儀の皇帝

 甘ったるい香りが漂う湛殿たんでん

 けぶるほどの香を好んで使う皇帝に、令劉は久方ぶりに呼びつけられていた。


(また肉が付いたな)


 会わずとも、怠惰な生活をしているのは伝え聞いていた。

 幼い頃であれば可愛らしかったが、中年の小太りは少々醜い。

 酒に溺れ、女に狂っている現皇帝は目も落ち窪んでおりかつての美丈夫な男と同一人物とは思えない。


「……西昭儀を降格させたそうだな?」


 かつての雄々しさも消え失せた皇帝・雲嵐は、気怠げにさかずきを傾けながら礼を取る令劉に問いかけた。


「はい、蘭貴妃に毒を盛るよう指示されてましたので」

「そのようなこと捨て置けば良いと言うに。どうせ死にはしなかったのだろう?」

「ですがはじめが肝心ですので。今回のことを捨て置けば他の妃も追従して蘭貴妃を脅かそうとするでしょうから」

「そのときはそのときだ。どうせ他国の小娘などに朕の子を産ませるつもりはない」


 つまらなそうに話す雲嵐は、蘭貴妃の命など取るに足らないものだと思っているらしかった。

 蘭国を見下しているのは理解しているが、友好のためという名目で嫁いできた公主が早々に死ぬようなことがあれば明らかな敵意が儀国に向くというのが分からないのだろうか。


(いや、分かっていても大したことではないと思っているのか)


 大国である儀に戦を仕掛けるなど愚かなことだと見下しているのだ。


 それに、万が一戦となろうとも令劉がいる。

 長年儀国を守ってきた人ならざる者・吸血鬼。

 妃以外にも多くいる宮女の血を糧として提供する代わりに、儀皇帝に仕える契約を交わした。

 雲嵐にとっては、居て当然の儀国の守護者。

 令劉が居る限り、儀が滅びることはないのだと思っている。


(吸血鬼だと言っても、万能ではないのだがな)


 伏せた顔に皮肉げな笑みを浮かべた令劉に、雲嵐は「そういえば」と醜悪な笑みを浮かべた。


「令劉よ、お前蘭貴妃の侍女にえらくご執心らしいな?」

「……」

「早速他国の女の血を飲んでみたのか? 何度も呼びつける辺りよほど美味かったと見える」

「そうですね。なかなか美味でした」


 明凜のことを指摘され内心焦った令劉だが、血が気に入っただけなのだろうと判断されたのだと知り安堵する。

 明凜が番なのだと知られる訳にはいかない。

 自分を儀国に縛り付けたい雲嵐にとって、番の存在は邪魔者でしかないのだから。


(やっと口づけまで許されたのだ。彼女を排除されてたまるものか)


 やっと出会えた番。

 儀国を離れられぬ自分の元へ来てくれた明凜。

 吸血鬼は一つの魂を求めるが、どれほど生まれ変わっても自分の元まで来てくれたのは明凜だけなのだ。

 その喜びは番を求める吸血鬼の本能とは別に令劉の心をかき立てる。


 もし明凜が殺され、来世の彼女と出会っても同じようには思えないだろう。

 明凜は番にして、令劉にとっての唯一となっている。

 例え魂が同じでも、明凜ほど愛し求めることは出来ないだろう。

 口づけをすることで、それを思い知った。


(明凜でなくては駄目なのだ。明凜を失うことは、私にとって心の死に等しい)


 守らねばと強く思う。


「他国の女か……儀国の美女には劣るだろうと、初物が面倒なこともあってひと月後としたが……少々興味が出てきたな」

「は?」


 雲嵐の言葉に思わず顔を上げる。

 ひと月後という言葉から明凜ではなく蘭貴妃のことだと分かるが、興味が出たと言う皇帝に嫌な予感がした。


「気が向いたらひと月を待たずして相手をしてやろうか」


 ニヤリと下卑た笑みを浮かべる雲嵐は、吟味するかのように顎を撫でる。

 今すぐということではないだろうが、言葉の通りひと月を待たずして蘭貴妃の元を訪れそうだ。


(あまり早いのも困るな)


 明凜は明らかに儀を滅ぼすために動いている。

 儀国の重要機密を盗むのか、儀皇帝の暗殺かと予測を付けたが、おそらく後者だろう。

 情勢を見るに、重要機密を盗み儀国と交渉するなどと悠長なことは言っていられないだろうから。


 皇帝の暗殺であれば閨のときを狙うのが一番効率が良い。

 だが、明凜と交わり契約が破棄されない限り令劉は皇帝暗殺を阻止せねばならない。

 明凜と心を通わせ交わるまでは、暗殺の機会が訪れるのは避けたかった。


(何か手を打っておかなければ)


 また顔を伏せ、令劉は謀を巡らせた。

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