不測の事態 ①

「明凜殿、またお会いしましたね」

「……」


 所用で後宮の端の林にいた明凜に、人なつっこい笑みを浮かべ声を掛けてきたのはいつぞやの夜に逢い引きを誘いかけてきた晋以しんいだった。

 毎日ではないが数日に一度くらいの頻度でよく見る顔に、明凜は胡乱うろんな目を向ける。


(まさかとは思うけれど、狙って会いに来ているわけではないでしょうね?)


 この広い後宮、仕事場が近いわけでもなければ顔を合わせることはほぼない。

 数日に一度というのは微妙なところで、明凜は判断に困った。


「明凜殿、今夜私の房に来ませんか? 美味しい点心おかしが手に入ったのです」

「行きません」


 明凜はつん、と顔を逸らしきっぱりと断る。

 なんと言われようと逢い引きなどするつもりはない。


(大体点心おかしで釣ろうとするとか、私は幼子ではないのよ!?)


 ふざけているとしか思えない晋以に、明凜はいつも以上に苛々が募った。


「おや残念。ではせめてお話し致しませんか?」

「しません」


 ただでさえ迷惑している明凜は、親しくなるつもりがないことを伝える意味でも誘いを突っぱねる。

 逢い引きを断られた時点で察して欲しいとも思うが、晋以は気にしていないのか毎度人なつっこく近付いてきた。


「そんなことより晋以殿、お仕事は良いのですか? このように油を売っていては叱られますよ?」

「まあまあ少しくらい良いではありませんか。それに明凜殿もこんなところで油を売っているのでは?」

「私はちゃんとした理由があってこちらに来ているのです」


 自分まで怠けているのではと言われてムッとした明凜は、もう晋以のことは無視しようと彼から顔を逸らした。

 だが、あからさまな態度を取ったにも関わらず晋以は話を続ける。


「理由? まあそれは分からないけど……でも今日の紫水宮は忙しいんじゃないか?」

「え?」

「今日は初めて皇帝のお渡りがあるんだろ?」

「何言っているの? 陛下のお渡りはひと月後。まだ十日はあるわ」


 無視しようと思った明凜だが、あまりにもあり得ない勘違いを聞かされて思わず正してしまう。

 だが、晋以は「聞いてないのか?」と驚き目を見開く。


「蘭貴妃に興味が出てきたから、時期を早めるということらしいよ?」

「え!?」


(なんですって!?)


***


 晋以の言葉の真偽を確かめるため急いで紫水宮へ戻った明凜は、香鈴含めた侍女達がせわしなく動いているのを目の当たりにした。


「あ、明凜。戻ってきたのね」

「あなたが出て行ってすぐに知らせがあったの」


 真っ先に明凜の存在に気付いた年若い侍女達が、まくし立てるように忙しくしている理由を話す。

 どうやら本当に今夜皇帝が翠玉の元に訪れるらしい。


「陛下は気まぐれな方だからこういうこともたまにあるのだけど……」

「でも高位の妃嬪にはもう少し配慮して下さる方だと思っていたわ」


 そのまま愚痴に発展していく侍女達に、どこかから戻ってきた香鈴から叱責が飛んできた。


「あなたたち、そのようなところで何を話しているのですか? 世間話をしている暇はありませんよ」


 いつも以上に厳しくなっている様子の香鈴に侍女達は「はい!」と声をそろえて散っていく。


「明凜」

「は、はい」


 鋭さが増した切れ長な目に見つめられ、ピリッと緊張が増した。

 一応翠玉の命でもある用事を済ませてきていたのだが、何故か怠けていたような気分になってしまう。


「あなたが出て行った後に、今宵陛下が蘭貴妃を訪ねるという知らせがありました。陛下は気まぐれですので直前になり取りやめるということもありますが、準備はしておかなくてはなりません」

「はい」

「……あなたは余計なことはせず、蘭貴妃に付いていて差し上げて」

「え? 私は準備のお手伝いをしなくてもよろしいのですか?」


 忙しそうにしている他の侍女もいるのに、自分だけ翠玉に付いていれば良いとはどういうことなのか。


「他の侍女達が準備をする間、蘭貴妃をお一人には出来ませんし……それに、不安もあるでしょう。同郷の者が付いているだけでも少しは気が楽になるかもしれません」

「はい、分かりました」


 確かにと思う。ただでさえ初夜への不安はあるだろうし、その上で予定が狂ったのだ。

 翠玉が全く不安に思っていないということはないだろう。

 明凜は香鈴の指示通り翠玉の元へと向かった。


(……初夜の夜が暗殺の好機。その準備も進めなくては)


 飾り気の少ない紫水宮が皇帝訪問のために飾られていく。

 煌びやかになっていく走廊を明凜は気を引き締めて進んでいった。

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