13 向こう。
調達をした日から、数日が経った。
あれから変わったことがあると言われれば、僕は多分、「ない」と答える。衝撃的な出来事ではあったけど、あの後、ユキトが必死に呼びかけてくれたおかげでなんともなかった。
一つ言うとすれば、あまりユキトが僕に話しかけなくなったことくらい。
そして、僕の気持ちが、再び「現世に戻ること」に向き始めたことくらい。
いつも通り、接客をしていた時だった。
料理を運んで「ごゆっくり」と頭を下げた直後、その席のお客さんが「少しいいかい?」と話しかけてきた。あまり顔の見ない、ひげをはやしたおじさんだった。
「?……何か、ご用ですか?」
「いいや、そう大層なことじゃないんだけどね。
君……『雲』に興味はないかい?」
「っ!?」
驚いて、手に持っていたお盆を床に落としそうになった。なんで、そんな。顔に出るようなことではないはずなのに、心の内を読んだみたいな。
あからさまに動揺しているのが、向こうにも伝わったのだろう。申し訳なさそうに眉を下げて、それから、「姫さんも、少しこの子を借りていいですかい?」と言った。
……姫さん?
「ええ、良いですよ。少しくらいなら。」
「っ、え、姫さん!?!?」
普段はカウンターの方にいるはずの姫さんが、タイミングが良いのか悪いのか、僕の隣にいた。全然、気付かなかった。その手にはお酒が握られていて、多分、客席の方にそれをいれにいくつもりだったんだろうな、なんて頭の隅で思う。
「少しくらいなら良いわよ、ハル。元々、ここはユキトと私の二人でやってたんだから。」
「いや、ですが……、」
「ハルも、聞きたいことが沢山あるんでしょう?」
そう言って微笑む姫さんは、どこか、悲しそうな表情をしているように見えた。
「良いのよ。私も、ユキトも、あなたには何も教えてあげられないんだから。聞きたいことは、聞いておきなさい。」
そんなことはない、と言いかけて、それを飲み込んだ。
姫さんやユキトから、何も教わらなかったわけではない。ユキトは、ここでの生き方とか、食料の調達のやり方を教えてくれたし。姫さんは、お盆の運び方や店での立ち回りだとか、注意しなきゃいけないことを教えてくれた。
だが、それは全部、本質的に僕が知りたいものではなくて。全部、ここで生きるための必要事項であるだけの情報で。
姫さんの言うことも、納得がいってしまう。
「…………じゃあ、少しだけ。」
恐る恐るうなずくと、姫さんは、少し安心したように息をついて、いつもとそう変わらない笑顔になった。
「ええ。終わったら、戻ってきてちょうだいね。」
「はい。」
僕は、あふれそうになる不安感を抑えるように、パーカーの紐を握った。
カウンターに座ることはあったが、客席となると初めてかもしれない。
そんなことを頭の片隅に思いながら、僕は、アイスコーヒーを飲むおじさんと向かい合っていた。
「自分から若いもんと話す気が起きるなんて、数十年ぶりだよ。君には失礼かもしれないけどね。」
おじさんがグラスに口をつけ、からんからんと、コーヒーに浸かった氷が音を立てる。
なんと返せばいいのかわからなくてうつむけば、おじさんは、「余計なことを言ったね」と苦笑した。
「ただ、私から見て、君がここに『馴染めていない』のが気になっただけなんだよ。だから、話しかけてしまった。迷惑だったかな?」
「いえ。そんなことは、ないです。僕も、自分でそう思うので。助かりました。」
他人に言われてしまうと、より、実感する。
周りと何かが違うわけではない。ちゃんと接客もできていると思うし、他の人となんら変わらない生活をしている。
それでも、僕はきっと浮いている。いつまでもいつまでも不安がぬぐえなくて、それが無意識に出てしまっている。
「……君は、『向こう』に戻りたいんだね。」
「はい。」
顔を上げ、うなずいた。
それだけは、紛れもなく本当のことだ。むしろ、それが本当だからここに馴染めていないと言っても良い。
ミゾレに、もう一度会いたい。……アイツはきっと、僕なんかいなくたってやっていけるかもしれない。こっちで生活する方が、実は、僕には合っているのかもしれない。けど。
それでも、僕には多分、アイツの存在が大きかったんだ。
「…………そう。険しい道になると思うよ。」
手に持っていたままのグラスが机に置かれて、すっとおじさんの目が細くなる。
「忠告になるけれど。この世界の外……『雲』に行って、帰って来た人はいない。私が知る限りはね。」
「それは、『向こう』に戻れたというわけではないんですか?」
「戻れたかもしれないし、永遠にさまよっているかもしれない。それは、分からないよ。」
永遠に、さまよう。
言葉を理解して、全身があわだつような心地がした。
それはつまり、この雲縫い屋にも、向こうの世界にすらも戻れないままになるということだ。それこそ、生と死の境を永遠に歩くことになる。
戻る、と決意したはいいが。今言われてみれば、結末がそうなることだって十分にあり得るのだ。
「……怖気づいたかい?」
「っ、いえ。大丈夫です。……それで、その『雲』に行くには、どうしたらいいんですか。」
詰め寄る勢いで尋ねれば、おじさんは、少し目を見開いた。
「大体の人は、こう言えばやめるんだけどね。どうやら、君の覚悟は本当らしい。」
「さっき確認してたじゃないですか。」
「あはは、何度もごめんね。私は一応、君を心配しているつもりなんだ。」
笑いながらも、目の奥は笑っていない。一応と言いながら、この人は、本当に僕のことを心配してくれているのだ。今日が初対面のようなものなのに。
「『雲』に行く切符は、結構簡単に手に入るんだ。紅色の電話ボックスを、君は見たことがあるんじゃないかい?」
ああ、街から、雲縫い屋に行くときにあった……あれか。
記憶の糸を手繰り寄せ、なんとなく、数日前に見たものを思い出す。確か、かなり色が剝げていて、蜘蛛の糸がかなり張ってあって。通り過ぎるときに、ユキトに「ただの装飾もんだ」と言われたもの。
「あれが、入り口なんですか?」
「いやいや、違うよ。電話ボックスの中にあるんだよ。その『切符』がね。」
思わず、首をかしげる。てっきり、その電話ボックスに入れば「雲」に行けるだとか、そういうものだと思ったのだが。
「『切符』がどんなものか、詳しくは知らないけどね。でも、それを持ってこの地域の街に近い場所にある神社の鳥居をくぐれば、そのまま『門』と『現世』をつなぐ空間……『雲』に行ける。」
神社の鳥居という単語が、勝手に、あの紅色の鳥居を思い浮かばせる。最初に、僕が目を覚ました場所だ。
「『雲』に何があるかは分からないから。ユキト君から何か借りていた方が良いとは、思うよ。私が君に伝えられるのはそれくらいだ。」
「分かりました。そう、します。」
うなずくと、おじさんは、張りつめていた表情を緩めた。
「ふふ、懐かしいね。君が、あの子の二の舞にならなければいいのだけど。」
「あの子?」
急に出てきた単語に、首をかしげる。二の舞、ということは、前にも僕のようにこの話をした人がいたのだろうか。
だが、話を聞く限り、そう「雲」の方へ行こうとする人は少ないはずだ。
……じゃあ、誰が。
震えだす腕を、気づかれないように片手で抑える。おじさんは、コーヒーを一口飲んでから「そうそう」と懐かし気に目を細めた。
「だいぶと前に、君と同じように戻りたいと言う子がいたんだよ。女の子だったんだけどね。幼いのに、とても大人びた話し方と態度をしていて、よく覚えているんだ。確か……髪を、鈴飾りの付いた紐で結んでいたかな。歩くたびにしゃらしゃら鳴っていたから、その頃からここに出入りしている人たちは皆、覚えているんじゃないかなぁ。姫さんも、しばらくその子を店に置いていたしね。」
どうしようか、震えが止まらない。
だって、そんな鈴飾りを付けた女の子なんて。何人もいるわけがない。ここに来たことがあって、それでいてその見た目は。もう、アイツしかいないのだ。
「あの子は、戻れたかな、向こうに。もしどこかで見つけたなら、良かったら一緒にいてやってほしいね。とっても良い子だから、あの子には……もちろん君にも、戻っていてほしいんだ。」
笑顔でそう言うおじさんに、僕は、うなずくしかなかった。
僕の幼なじみ……朝霞雨は、五年前、あの神社で消えた。大蜘蛛に連れ去られた。それは事実だ。
けど、それは事実上の話だ。本当のことを言うのなら、そうだな。「生贄にされた」と言った方がいいかもしれないな。
雨は、街の守り神を祀る神社の家系に産まれた。でも、その家系では、「女が産まれたら、それは災いの前兆である。だから、その産まれた子は、九才になるまでに神様の元へ連れて行かなければならない」っていう古い言い伝えがあった。
本当かは知らない。……知りたくもないな。それに意味があったかなんて知ったら、雨の犠牲の必要不必要まで問うことになるだろう。
一応、幼い頃に、雨から聞いてはいたんだ。「自分はそう長くない間に連れて行かれてしまうから、あまり仲良くしない方が良い。後から悲しくなる」と。
だが、僕は、そんな理由で雨とは離れたくなかった。その時、友達の少なかった僕にとって、隣を許してくれたのは雨だけだったから。
……だから、雨が連れて行かれる日も。
僕は、嵐の中を無理やりに飛び出して、神社に向かった。止められないことは分かっていたが、それでもせめて、最後くらいは、と思ったんだ。
雨は、連れて行かれた。あの、大蜘蛛に。そして僕もまた、同じように大蜘蛛に連れて行かれた。行きついた場所は、ここだった。
姫さんがかなり前に会ったという「僕に似たようなさらわれ方をした子」も。
おじさんが言っていた「かなり前に『雲』に向かっていった子」も。
同じだ。間違いない。それは絶対に、雨だ。
雨は、「雲」にいる。
僕と同じように、現世に戻ろうとしている。
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