儀国の膿 ⑨

「あ……」


 こらえきれなかった涙が頬を伝う。

 一度零れてしまうと止めようがなく、絶えず溢れてしまっていた。


(どうして……)


 儀国の腐敗は元から知っていた。

 だから、この涙は儀国の民に対する哀れみではない。

 涙を止められないほどの感情は、何を思ってのことなのか。


 ぽろぽろと涙を零しながら令劉を見る。

 国を憂う彼は儚げな美しさを纏っていた。

 強く、儚く、優しい吸血鬼。

 多様な美しさを持つ令劉は、泣き続ける明凜を見て軽く驚いた。


「何故泣く?」


 問われても分からない。

 だが、硬い手に頬を拭われ包まれると、尚も感情が抑えられなくなる。


「優しいのだな、明凜は」


(違う、優しいのはあなただわ……)


 昂ぶる感情は声ではなく涙ばかりを落とす。

 国を思い、民を思い、だからこそ滅びろと言う令劉。

 その強く美しい思いを……いとおしいと思った。


「……美しいな」


 優しく明凜を見つめる青が美しく輝く。

 美しいのはあなただと、また思っていたが……。


(……あれ? 何か、近い?)


 ふと気付くと、令劉の顔が近付いてきている気がした。

 形の良い唇が艶っぽく薄く開き、睫毛の長さもよく分かるほど。

 軽く伏せた瞼の奥にある空色の目が、薄藍ほどに濃くなっていることに気付きはっとする。


 とっさに明凜は自分と令劉の間に手のひらを挟ませた。


「……何だ?」

「いえ、何だはこちらの台詞なのですが?」


 不満そうな声を隠しもしない令劉に明凜も不満の声を返す。

 泣いている女性に一体何をしようとしていたのか。


「何だも何も、口づけしようとしていたのだが?」

「何故、今そのようなことをするのですか!?」


 冷静に対処しようとしたが、全く悪びれない令劉の態度に思わず声を荒げる。

 確かに令劉の本心を知っていとおしいと思った。

 だがそれとこれとは別である。

 令劉への情は沸いたが、恋情ではないはずだ……多分。


を思って泣く明凜が美しいと思ったのだ。可愛くて、口づけたくなった」

「か、かわ!? だとしても、許可なくそのようなことしないで下さいませ!」


 さらりと口説かれ、感情が忙しかった明凜は頬が朱に染まるのを防げなかった。


「赤くなったな? 尚可愛らしい」

「なっ!? そのようなことは……」


 ない、と続けようとしたが、どんどんそれどころではなくなっていく。

 頬を包む手はそのままで、もう片方の手が明凜の腰に回された。

 軽く抱きしめられ、鼓動が疾風迅雷しっぷうじんらいのごとく早く激しくなる。


(なっ!? 私、どうしてこんなに)


 早い鼓動は動きも鈍らせているのか、令劉の腕からは逃げられない。

 自分の身に起こっていることが信じられず、どうして良いのか分からなかった。


「明凜、私はお前に全てを話した。だから信じてくれ、私はお前を本気で求めているのだ」

「あっ」


 頬を包んでいた手が離れ、代わりに互いの顔を隔てていた手をつかまれる。

 壁がなくなり、近くに艶美な顔が見えた。それが、優しく微笑む。


「口づけは、まだ許してはくれないか?」


 囁きは甘く、明凜から抵抗の二文字を奪った。

 まるで意識を操られているかのように、頭の奥がジン、と痺れてゆく。

 ゆっくりと近付いてくる完璧な造形。

 恥じらいから、明凜は瞼を閉じた。


 相手は人ならざる者。

 本当に操られているのかもしれないと思う。


(いいえ、だとしても……)


 唇に触れる柔らかさに、内側から喜びが溢れるのを感じた。

 令劉からの口づけを嬉しいと思ってしまっている自分は、もう心を奪われているのかもしれない。


 続けてされたついばむような口づけも、温かなぬくもりと共に受け入れた。

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