第3話 注射
次の週末。
高砂が帰宅すると、叔父の花生が待ち構えていた。
「一体どういうことですか、祐介!」
顔を合わせるなり飛んできた言葉に、高砂は深く息を吐く。叔父は何かと心配性だ。
「それもお相手は、時東侯爵家の方だとか!」
耶麻登国には、華族制度が根付いている。五元老を輩出している公爵家を筆頭に、侯爵以下の爵位がある。公爵家は別格なので、通常の華族の中で一番上の爵位は、侯爵家となる。たとえば代々医師を輩出するような、科学技術を世襲で受け継ぐような家柄は、侯爵家の人間が多い。
他方、高砂の場合は、伯爵家の出だ。ただし伯爵位は、同じ伯爵であっても限りなく侯爵家に近いような高貴な家柄から、高砂伯爵家のようにあまり目立たず、とりわけ裕福というわけでもなく、継ぐ家業に目立つものもない、あまり爵位を持たない家と変化のないような家もある。
「結納などをしなかったなどと、そんな」
「叔父様。時東が不要だと言いました」
「だとしても、あなたが主人なのでしょう!? 奥方がそういうとしても、口にしない意思をそこは汲むべきです!」
「時東は本当にいらないタイプだよ。それに、時東のご家族も納得してるそうです」
時東は、早くに両親を亡くしており、祖父に育てられたと高砂は聞いている。
時東の祖父は帝都で医師をしているそうだ。
「まぁまぁ花生」
そこに高砂の父の英樹が顔を出した。
「それくらいに」
「お兄様、ですが……」
「少し祐介と二人にしてくれないか? 事情は私から聞いておくから」
「……はい」
花生は小声で頷くと、帰っていった。それを見送ってから、玄関から中へと入った高砂は、父に促されて応接間に入る。すると父が急須から緑茶を注いで、高砂の前に置いた。
「私も驚いたよ」
「言うのが遅くなったのは、悪かったよ」
「それは構わないよ。祐介の人生だからね。うまくやれることを祈っているよ」
穏やかに笑う父を見て、高砂は少し肩から力を抜いた。少し老けただろうかと考えながら、父の目元のしわを見る。
「今回は花生が急いて手紙を出したのだけれどね、実は私も近々祐介に手紙を出そうと思っていたんだ」
「なにか用事?」
「ああ。それを話す前に、この注射をして欲しい」
英樹はそう言うと、卓上にあったアタッシュケースを見た。銀色のケースを、つられて高砂も見る。英樹がそれを空けると、中には一本の注射器と、細いアンプルが入っていた。
「これは一体どんな注射?」
「なにも聞かずに、注射をしてほしい」
「さすがにそれは怖いんだけど」
思わず高砂が目を眇めると、注射器を手に取った英樹が苦笑した。
「大体、父さんに注射なんて出来るの?」
「ああ。私には知識があるからね。祐介、腕を出してくれ」
「待って。だから、なんの注射なんですか?」
高砂の問いかけに、父が真剣な顔をした。
「なにも聞くな。すぐに分かる」
普段は優しい父の、いつになく鬼気迫るような声音に、ぐっと詰まってから、高砂は左腕の服を捲った。すると英樹が、ゴムのチューブを高砂の二の腕に巻き、アルコールの脱脂綿で消毒してから、すぐに注射をする。僅かな痛みと銀の針を、高砂は怪訝に思いながら見ていた。注射された薬の色は、いかにも体に悪そうな青色をしていた。
「よし、これでいい。すぐに効く。気分はどうだ?」
注射を終えると、ほっとしたように英樹が笑った。高砂は小首を傾げつつ、答える。
「気分に異常はないけど、どんな効果なの?」
「高砂家の当主として、高砂家の仕事をするために必要な注射だ」
それを聞いて、高砂は驚いた。
「この家は、父さん曰く、資産運用でなりたっている目立った仕事のない家なんじゃ?」
「表向きは、そうなる」
「だとすると実際には? 俺は既に成績を出した結果で、大学の教授職にあるから、いまさら家業を継ぐなんて困難だけど」
「平行できる仕事だ。そして片方を重視するならば、勿論それは高砂の家の仕事となる」
断言した英樹は、それからアタッシュケースに注射器類をしまうと、蓋を閉じた。
「祐介。お前に会わせたい人がいる。会えば全てが分かるだろう。その方が、お前の成すべき仕事を教えてくれるはずだ」
英樹はそう言うと立ち上がった。腕を押さえて止血していた高砂は、父の様子を窺う。
「お招きしている。二階の客間においでだから、会いに行って欲しい。私は自分の書斎にいるよ」
応接間を出て行く英樹を、不審な思いで高砂は見送った。
「……紹介してくれてもいいんじゃ?」
一人ぽつりと呟いたが、その声を聞く者はどこにもいなかった。
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