『凪咲汐音の回想1』


 四月上旬。


 ――なんであたしはこんなところにいるんだろう。


 新学期早々、汐音は職員室に呼び出されていた。

 転校してきたばっかりの、なおかつ登校日初日だというのに、ついてない。

 汐音の目前では、いわゆるオフィスカジュアル然とした女性教師が、すらりと伸びた長い脚を悠然と組んでいた。

 傍から見れば、新学期初日から問題を起こした生徒が、これから説教をくらうところとでも思うのだろう。

 が、生憎と汐音には何かをやらかした覚えなどない。

 小首を傾げながら、汐音は呟いた。


「雑談部、ですか……?」

「そう。雑談部だ!」


 ここに汐音を呼び出した張本人である女性教師――担任の葉月千歳はづきちとせ(担当は数学)――は、どこか誇らしげに「ふふん」と胸を張っていた。

 そして、


「……雑談部。我ながらいい響きだ」


 と、勝手に感慨に耽る始末。

 汐音は貴重な放課後の時間をこれ以上奪われるのも癪なので、さっさと話を進めることにした。

 怪訝な顔で「それで」と切り出す。


「なんであたしがその雑談部に入らないといけないんですか?」


 汐音がここにいる理由。

 それは千歳によって呼び出されたから。

 そして職員室に顔を出すや否や、「凪咲、雑談部に入ってくれたまえ」と開口一番に言われたのだ。

 汐音の問いに、千歳は露骨に深刻な色を浮かべて、


「実は、な。その……雑談部の部員が、だな……」

「……ごくり」


 雰囲気にあてられて、思わず汐音は生唾を飲み込む。

 ややあって、千歳は言った。




「部活動として認められる部員数に満たないんだ。あと一名!」




「帰ります。お疲れさまでした」

「ああ、待て待て! 待ってくれよぅ!」


 くるりと踵を返した汐音に、大人げなく泣きついてくる千歳。

 仮にも教師が生徒の腰に腕を回してへばりつき、人目も憚らず喚いている。

 そんなみっともない光景に、周囲からは生ぬるい視線が注がれていた。

 汐音は鬱陶しそうに振り返る。


「離してください。あたしはこれから、それはそれは有意義な放課後を満喫するんですから」

「どうせ君のことだから、勉強に明け暮れるつもりなのだろう?」

「まぁ、否定はしませんけど」


 汐音にとっての有意義とは、そういうものだから。


「つまんなー。もっと青春しろよ、若人」

「帰ります」

「待て待て、悪かった。私が悪かったから! まずは話だけでも聞いてくれ!」


 あまりにも泣きついてくるものだから、汐音は渋々立ち止まり、振り返る。

 無言で話の続きを促していると、やがて千歳は訥々と語り出した。


「いや実はな、去年……いや、もう今年だったか。……こほん。昨年度までは雑談部の部員数も定員を満たしていたんだ。なぜなら、私が教科担当を受け持っていた三年生の名前をちょいと拝借して、部員数を偽っていたからな。軽く三十名ほど」

「あなた本当に教師ですか?」


 にわかには信じ難い。

 が、しかし千歳は鷹揚に頷く。


「あぁ、もちろん。教師らしく、ちゃんと生徒からの許諾は得ていたぞ」

「そういう問題じゃないと思いますけど」


 呆れる汐音を尻目に、千歳は続ける。


「だがしかし、そいつらが軒並み卒業してしまってな。……あとついでに、学校側に部員数詐称がバレてしまってな……」

「ちゃんとバレたんですね」

「あぁ、バレた。そして叱られた」

「でしょうね」

「諭される感じの叱られ方だったのが、いやに応えた。いい歳して何やってるんだって」

「ご愁傷様です」

「とまぁそんなわけで、今、雑談部に残っている部員はたった二名だけなんだ」

「少なっ」


 どれだけさばを読んでいたのだろうか、かつての雑談部は。


「部活動として学校から認定されるには、最低でも三名の部員が必要なんだよ。……そこで」


 ふと顔を上げた千歳は、人差し指をぴしっと汐音に向けてくる。


「転校してきたばかりの君に白羽の矢が立った、というわけなのだよ」

「というわけなのだよ、じゃないですよ。普通に不条理です」


 汐音は「はぁ」と溜息をつく。


「……そもそも雑談部ってなんなんですか」

「ん? 雑に談に励む部活だが」

「それただ放課後に集まって駄弁ってるだけじゃないですか」

「まぁ、それが主目的だからな」

「そんな部活がまかり通ってしまうなんて……この学校は、勉学に力を入れた進学校だって聞いてたのに」


 汐音は頭を抱える。……転校してくる学校を間違えただろうか。

 県内有数の進学校と聞いていたから、わざわざここを選んだというのに。


「っていうか、先生はどうしてそこまで雑談部の存続にこだわってるんですか?」

「そうだな……」


 千歳は下唇に人差し指を添えて、「むぅ」と吐息を零す。


「これには山よりも高く、海よりも深い……というわけでも特にない理由があってだな」

「その浅薄な理由とは?」

「雑談部が消滅してしまった場合、この私、葉月千歳は――」


 実に切羽詰まった顔で、千歳は告げた。




「――バスケ部の顧問になってしまうんだよ!」




「……」


 汐音が無言で侮蔑と憐憫の入り混じった眼差しを向けていると、


「む。なんだその憐れなものを見るような目は。私は一応教師なんだぞ! ちゃんと採用試験を突破した、立派な公務員なんだぞ! だからちょっと凄くて偉いんだぞ! 敬えよ小娘」

「……大人しくバスケ部の顧問になればいいのに」


 そのか細い呟きに、「あ!」と過剰に反応を示す千歳。


「凪咲! 君は今、言ってはならないことを口にしたぞ!」

「あ、今のタブーだったんですね」

「いいか、凪咲。私が……これまでの人生、バスケットボールという球技とは無縁だったこの私が、バスケ部の顧問になるということはどういうことだかわかっているのか!」

「別に顧問は競技に無知でもできますよね? コーチってわけじゃあるまいし」

「そんなわけないだろう! 君は私の無知ぶりを侮っているね」

「どこで胸張ってるんですか」

「ふっ、そんな愚かな君に教えてあげよう。私がどれだけバスケットボールに疎いのかを!」


 汐音は今すぐ踵を返して逃げ帰りたかった。

 が、眼前の女教師は有無を言わさぬ勢いで、己が無知ぶりを恥じることなく、高らかに語り出す。


「私はな、凪咲。あの……あれだ。あー、何と言ったか……ジャグリングだか、トラベリングだか、ポンデリングだか、アクアリングだか、というのがあっただろう? ……あれ、ザ・リングだったか」

「トラベリングですね」

「そう、それだそれ。トラベリング!」

「先生二番目に言ってましたけどね」

「私はな、あれが二歩以上なのか三歩以上なのか、未だによくわかっていない!」

「ちょっと知ってるじゃないですか、バスケのルール。未経験で用語を知ってる時点で顧問の才能あると思いますけど。……ちなみに三歩以上ですよ、トラベリングは」

「ほぉ、そうなのか。……ふむ。これで私も今日からバスケットボールマスターだな」

「はい。なのでさっさとバスケ部顧問に就任してください」

「断固拒否っ!」

「……はぁ」


 終わらない問答に、汐音は辟易としてしまう。

 そこでふと、職員室の黒板の上にある時計に目をやると、既にここに来てから十五分以上が経過してしまっていた。

 無為な時間を過ごしたことに内心げんなりとしてしまう。

 汐音はとうとう「とにかく!」と声を荒らげた。


「何度言われても、あたしは雑談部になんて入りませんから!」


 そうきっぱりと言い放ち、つかつかと職員室を後にする。

 又もや縋りつかれるかもと予想していたが、汐音の予想に反して、千歳はすんなりと引き下がってくれた。

 しかし何やら一人でぶつぶつと、


「……ふふ。そう簡単に私から逃れられると思うなよ? 凪咲」


 不穏なことを口走っていた。

 その不吉な発言の通り、それからも千歳による雑談部への勧誘は続いた。


 廊下で千歳とすれ違った際、耳元で「ねぇ、雑談部入ろうよ」と念仏のように連呼されたり。

 授業中、黒板に書かれた数式の合間に「凪咲、雑談部入ろっか」と記入されていたり。

 終いには、女子トイレの個室で待ち伏せをされていたり。


 三日間に渡って行われた千歳による悪質な嫌がらせ――もとい、雑談部への熱烈な勧誘行為の結果、精神的に滅入った汐音は遂に根負けした。

 放課後の職員室にて。


「……ああもう、わかりましたよ! 入ればいいんでしょ入れば!」

「おお、遂に! 私は君を信じていたぞ、凪咲。じゃ早速入部届書いてくれ」


 上機嫌に手渡された入部届を乱暴に受け取り、


「ええ、書きますよ。書いてやりますよ。仕方なく、ですけどね!」

「……ツンデレ」

「ぶっ飛ばしますよ」


 かくて凪咲汐音は雑談部に入部することになってしまった。きっかけは不本意だった。

 全ての元凶である千歳は、


「これでバスケ部に行かなくて済む! やったぞ! はんっ、遠征なんて死んでも御免だね!」


 と大いに歓喜していたが、しかしその一方で、


「……本当によかったよ」


 と、どこか安堵の滲んだような微笑を湛えていた。

 入部届を書き終えた汐音は、さっさと職員室を後にする。

 そのままの足取りで、千歳から聞いた雑談部部室への道のりを歩いていくのだった。

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