白い夏の結婚

水鳴諒

―― Chapter:不存在の女性 ――

第1話 受胎告知に描かれた女性



 静かな美術館には、蝉の劈きも響いてはこない。

 展示されている絵画を見る高砂祐介たかさごゆうすけの緑色の瞳は、どこか気だるげだ。柔からそうな、少し色素の薄い小麦色の髪が揺れたのは、ある一枚の絵画の前で高砂が立ち止まり、彼が顔を上げた時のことだった。染めているわけではなく、髪も瞳の色も生まれついてのものである。長身の高砂は、顎を少し持ち上げて、絵画を見上げている。


 そこにある絵画のタイトルは、『Annunciazione』。レオナルド・ダ・ヴィンチとアンドレア・デル・ヴェロッキオ作だという。鎖国して長い現在では、めったにお目にかからない伊太利亜イタリア語の原題は、受胎告知と訳されるらしい。


 耶麻やま歴2525年、永成えいせい7年7月。

 高砂は、日高見府ひたかみふ立美術館にて時間を潰している。この美術館は、日高見府会津深雪市あいづみゆきしにおいては、あまり人気のない観光スポットだ。


 ウリにしているのは、高砂が現在見ているこの絵画である。

 勤務する日高見大学深雪キャンパスに近いことや、この絵画に無性に惹かれること、及びすぐそばのカフェの珈琲の味がよいなどの理由から、高砂は度々この美術館に足を運んでいるが、大抵いつも客は自分一人だ。


 描かれているのは、天使と女性。天使も女性も、空想上の存在だ。この世界に、女性は存在しない。ただ動物にメスがいることから、人間にも女がいると空想して描かれた芸術作品は多い。絵画に限らず小説や音楽などでも女性というモティーフは頻出する。


 だが動物とは異なり、進化して知性を得た人間には女性はいない。メスという、子宮を持つ個体とSEXするのは、知性のない動物だけだというのは衆知の事実だ。


 女性がいないので、男性しかいない人間だが、人間は知的な生物なのでSEXをしない。するのは一部の異常性欲の持ち主だけだ。SEXは動物がするものと決まっている。


 高砂はまじまじと絵画を見る。そこにはまるで生きているかのような、女性と天使が描かれている。この絵画は空気遠近法などを用いて、計算しつくされて描かれているらしい。芸術といった感性的なものと、ある種の数学的な手法は、高砂の中では、当初はあまり交わるようには思えなかったが、今ではそれも自然に感じられる。


「ヒトは、どうして女性という存在を仮定したんだろうね」


 漠然とした問いを呟いた高砂は、それから腕時計を見た。

 文字盤は、午後の三時半を指している。

 本日は待ち合わせをしている。その相手との約束の時間は、午後の四時だ。

 そろそろ美術館を出て、近くのカフェで、美味な珈琲を味わってもいいかと考える。

 高砂は、日高見府立美術館を後にした。結局本日も、自分以外の客の姿は無かった。


 美術館の隣にあるカフェは、エルミタージュという。扉に手をかけると、レトロな鐘の音が響いた。ゆっくりと中へと進み顔を上げ、高砂は驚く。そこには、いつも遅刻してくる待ち合わせ相手の姿があったからだ。


「早かったんだね、時東ときとう

「おう。俺だって人生の一大イベントの時くらいは時間を守る」


 時東修司しゅうじは、高砂の高校時代の同級生だ。時東が一学年飛び級した時の同級生なので、年齢は一つ年下にあたる。時東は現在、日高見大附属病院に勤めている。


 基本的に永成の世では、職業は世襲制だ。時東は医者一家の生まれで、本人も“医学バカ”である。ちなみに高砂の場合は、ごく一部の成績優秀者のみが可能な職業選択の自由により、文学の研究者となった。大学教授だ。


 高砂は34歳、時東は33歳という若さだ。

 ただ結婚する歳としては、この永成の世にあっては、若くはない。現在の耶麻登やまと国では、35歳になると、五元老を抱く政府から、公的に決定された結婚相手を通達される。自由結婚は34歳までに限られ、誕生日が来るまでに結婚しなければ、強制的に見知らぬ相手と結婚させられることになる。


 高砂と時東は、正直あまり結婚に興味がなかった。二人とも出世競争が激しい職業に就いており、政略結婚する周囲も多かったが、両名とも出世にも興味がなかった。


 そんなある日、高砂の誕生日に、時東が尋ねた。


『お前は誰と結婚するんだろうな?』


 それを聞いた時、高砂は考えた。


 35歳まで残り一年となった現在、親友同士あるいは腐れ縁といった間柄で、暇な時高砂は、時東と二人で雑談したりぶらぶらしたりすることが多い。人生をともにするのなら、政府が選んだ気が合うかも分からない相手よりは、気が合う相手がいいのではないのかと。


『ねぇ、時東。結婚しない?』


 そこで高砂が己の考えを時東に告げると、時東は目を丸くしてから、ニッと唇の端を持ち上げて頷いた。


『それは確かに一理ある。いいぞ』


 こうして話し合い、入籍を決めた。別姓婚なので、苗字が変わることはない。


「紙切れ一枚で、夫婦か」


 時東が黒い瞳に楽しそうな色を浮かべた。同色の髪が揺れている。

 頷きつつ、高砂は呟くように言った。


「なんで『女』なんだろうね?」

「婦――女偏か。高砂は本当に女にこだわるよな」

「それだけ、俺の研究分野の文学には、女性が登場する古典作品が多いんだよ」


 高砂は時東の正面に座り、珈琲を頼んだ。確かに味はいい。だが、高砂のお気に入りというよりは、正確には時東のお気に入りだ。高砂はそれを知っている。


 結婚は、政府通達や政略的なもののほか、人間だけが抱く『恋心』を理由にパートナーになる者達もいる。


 だが高砂と時東は、ただの親友だ。


 恋情でも友情でも、どちらを土台にした関係でも、性交渉というような行為は、どちらにも伴わない。よって恋愛か友情かの差違は、本人達の気持ちの問題でしかない。


 その気持ちの面で、高砂は時東を大切な友人と思いこそすれ、恋愛対象ではないと考えているわけだが、そうであっても、大切な親友の好みの一つや二つは把握している。その一つが、このエルミタージュの珈琲だ。


 高砂の分の珈琲がすぐに届く。高砂は、カップを持ち上げて、ゆっくりと一口飲み込む。


「帰るマンションは今まで通り、基本的にそれぞれの家のまま。子供はしばらく作らない」


 結婚し、精子を『コウノトリ』という機関へ提出すると、三年後に子供が届けられる。自分の子供を持つことは、エリート男性のある種のステータスだともいわれている。


 だが子育てには、二人、少なくとも一人は、仕事を犠牲にするに近しいくらいの手間がかかる。時東には仕事を辞める気は、さらさらない。


 結婚すると片方は、『家内』と呼ばれるのだが、一般的に家内が子を育てる。


 今回の結婚では厳正なるじゃんけんの結果、高砂が世帯主の主人、時東が家内となった。同居はしないが、以前から時東は高砂の家にちょくちょく遊びに来ていたので、一応高砂のマンションを二人の共通の家として指定することは決めてある。


「なぁ高砂」

「『本当に俺でいいのか?』とか聞いてくる感じ?」


 高砂が呆れ混じりの声を放つ。


「まだなにも言ってないだろう」


 すると時東が頬を持ち上げた。


「じゃあ言ってみて」

「本当に俺でいいのか?」

「よくなかったらそもそもこんな話にのらないよ」


 そう言ってから高砂が、深々と溜息をつく。


「まぁそうだろうな」

「時東こそ俺じゃ不満なの? そんな確認してくるってことは」

「いいや? 最終確認するのが世の中の恋人同士の常だと聞いて試してみたんだ」


 時東の声は、揶揄混じりで弾んでいる。高砂は辟易した。


「あれ? 俺達って、恋人同士だっけ?」

「違うな」

「だよね」


 だがこんなやりとりは日常的であるし、どちらかといえば楽しい。

 高砂はカップを傾ける。時東も笑いながら珈琲を飲んでいる。

 一緒にいて気が楽な間柄であるからこそ、決めた結婚だ。


 その結婚を公的にするための、婚姻届を提出する役所は五時まで開いている。ここから徒歩で十五分ほどだ。四時十五分に出れば、余裕で間に合う。


「だが恋愛なんていう脳の電気信号の結果を、恋と名付けた場合も、その信号が無いパターンも、端から見たら変化なんかほとんどないだろ」


 尤もな時東の声に、高砂は再び頷く。


「そうだね。じゃあ俺達もペアリングを常に嵌めて、おそろいのブランドの時計でも身に付けてみる?」

「研修医連中に唖然とされそうだ」


 時東がにやっと笑う。


「高砂の場合は、『高砂先生が結婚しちゃった』と嘆く学生がいっぱいいそうだな」

「そうだね。俺は直接関わりがあるゼミの子とかには怖がられてるから別として、遠くから俺を眺めてるだけの学生には人気だからね」

「顔がいい奴は言うことが違うな」

「時東も顔と腕はいいよね。性格はまぁまぁ悪いけど」


 二人はそんなやり取りをしながら珈琲を飲んだ。そして四時十五分に会計を済ませ、役所へと歩く。歩道を進み、鶴ヶ城趾つるがじょうし公園をすぎてから、役所の中へと入った。


 二人で結婚届けを出すと、すぐに受理され、担当者が「おめでとうございます」の言葉と共に、子作りのパンフレット、コウノトリの資料が入った封筒をくれた。


 そのまま二人で役所をでる。


「これで今日から俺と高砂は夫婦か。俺のほうが『婦』で、高砂が『夫』」

「うん。よろしくね」


 永成の現代、滅多なことでは離婚はない。相手が犯罪を犯したなどの理由で、たまにある程度だ。


 だからよほどのことがないかぎり、二人は生涯をともにする。


「時東が俺の『家内』で『奥さん』か」

「そうなるな。で、お前が俺の『旦那』」


 呼び名が少し増えただけであるし、互いにまだ実感もない。


「ところで時東。今夜はなにか食べて帰る?」

「悪い。このあと、夜勤だ。じゃあな、旦那様。俺はこのまま病院に戻る」


 時東はそう言ってひらひらと手を振ると、歩き始めた。


「頑張ってね」


 そう声をかけてから、高砂は時計を買いにいくことにした。恋愛感情など存在しないと豪語する時東に渡す、冗談まじりの悪趣味なプレゼントを買おうという算段だ。指輪は既に購入済みで、お互い所持している。時東は手術の邪魔になるから嵌めない様子だが、高砂は帰宅したら左手の薬指に鎮座させようかと考えていた。


 こうしてこの日は別々の道に帰った。



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