4 黒髪の人。
なんで、蜘蛛が嫌いなんだ?
どこかおぼろげな景色の中、ミゾレが、そう僕に尋ねていた。場所は廊下で、窓からは、夕陽が差し込んでいた。
「嫌いな人が、多いだろ。そういう人たちと同じ理由だ。」
「足が多いのが気持ち悪いとか、虫が駄目、とかか?やけどハル、前に教室にゲジゲジ出て大騒ぎなったときは、皆ぎゃいぎゃい言うとる中一人平然と席に座っとったやんか。」
「なんでゲジゲジじゃなくて僕を見ていたんだ、それは。」
「俺は別に虫とか大丈夫やからさぁ。ハルは大丈夫なんかなって見たら、そんなんやったんやもん。そりゃ覚えとるやろ。」
廊下の壁にさっきまでひっついていた小蜘蛛を、ミゾレは窓から外に逃がす。わざわざそんなことをせずとも、潰して殺してしまえばいいのに。そういえば、そのゲジゲジが出たときも、半ばパニックになった教室からゲジゲジを逃がしたのはミゾレだったか。
「言いたくない理由があるんやったら、あれやけどさ。苦手なもんは苦手で、こうこうこういう理由であかんっていうのは、言ってた方が楽ちゃう?俺も言ってもらえたら配慮できるし。」
未だ少し震えている僕の手を、ミゾレは、蜘蛛を掴んだ方とは逆の手で握ってくる。顔を上げれば、にかっと安心させるように笑顔を浮かべられた。
コイツは、どこまでいってもお人好しだ。僕に限らず、色んな人にこの優しさを振りまけるのだから、本当にすごい。
僕には、コイツのことも分からない。こんな僕の隣にずっといる理由も、こうやって助けてくれる理由も。こうやって今廊下に立っているのも、元はと言えば僕が図書委員の仕事があったのを、一緒に帰るために待っていてくれているからだ。
「……お前は、優しいな。」
握られた手を見ながら、ふとそう呟く。「そうか?」と照れくさそうに笑う声がした。
「こんなことで優しい優しいなんか言っとったら、お前、いつか違う誰かに騙されてまうで。こういうのは優しさやなくて、ただの会話やと思っときゃええねん。」
ミゾレらしくない、なんだか大人っぽいことを言われて、思わず笑ってしまう。
ただの会話だ。そう、ミゾレに言われたから、ただの会話だと済ませていた。
ありふれた、中学二年生ふたりの、なんの生産性もない話。
……会話をする声が、聞こえた。
ミゾレの声が遠ざかっていき、僕は、ぱっと目を覚ます。
夢、か。いや、記憶と言った方がいいのか。眠りが浅かったのにも関わらず、妙に頭がさえている気がする。
冷えた体を起こし、僕は、目が覚めた原因となった話し声に耳をそばだてた。どうやら、僕の部屋の前で話しているらしい。
なんで、こんな真夜中に人が……宿だったら、結構普通のことなのか?いや、でも、さすがに深夜二時に廊下で話をするのはマナー違反な気がする。
異様な不気味さを感じながら、僕は、そっと部屋の扉まで近づいた。
扉が薄いのか、向こうの声量が大きいのか。何を話しているのかが、なんとなく聞こえてくる。
「……に、……とから来たのか?」
「ああ、…………、もしかしたら、『雲』からかも…………、」
「電車には、………………?」
「…………乗っていなかったらしい、それで………………」
「どう……?…………まえるか?」
「そう…………、捕まえて、幽閉したほうが、……」
「っ……!?」
ゾッ、とした。背筋に氷水を流し込まれたような心地がした。
今、なんて。なんと聞こえた?捕まえる?幽閉?
とりあえず、明らか穏やかではない会話なのは確かだ。しかもそれは、おそらく、僕に対しての。
どうする?今ここで話をしているということは、つまり、もう今から実行しようとしているということだ。でも、ここには入り口も出口も一つしかない。
よって、逃げ道も一つしかない。
焦りか恐怖か、唇がはくはくと震え始める。少しでも気を抜けばあられもない声が漏れ出してしまいそうで、口を片手で塞ぐ。
幽閉なんかされたら、それこそ、ここのことを知る前にどうしようもなくなってしまう。元の場所に戻れなくなる。
それだけは絶対に、駄目だ。
「…………から、乗り込むか?」
「………………が、……でも………………」
くぐもった声が、少しずつ距離を詰めてくる。
相手が誰かも、何を持っているのかも、分からない。だが、一つだけは分かる。
「―…………っ、くそ…………!!」
分からない。
本当に僕に対しての会話なのかも分からないし、向こうが僕を捕まえて幽閉することになんの意味があるのかも分からない。
それでも、このままでは。
「っ!!!!」
僕は、下唇を嚙みしめ、扉の鍵を開けてすぐに部屋の外へと飛び出した。
がん、と鈍い音がして、開けた扉に大きな男の人が一人ぶつかる。横目に見れば、あとの数人……三人くらい……は、急に出てきた僕に驚いたように目を見開いていた。
けど、それも目線を外した直後、怒りの視線に変わる。
「おい、待て!!!!」
「いっ、!!」
叫んだ男の持っていたらしいナイフが、思いっきり腕を切りつける。それでも、なんとか走り出した。
こんなの、ホラーゲームだ。
ミゾレのように部活に入っていれば良かったと思いながら、自分の出せる全力で足を動かす。手すりも持たずに階段を駆け下りて、死に物狂いで階下を目指す。
マズい。マズいマズいマズいマズいマズい……!!
頭の中で、ぐわんぐわんと警鐘が響き続ける。自分の息が荒くなっていっているのが分かる。
来たときにちゃんと館内図を見ていて良かった、見ていなかったらこんなに逃げれていない。
後方から追いかけてくる足音と怒号に耳を塞ぎながら、入り口とはまた違った裏口の方から外へ出る。どこかも分からない路地裏に出たが、もう、走るしかない。
どうして、追われているんだ?……あの人に宿を聞いたときも、宿の人と話したときも、違和感はあったが。
それがまさか、こっちを捕まえようとするものだなんて思うわけもない。
こちらを泊めてくれたのが優しさだったようで、よくよく考えてみれば、罠だったのかもしれない。
ほとんど何も見えない路地をひたすらに走る。何度かズボンの裾を踏んで転びそうになりながらも、安全な場所を探す。
なんで。なんだって、こんなことになったんだ。
にじむ視界を振り切って、僕は、角の多い路地へと足を踏み入れる。
その時、だった。
「っえ、」
ぐい、と何者かに腕を引っ張られ、道の一つへと体を引っ張られた。
声を出す暇もなく、手で口を塞がれる。
「動くな。」
冷たい声が響き、ぐっ、と僕の口を塞ぐ手に力がこもった。
思わずうめきそうになるのをこらえながら、横目に背後の人物を見た。
僕よりも少し大きな背丈と、遊び放題の黒髪。少し出たのどぼとけ。つりあがった瞳は、ぎらぎらと、僕の駆けてきた路地の方向を睨んでいる。
「……チッ、見つかるか。マ、アイツらもそこまでヤワじゃねぇよな。めんどくせぇ。」
かしゃかしゃと、僕の手の近いところから、物音がする。
そろそろと視線を落とせば、僕を拘束するその人は、ズボンのベルトから拳銃のようなものを引き抜いていた。
じゅ、銃刀法違反では……!?というかこの人、多分、僕とそう年齢変わらないぞ!?なんで銃なんか持っているんだ!?!?
半ばパニックになっていると、口元の拘束が少しだけ緩んで、「悪いな」とささやく声が聞こえた。
「ちょっと、逃げ切れるか五分五分ってとこなんだけどよ。お互い逃げ切れたら、ちゃーんと説明してやるから。だから、今は何も考えず走ってはくれねぇか?」
そう、言われましても。
泊まった宿で急に襲われて、逃げたら追いかけられて、それで今これだ。この人だって、信用できるかどうか分からない。
逃げろと言われた先に、本当はあの人たちの仲間がいて。挟み撃ちにされて捕まえるつもり……なんてことも、ないとは限らない。
「信じられない」。そういう意味を込めて、背後の人を軽く睨む。すると、彼は少し困ったように眉を寄せて、「そりゃあまあそうだよな」と呟いた。
「信じられねぇのは分かる。オレも、最初はそうだったからな。周りの奴ら全員敵に見えて仕方なかった。追われでもすりゃあ、誰だって疑心暗鬼になる。」
最初は、そうだった?
まるで、この人も僕と同じような目にあったことがあるかのような言いようだ。いや、本当に、そうなのか。
考えているうちに、そう遠くない場所から足音と怒号が聞こえてくる。まだ、追いかけてくるのか。
「信じてくれとは言わねぇ。逃げ道はお前の好きにしろ。けど、もしオレを信じてくれるのなら、オレの後ろを真っ直ぐに逃げろ、いいな?絶対に、曲がるんじゃねぇぞ。」
そこまで言って、彼は、僕の口元を解放する。反射的にばっと振り返れば、そこには、優しそうな表情があった。
味方なのか、敵なのか。判断するのは僕で、別にこの人の言葉を無視したっていい。
……いい、けど。
「信じて、いいんだな?」
年上かもしれないのに、ほとんどけんか腰にそう言った。彼は、「なんだそれ」と面白そうに笑いながら、僕の脇を通っていく。
「自分で決めろ。言っただろ?オレも『逃げ切れるかはわかんねぇ』ってさ。」
かちゃかちゃ、おもちゃみたいに拳銃を弄びながら、その人はこちらを振り返った。
「まあ、上手くいったらいいな。運次第、頑張れよ。」
銃口が天をむく。引き金にかかった指が動く。
まさにそれが引き金となって、僕は、後ろを振り返りもせず走り出した。もちろん、真っ直ぐに。
バァン!!
運動会で聞くピストルなんか比にならないくらいの大きさで、銃声が鳴り響く。どくどくと、心臓が嫌な音を立てている。
走るしかない。真っ直ぐ走っていくしか、多分、僕の生きる道はない。
信じる人が今、あの人しかいないのなら。もう、それに従うほかなかないのだ。何もかも分からない僕には。
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