僕を止めようとしているのか。

「…………ったく、余計なことするよな。誰も知らなくたって、困らないのに。」

舌打ちが、静かに響く。無感情なその言葉が、ひどく僕を揺さぶる。

余計な、こと。それはきっと、姫さんやあのおじさんが、僕に教えたことだ。

最初にユキトに説明された情報だけだったら。僕はきっと、今、ここにいないから。

「切符?……んなの、必要ねぇだろ。」

「必要なんだ。少なくとも、僕には。」

今にもガラケーを真っ二つに折ってしまいそうな手に、自分の手を添える。向こうの方が背が高い分、見下ろされてしまうとかなり怖い。

震えそうになる唇を強くかんで、その痛みが残っているうちに言葉を紡ぐ。

「ユキトは言っていた。必要不必要なんかないから、自由にやっていればいい、と。それと同じだ。」

「……どこが、同じなんだよ。」

怒りか悲しみか。僕には分からない感情で震えた声が、ユキトの唇から落ちていく。

「どこが同じなんだ、ハル?それと、ここの外に出ることの、何が同じなんだ?」

「何をどうしようと、僕の自由だということだ。」

何もかもが暗いこの場所では、ユキトの表情はよく読み取れない。ただ、電話ボックスからさす電灯の光だけが、逆光になって彼を照らしていた。

ここで、伝えないと駄目だ。例え、ユキトがどう思っていたとしても、僕を引き留めようとしても。

僕が帰る手段があるのなら、「アイツ」を探す手掛かりになるのなら。

一人でもどうにかしてみせる。

「ユキトが前に言った通り、僕は、ここのことを『知らなかった』わけじゃない。だから、最終的にどうなったって、ここから現世に戻るつもりだ。」

「…………自分で何言ってるか、分かってんのか?」

ぎり、と。ガラケーを握る手により力がこもる。見えない表情をなんとか読み取ろうとすれば、かろうじて、紫水晶の瞳が冷たい光を灯しているのだけが見えた。

「一人で、だぞ。何があるか分かったもんじゃねぇんだぞ、『雲』は。それこそ、死んでんのか生きてんのかわかんねぇ場所だ。二度とどっちにも戻ってこれなくなるかもしれねぇんだぞ。そんな場所に賭けるより、ここで安全に過ごしてた方がマシだろ。」

「それでも行くと言っている。僕は、親友にも、幼なじみにも会いに行かなくちゃいけない。そのためには、あっちに行かないと話にならないんだ。」

正直、ユキトがここまでに「雲」に行くことを否定するとは思わなかった。だって、その理由が僕には何も分からないのだから。

ユキトは「雲」に行ったことがある。現世と門の間にある、通り道に。

それはきっと、ユキトにとって、嫌な記憶だ。

僕の夢と同じ、嫌な、思い出したくもない記憶。

張りつめた息を吐き出して、僕は、添えていた手に力を込めた。上から、ユキトの手を握るように。

「ユキトは来なくていい。僕だけで行く。……僕が心配なら、僕が最初からいなかったことにして、全部忘れればいい。そこまで一緒にいなかったんだ、簡単だろう?」

「っ、そういう話じゃねぇ、だろ。」

動揺、しているのか、これは。

握った手があまりにも震えていて、いつか見た大人びたユキトを思い出す。全然、違う。本当に同一人物なのかを疑うくらいには、今目の前にいる人物と、記憶の彼が同じに見えなかった。

「そういう話じゃねぇだろ、ハル。オレは、お前に行ってほしくねぇんだよ。」

「……ユキト、」

かしゃん。

彼の手にあったガラケーが地面に落ちて、その手が僕の手を握り返す。最初に僕の手を引いていたときとはずいぶんと違う、弱弱しい握り方。

「お前が来て、今まで一人でやってたことに全部着いて来てくれてさ。別にやんなくてもいいってのに、自分もできることを増やしたいかたとか言って。年も全然ちげぇくせに、ぐいぐい話してきて。どれだけオレが嬉しかったなんて、ハル、わかんねぇだろ。」

嬉しかった、のか。

確かに、今言われてみても、分からない。僕にとって、ユキトが今言ったこと全て、自分がそうしたかったからそうしたまでのことだから。

ああ、そういえば、そういう話だったっけ。あんまり他人とは関わらないようにする、みたいな。それにしては僕は、かなり、ユキトと深く関わってしまった。

「お前に消えてほしくねぇんだよ。置いて行かれるのが、怖くて怖くて仕方ねぇんだ。」

だから、行くな。

今にも溶けていってしまいそうな声が、反響せずに消える。一度の決心が揺らぎそうになって、下唇を強くかんだ。

僕だって、そんなことを言われてあっさり置いて行けるほど、薄情じゃない。一緒にいてほしいと言ってくれるのは、嬉しいことだ。それは、僕が一番よく知ってる。

よく知ってるよ、ユキト。だって、僕も向こうにそういう人がいるから。「一緒にいたいからいるんや」って言うヤツが、いるんだ。

「……ユキトは、『雲』には行きたくないか?」

伏せられていた目が、ゆっくりと僕を見る。そこで、やっとユキトの顔をちゃんと見ることができた。

分からない。……わけが、なかった。雨の笑顔の真意が分からなくても、なんとなく、ユキトが何を思っているかは分かった。

今にも泣きそうで、苦しそうで。―……寂しい、んだな。

「一緒に来てくれたなら、僕も安心する。ユキトの言う通り、本当に永遠に出られなくなるかもしれないが、僕は今更自分の決心を曲げるつもりはないから。だから、もし良いなら、僕と一緒に来てほしい。」

酷なことを言っているのは、分かっている。ここで断られたって、仕方がないと思える。

けど、このままユキトを置いて行くのは、如何せん格好がつかないから。

「…………一緒に、死の境をさまよえってか?」

はは、と乾いた笑みがこぼされる。僕は、ほとんど間を空けず、「そうだな」とうなずいた。

「ユキトが構わないなら、そうしてほしい。」

そう言って僕は、自分で思う精一杯の笑顔を浮かべた。ちゃんと笑えているか分からないが、口元がぷるぷるしないから、きっと、ちゃんと笑えている。

ユキトは、そんな僕の顔を見て、ふにゃりと表情を緩めた。笑顔でも、不機嫌そうでも、にらんでいるでもなくて。安心と面白さと自嘲とその他もろもろがぐっちゃぐちゃにミキサーされたみたいな、泣き笑いみたいな。

「……お前、たまに脳筋なとこあるよな……強引、すぎんだろ。」

笑うたびに肩が揺れて、なんだかそのまま後ろに倒れていってしまいそうで、とっさに腕を強く掴む。と、その瞬間にユキトの膝が折れたから、僕も一緒になって地面に座り込んでしまった。

「ったく……で、俺は、お前に着いて行けばいいのかよ。」

「ふっ、ふふ、そうだな。頑張って、向こうに帰ろう。」

「俺、多分もうここに八年くらいいたんだけどなー……ほんと、今更ってカンジだよ。」

お前が言ったせいだからな!と、ユキトは僕の頭をわっしゃわしゃかき混ぜてくる。けど、子ども扱いじゃなくて、自分の表情をごまかすものだとわかって、笑ってしまう。

一人でも、きっと大丈夫だ。

けど、二人の方が、もっとずっと大丈夫だ。

胸にくすぶっていた不安が落ちて消えるのに、僕は、気付くこともなかった。


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