第2話 結婚指輪
夏の暑さは体力を消耗させる。精神的にも疲弊させる。
だが、空調の効いた室内では、一時的にその暑さを忘れることができる。
高砂はチョークの粉が落ちてきた時に、洗濯が楽だからと、普段は白衣を着用している。永成のご時世では、大学の講義の際には黒板が用いられることが多く、それはこの日高見府立大学でも変わらない。
深雪キャンパスの11号館の7階に、高砂の教授室と研究室がある。朝、高砂が研究室に入ると、いつもの通り、助教授の上杉と、早く着ていることの多い院生の夏林が顔を上げた。二人がそろって挨拶をする。
「おはよう」
それにいつもの通り高砂が返事を返した時、上杉が何気ない様子で視線を動かしてから、ぎょっとした顔つきに変わった。
「た、高砂先生? そ、その左手の薬指の……」
上杉の言葉に、夏林が高砂の左手の薬指を見て、あんぐりと口を開けた。
「えっ」
信じられないものを見るかのような二人の反応に、高砂は表情を変えるでもなく、己の席へと鞄を置く。どうやら結婚指輪には、インパクトがあるようだと、高砂は考えた。
「それ、結婚指輪ですよね……?」
夏林が短髪に頭を添え、首を前のめりに出す。
「そうだよ」
高砂が無表情で頷く。基本的に高砂はあまり笑わないし、淡々としていて、一部の学生には、その冷徹な指導からも、“氷の高砂教授”と呼ばれている。本人としては面白いことがあれば勿論笑うわけだが、単調な日々と学生の提出する退屈なレポートには、面白味が欠落していると言うだけだ。
「お相手は? まさか冷血な教授と結婚する相手がいただなんて……」
上杉が訊いた。上杉は正直者だ。眼鏡の端を持ち上げて、かけ直している。
「時東だよ」
高砂が端的に答えると、上杉と夏林が顔を見合わせて、頷きあった。
「なるほど、なんというか納得しました。ね? 上杉先生」
「ああ。仲良いですもんね」
二人の反応にはなにも返答せず、高砂は鞄から必要物をデスクの上へと置いた。そしてワープロを起動しながら、本日の予定を確認する。永成の世では、パソコンはほとんど普及しておらず、インターネットもない。通信手段はもっぱら手紙である。配達するのは自転車に乗った郵便局員で、移動手段は徒歩が主体だ。ただし、国内第二の都市である日高見府と、第一の都市である帝都耶麻の間には、五元老とごく一部の者のみが知り得る科学技術を駆使しての、鉄道が走っている。一般国民が使える交通手段はその程度だ。
ただ、五元老をはじめとした政府高官や、非常に一部の富裕層などは、下々の者はあずかりしらない自動車に乗る者もいる。科学技術もまた、文学作品ではモティーフになることが多いので、高砂は目にしたことはないが、様々な品の名前を知ってはいた。
現在は、科学技術が、一般国民と上流階級の間では非常に乖離している。
時東が手がける医療は、比較的国民でも恩恵を受けられる科学の一種だ。
なお医師は専門を持つことはあまりなく、オールマイティに全ての科の診療をこなすことが多い。その中では、主に外科的な手術を手がける時東は、最先端の技術を持つ天才的な医師だとしても評判だ。
その後高砂は、午前中から午後まで入っていた学部生相手の講義の時も、皆に指輪と結婚について驚かれた。
夜になって帰宅し、手洗いうがいをする。夏でもインフルエンザの流行があるからと、時東がハンドソープを持ち込んで、置いていってからの習慣だ。合鍵は渡してあるし、一緒に暮らさないと言っても、本当に頻繁に遊びに来ている時東の私物は、高砂のマンション中にある。
首元を緩めてから、高砂はポストから持ってきた手紙類を手に、リビングのソファに座った。そして一つ一つ見ていくと、実家から手紙が来ていた。
高砂が実家に手紙を送ったのは五日前、内容は、それこそ、時東と結婚するという内容だった。家族の意見を聞くことはしなかった。おそらくそれについての話だろうと考えながら、一度テーブルに手紙を置く。
そしてキッチンの冷蔵庫からペットボトルの水を持ってきた。自動販売機やペットボトルといった品も、身近にある科学的なものの一つだろうと、高砂は思う。キャップを捻って水を飲みながら、実家からの手紙を開封した。
「やっぱり叔父様が怒ってるか」
高砂の叔父は、なにかと口うるさい。というのも、高砂の親、家内と呼ばれていた方の父が、高砂が物心つく前に亡くなり、もう一方の主人である父・英樹が一人で育ててくれたのだが、その英樹の弟である叔父は、それを心配して昔から高砂を気にかけてくれたのである。
手紙には、すぐに帰宅しろと書かれていた。
「これはさすがに、一度は帰っておかないとならないかな。時東は仕事だろうから連れていくのは無理だけど」
嘆息してから、高砂は手紙を封筒にしまい直した。
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