第6話 もしも僕と彼女が恋人同士だったら
唇から伝わる感触は、今までの生で一度も味わったことのないものだった。
溶けてしまいそうなほど暖かく、蕩けてしまいそうなほど柔らかな、とても優しくて不思議で、気持ち良い感触。
頭の中が真っ白になり、恋花さんの整った眉毛と長い睫毛と、黒曜石を思わせる深い瞳が視界をめいっぱい埋め尽くす。
なぜだろうか。美しい睫毛の毛先は不安に揺れ、ハイライトが消えた綺麗な瞳には涙が浮かんでいる。
刹那が永遠となり、ゆっくりと閉じていく恋花さんの瞼が、スローモーション撮影のように僕の魂に鮮明に刻印されていく。
やがて恋花さんが目を閉じると、浮かんでいた涙はだんだんと瞼の下に溜まり、静かに頬を伝って流れ落ちた。
その姿にわけのわからない切なさと罪悪感を覚えてしまって。
彼女に導かれたかのように、僕もゆっくりと目を瞑る。
次第に狭まっていく視界と相反して、鋭さを増していく聴覚と触覚。
僕の下唇を挟むように重なった恋花さんの唇の感触と、自分の胸に当たっている、ボリューム感のある二つの柔らかいものの感触が鮮明に感じられ、ゾクゾクと背筋に甘い痺れが走る。
何とか耐えようと、恋花さんの華奢な腰に両腕を回してぎゅっと抱き締める。
すると、柔らかい双丘は更に僕の胸に密着し、形が潰れるわけで――。
これ、思春期だったら絶対血流がヤバくなっちゃう奴だ。
6歳の体で本当に良かった……。
ぼんやりとそんなことを考えながら――。
大きく跳ねる二人分の心臓の鼓動と脈拍と、原因不明の耳鳴りに包まれ、僕は呼吸も忘れたまま、恋花さんの感触と温もりだけをただただ求めた。
お互いの鼻息がかかるほど近い距離にいるというのに、不思議なことに恋花さんの鼻息は感じられない。
目を瞑っているので見えてはいないが、恐らく今、恋花さんは頬を上気させて必死に呼吸を止めているのだろう。
確かに、自分の鼻息が恋花さんにかかることを想像すると、ものすごく恥ずかしい。
だから、キスされた瞬間から息を止めていたせいで限界を迎える寸前になっていた僕も、恋花さんに息がかからないように更に必死に呼吸を止めた。
脳内が酸欠で更に真っ白になる。
心臓が激しく跳ね、ただでさえ不足している酸素が更に速く消費されていく。
肺が酸素を求めて「このままだと死ぬぞ! 早く呼吸しろ!」とうるさく急かす。
しかし、それでも。それらを感じながらも、僕は唇を離すことができなかった。
いつ離せば良いか、皆目見当がつかない。
でも、仕方ないだろ。
前前生と前生を含めて、今までキスなんて一度もしたことなかったんだからさ。
だから、これは僕にとってファーストキス――。
そういえば、これは恋花さんにとってもファーストキスのはずだった。
ふと、恋花さんの言葉を思い出す。
『だって、お金は全部あげちゃったし、これ以上えいちゃんにあげられるものって、もう臓器とファーストキスと処女と身体と命と魂ぐらいしか――』
酸欠で思考があまり回らなくなっていても、恋花さんの言葉は鮮明に蘇る。
当然だ。恋花さんと
彼女たちの一言一句と一挙一動は、永遠に忘れることのないよう、漏れなく僕の魂に刻み込まれているのだ。
お金、臓器、ファーストキス、処女、身体、命、そして魂。
それは、恋花さんにとっての優先順位。
つまり、恋花さんにとってファーストキスとは、全財産は勿論のこと、彼女の臓器よりも大事なもののわけで。
……。
貞操観念が並外れて強く、今まで誰にも身体を許さなかった恋花さんのことだ。
ファーストキスも、20年間大切に守ってきたのだろう。
そんな大事なものを、僕なんかがもらってしまって良いのだろうか。
彼女の愛情に感謝するとともに、限りのない申し訳なさを感じる。
しかし、一方では、醜い優越感と征服感と独占欲と性愛を感じる自分がいた。
優しい恋花さんにキスされてこんな感情を抱いてしまうなんて……僕は、どうしようもないクソ野郎だ。
もしも僕と彼女が恋人同士だったら、僕のこの醜くて汚い感情も、『愛』という言葉で許されたかもしれない。
でも今の僕は6歳児。そして、恋花さんは断じてショタコンではない。
だから、異性として思われてキスされてるわけじゃないってことは、痛いほど分かっている。
この感情は、蓋をして捨てるべきだ。
そう思いながらも、一度自覚してしまった感情に蓋をすることはできなかった。
優しい恋花さんを『
前前生での恋花さんとの出会いは、現生での出会いとは全く違った。
前前生の6歳の僕は無力で無知なクソガキで、父親の死体を恋花さんと妹に見せてはいけないという当たり前の配慮すらできなかった。
部屋に入って父親の死体を見た恋花さんは、きっとショックを受けたのだろう。
忘れられないトラウマになったに違いない。
そのはずなのに、彼女は自分のことより、僕のことを気に掛けた。
震える手で僕を抱き締め、安心させてくれた。
『大丈夫、大丈夫だよ、えいちゃん。私がいるから。もう誰にもえいちゃんを傷つけさせたりなんてしないから! だから、安心して』
身体の所々に転移した癌と戦いながらも、彼女は僕の心配ばかりしていた。
『あいちゃんのことは心配しないで。ゴダジェント財団が引き取ってくれるらしいから。実はえいちゃんのこともお願いしてみたんだけれど、断られちゃって……』
『うぅ……ッ、私がいなくなっちゃったら、えいちゃんはどうするんだろう……う、ううん、こんな弱気じゃダメだよね。頑張って治らなくっちゃ!』
何で僕じゃなくて恋花さんなんだろ。
恋花さんの身代わりになりたかった。彼女の代わりに死ねるなら本望だった。
神に祈ったことは数え切れないほどあった。
しかし、どんなに祈っても、それが叶うことはなくて。
僕は、世の中神なんていないと思った。
そうしているうちにも時間は過ぎていって、その日がやって来た。
命が絶えるその寸前、恋花さんは僕に謝った。
『もう誰にもえいちゃんを傷つけさせたりなんてしないって言ったのに……私がえいちゃんを傷つけちゃった……。ご…めん……』
それが、彼女の最期の言葉。
役立たずの僕は身代わりもできず、結局最後まで役立たずだった。
だから、前生で恋花さんを助けられた時は、もう死んでも良いって思ってしまうくらい嬉しかったんだ。
母親に捨てられ、父親に「お前なんか生まれてこなければよかった」と呪われ続けた僕に、もしも一つだけ生まれた意味があるとするのならば。
それはきっと、この瞬間のためだったのだと。
時の神としてのスタート時点も彼女を救える時点だったから、僕は恋花さんを救うために生まれたのだと、身の程知らずにもそう思った。
はは……笑っちゃうよな。
次の生があるからって無茶しまくって早死にして、誰よりも恋花さんを深く傷つけてしまったくせにね。
自分の過ちにいつも遅れて気づいて後悔ばかりするアホな僕は、何処かゲーム感覚で。
周回プレイと思って、頑張って、頑張って、死ぬ気で頑張って――次のループでは恋花さんと妹をもっと幸せにできると思いながら。
自分が死んだ後のことは何も考えず、勝手に満足して死んだのだった。
不幸中の幸いだったのは、自分が粉骨になってから世界が暗闇に包まれ、そのまま止まったことだった。
恋花さんと妹をそれ以上悲しませないで済んだんだから。
参ったな……。振り返ってみればみるほど、想いが溢れ出して止まらない。
どうやら僕は、前前生で恋花さんと初めて出会ったその時からずっと、彼女を愛していたようだ。
それを三度目の生で、しかも彼女にキスされてようやく気付くなんて、僕はどんだけ鈍感な奴なんだろう。
自分の愚かさに呆れ果ててしまう。
あれこれ考えていると、恋花さんがゆっくりと唇を離してくれた。
僕たちは二人とも「ぜーはー! ぜーはー!」と、息を荒げながら新鮮な空気を求めた。
ゲームや小説、漫画などでは、唇が離れる際に、唾液が糸を引く描写がよく出てくるが、僕と恋花さんはただ唇を重ねていただけだったから、そんなことは起きなかった。
惜しい気持ちが込み上げる。僕から舌を入れてれば――と、一瞬思ってしまった。
だが、その直後。今のが恋人同士のキスではなかったことと、僕が6歳児であることを思い出し、「お前血迷ったか!?」と心の中で自分に一喝した。
家族と思ってる6歳の男児にちゅーしたら突然舌を入れられるなんて、もはやホラーでしかない。
想像するだけで、気持ち悪さを超えて恐怖と狂気すら感じてしまう。
そんなことを考えていると、恋花さんが僕に謝ってきた。
「はぁ、はぁ……、ご、ごめんね、えいちゃん。私、下手くそだったよね? ファーストキスだったから、どうすれば良いかわかんなくって……」
そんなことない。
子供へのキスに下手くそも何もないと思うが、ファーストキスだったのは、僕だって同じだ。
「それは僕だって同じですよ」
「そっか、そうよね。お互いにファーストキスだったんだわね。ふふふ」
そう言ってはにかむ恋花さんは、本当に死ぬほど可愛かった。
「ところで、大事なファーストキスの相手が僕で良かったんでしょうか? 恋花さんの貞操観念的に……」
「ふふふ、何言ってるのよ、えいちゃん。えいちゃんだからこそ良いのよ。でも、誤解しないでね? 私がこんなことするのは、えいちゃんにだけだからね?
たとえ目の前に誰かが意識を失って倒れてて、その人を助けられるのは私だけだとしても、人工呼吸なんて絶対しないわ。その人が男であろうと女であろうと関係ないの。
でも、えいちゃんには私の全部をあげる! これが、私の貞操観念よ」
どうやら彼女の中で、僕は例外らしい。
嬉しすぎる反面、複雑な気持ちにもなる。
「でも、やっぱり責任取らせてください」
「じゃあ、今度はえいちゃんからして?」
恋花さんは頬を赤らめてそう言うと、目を瞑ってキスをせがんだ。
何この
なぜ僕からキスすることが、恋花さんのファーストキスをもらった責任を取ることになるのか、それは分からない。
でも、理由なんてどうでも良い。
それが彼女の望みなら、僕は叶えてあげたい。
恋花さんの唇の位置を確認してゆっくりと距離を縮めながら、僕は思った。
もしも僕と彼女が両想いで、もしも僕と彼女が恋人同士だったら、どれほど幸せだったのだろうかと。
神は言葉では嘘をつけない。でも、行動を偽装することぐらいは許されるはずだ。
不器用な僕は、可能な限り家族愛を装って。でも、ありったけの愛を込めて、恋花さんにキスした。
愛しい人との二度目のキスは、お互いに適切に息をしながら、何度も唇を重ねて、そこそこ上手くできた。
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