第4話 僕は永遠に君の味方だ
ユリ・ゴダジェントはイギリスの科学者である。
彼は3歳で連立方程式を理解し、7歳になる頃には
ユリ・ゴダジェントが天才である理由は、自分の無意識に
それは、言わば無意識の
この世界において、無意識の本質は魂である。
通常、人間は自分の魂を認識出来ないが、ごく稀に認識出来る者もいる。
そのような者は、古代には神と人間の間に立つ存在とされ、「
自分の無意識を観照できるユリ・ゴダジェントは、不完全ではあるが一応神子と言えた。
18歳で博士号を取得したその若き天才は、遺伝子に関する生物学分野で10年間にわたり数々の業績を成し遂げた。
しかし、世界は彼に才能を授ける一方で、短命という
残り僅かな寿命を前に、ユリ・ゴダジェントは決意した。
自分の遺伝子を人類の発展のために残そうと。
これまで積み上げてきた富を使って精子バンクを設立し、自分の精子を寄贈。
そして才能と若さに溢れる女性であれば、誰にでも自分の遺伝子を提供すると明言した。
その結果、様々な国から多くの女性が彼に精子の提供を申請してきた。
その中には、かつて天才中学生作家として知られた16歳の少女もいた。
一般的には倫理的に問題視されるだろうが、死を前にした彼には、最早倫理観などどうでも良かった。
才能に疑いなし、年齢も問題なしと、ユリ・ゴダジェントは快く
***
人の精神状態は身体の状態やホルモンバランスに大きく影響を受ける。
例えば、
そして現在、僕の身体とホルモンバランスは、両方とも6歳児の状態に戻っている。
つまり、僕の精神状態も6歳児のそれになってるってことだ。
それなら、良い歳してついさっきまで子供みたいにすすり泣いていたのも、
所詮、人間なんてホルモンに支配される生き物なんだからさ。
……と自己弁護してみたが、少々無理感があった。
だって僕6歳の頃、絶対こんなこと考えなかったし。
しかし、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
僕が甘えている今この瞬間も、恋花さんと妹の身体は冬の寒風に晒されている。
なるべく早く暖かい場所に連れて行きたい。
それに、今は0時過ぎ。まだ3歳の妹には遅すぎる時間だ。
子供の睡眠不足は成長を妨げる。さっさと寝かせるべきだ。
落ち着いたことを伝えて、恋花さんの胸から離れる。
そこで自分の涙と鼻水で濡れているシャツが目に入り、僕は慌てて恋花さんのコートを閉めようとした。
「あら、どうしたの?」
「僕のせいで恋花さんのシャツ濡れちゃったから、温めないと……寒い思いをさせてしまってごめんなさい……」
ふざけて自己弁護してる場合じゃなかった。
どうして僕は涙を我慢できなかったんだろう……。
恋花さんへの申し訳なさと自分の愚かさに、深くため息をつく。
僕はいつもそうだ。いつも自分の過ちに遅れて気づいて、後悔するばかり。
だから、今度こそ上手くやっていこうと決心したのに……。
あ。なぜかまた涙が込み上げてきた。止まれ、と念じても全然止まりそうにない。
6歳の身体、馬鹿正直すぎるだろう……。
これガチでダメな奴だ――そう思った瞬間。
突然恋花さんから無限と思わしき感謝の気持ちとともに、神Pが100Pも贈られた。
(!?)
あまりの驚きに、一瞬で涙が引っ込んだ。
神Pというものは、決してこんな一気に稼げるものじゃない。
簡単な手助けだと精々1P。相手次第では、全く貰えないこともよくある。
困っている人を助けても、貰えるPはたかが1~10P。
100Pなんて、仮に僕が誰かの人生を救ってやったとしても貰えるかどうか怪しいレベルの値なのだ。
これは一体、どうなってるんだ……?
あまりの異常さに疑問を抱いていると、恋花さんが滂沱の涙を流しながら、
「ああ、えいちゃん……なんて、なんて良い子なのかしら!!」
「ちょ、恋花さ――んッ!?」
頭を谷間に押し付けられ、声にならない悲鳴を上げる。
恋花さんは僕が大学四年生になった時も、今(20歳)と変わらず美貌と体型を保っていた。
ということは、僕の顔は現在天然Gカップの巨乳に包み込まれているってことか。
なるほど……どうりで息ができないわけだ。
ほのかに漂う良い香りに包まれ、ふと思い出す。
そういえば、僕は前生で恋花さんヴァンパイア説を唱えていたと。
だが、今なら分かる。恋花さんは、実は女神だったのだ。
ちゃんと根拠もある。人間に神を救うことは出来ない。
ところで、恋花さんは僕を救ってくれた。
Q.ここで導かれる結論は?
A.恋花さんマジ女神。
はいQED。
え?
……そろそろ本気でヤバくなってきた。
数十年ぶりに感じる恋花さんの腕力は相変わらず凄まじい。
恋花さんとしてはそれなりに手加減しているつもりなんだろうが、それでも6歳の身体にはかなりの圧迫感――もとい、圧搾感だ。
まあ、この程度の痛みなど、痛くもかゆくもないけどね。
あの灼熱の――痛っ!!
……考えてみれば、恋花さんの温もりのおかげで克服できたのは寒さだけであった。
「はっ、ご、ごめんね! 痛かったよね!」
苦痛に身悶えると、恋花さんが慌てて僕を開放した。
恋花さんのせいではないのだが、痛みを感じたこと自体は事実なので否定できない。
神の言葉には力が宿る。それは、『
神の言霊は現実を確定させる。しかし、ないものを現実にすることはできない。
それ故、神の言葉は常に事実であり、神が言えるのは事実のみである。
要するに、神は嘘をつけないということだ。
「私は大丈夫だから、これ着てて」
コホンと咳払いして、自分のコートを脱いで僕にかけてくれる恋花さん。
「でも……」
「大丈夫だって! 身体には自信があるの。こう見えても私、色々と結構強いのよ」
確かに、恋花さんは『神』なんちゃらという名の古武術の流派で免許皆伝を取得しているはずだ。
同時に天才中学生作家として世界に知られているので、まさに文武両道。
前前生で短命してしまったのは、世界なりのバランス調整だったのかもしれない。
チート過ぎてゲームのチュートリアルが終わった段階で早期退場されてしまうキャラ。それが前前生の恋花さんだったのだ。
因みに前生の恋花さんは退場などせず、普通に無双していた。
それはそうと。こうなると、恋花さんはなかなか意見を曲げない。
僕は折衷案を提案してみた。
「じゃあ、一緒に着ましょう」
「えいちゃ――ん!!」
『ピコン!』というSEとともに再び贈られる100P。
ちょっと、これマジでどうなってんの!? 僕まだ何も善行してないよ!?
……いや、それは一旦さておこう。今は妹に気を配るべきだ。
言うまでもないことだが、僕の言った『一緒に』には、妹も含まれているのだ。
妹を探して周りを見回す。
僕の溺愛する妹は、恋花さんの少し後ろに立ち、こちらをジーと覗き込んでいた。
その姿態は、幼女の姿をした女神そのものであった。
恋花さんと瓜二つの顔立ちを持ちながらも、その雰囲気はまるで別人である。
月光を反射するかのように輝く銀色の髪と、見る者を引き込んでしまう銀色に澄んだ瞳。
月の女神を
ふと、昔の記憶が蘇った。
『うーん、多分ね、愛はお兄ちゃんにママを取られたみたいに感じてたと思う。お兄ちゃんは悪い子! 排除すべき敵!って風に思ってたんじゃないかな? よく覚えてないけど』
『もちろん今は違うからね? 大好きだよ、お兄ちゃん。愛してる!』
君の言葉が、君の仕草が、君の存在そのものが、僕にとってどれほどの癒しと励ましになっていたのか、君はきっと知らなかっただろう。
――ただいま、愛ちゃん。君にまた会えて嬉しいよ。
眼差しでそう伝えながら、僕は恋花さんに訊く。
「あの子は……」
「あ、この子は私の娘の愛花、あいちゃんよ。あいちゃん、挨拶して。お兄ちゃんのえいちゃんよ」
「愛ちゃん、お兄ちゃんだよ。よろしくね」
「……」
妹は返事をせず、こちらをジーと覗き込んでいるだけだった。
相当警戒されてるな、これは。
気持ちは分かる。
僕にお母さんを取られたかのように感じてるんだろう。
――安心して、愛ちゃん。僕は君から何も奪わない。
「あら、この子、普段はよく喋ってるのに。人見知りしちゃってるみたいね」
「可愛いですね」
「でしょ? 仲良くしてあげてね」
「はい、僕の名にかけて」
真剣に誓うと、恋花さんは「良かったね、あいちゃん」と笑いを零した。
「ところでえいちゃん。お父さんは部屋にいるのね?」
「それは……」
一応部屋にはいる。正確には、ぶら下がっている。
「やっぱりいるんだ。絶対許せない」
「恋花さん、入らないで!」
僕は玄関を開けようとする恋花さんを必死に止めた。
あれは決して恋花さんと愛花に見せるべきものではない。
舌も伸びてるし、床も汚れてるしで、絶対トラウマになるに決まっている。
「心配しないで。先も言ったけど、私って結構強いのよ」
「いえ、そういうことじゃなくて、お父さん、もう動けなくなってしまったから……」
「……!」
「だから、入らないでください。僕は恋花さんにも愛ちゃんにも、怖い思いをしてほしくないです」
すると、また神Pが100Pも増えた。
しかも『ピコン!』『ピコン!』とSEが絶え間なく鳴り響いて、感謝の気持ちが遥かに上限を超えていることを僕に知らせてくる。
恋花さんに感謝されるのは死ぬほど嬉しいし、言葉じゃ言い表せないほどありがたく思う。
こんな短時間で、僕の
けどね? 僕今、父親が死んだって伝えたばかりだよね……?
それなのにめちゃくちゃ感謝されているこの状況って、ちょっとおかしくない?
いや、良いか。僕は
優しい恋花さんのことが大好きで、妹の愛花を溺愛する、神田永時だ。
好きなものは善行、趣味も善行、座右の銘はとりあえず善行。
誰かに感謝されるためなら何でもする。
そして今、僕は恋花さんに感謝されている。
それなら、他の些細なことなど、気にする必要も価値もない。
そう割り切って恋花さんを見上げる。
恋花さんは頬を紅潮させ、感動の涙を流していた。
潤んだ目にはハイライトが消えており、僕だけが映っている。
はぁ……実に美しい。
ふと視線を感じて愛ちゃんに目をやると、最愛の妹は少しむっとした表情でこちらをジィー……と見つめていた。
その顔は可愛すぎるが、この状況は怖すぎる。
もしかしたら『ママをいじめないで』とか『ママを泣かせないで』と思っているのかもしれない。
――違う。僕は恋花さんと君が怖い思いをしないでほしいんだ。
多分届かないだろうけれど、僕は心の中でそう伝えた。
***
その存在はある日突然、神田愛花の目の前に現れた。
自分のことを『お兄ちゃん』と紹介した少年は、現れた途端にママの関心を奪い取ってしまった。
これまで母親が世界の全てだった女児にとって、それは世界全部を奪われたのと同然であった。
しかも、『お兄ちゃん』はママを何度も泣かせた。
帰り道、神田恋花は「嬉しかったからよ」と娘に説明したが、少女は納得しなかった。
嬉しいと笑う。悲しいと泣く。まだ3歳児でも、それくらい分かっていたのだ。
(ママを泣かせる『お兄ちゃん』はわるい子。『お兄ちゃん』なんて、いらない)
幼い少女は、まだ『敵意』という言葉を知らない。
それでも、この時神田愛花が無意識のうちに神田永時に抱いた感情は、まさに『敵意』だった。
そして、その翌日。
神田愛花は、あの嫌な『お兄ちゃん』が、これからママと一緒に住むことになったと知った。
自分の居場所がなくなる恐怖に震えながらママにくっついていると、ママが言った。
「あら、食材がなくなりそうだわ。ちょっと買い物に行ってくるね」
「ママ、あいもつれていって!」
「ダメよ。あいちゃんはお兄ちゃんと一緒にいい子していてね」
『ガーン!』と、幼い少女はショックを受けた。
よりにもよって、あの『お兄ちゃん』と!?
一緒にいい子しているなんて、ぜったいできないと神田愛花は思った。
幼い子なりにちゃんとした理由はあった。
『あい』はママを泣かせない『いい子』。だから、ママが帰るまでちゃんといい子できる。
でも、『お兄ちゃん』は『わるい子』なのだ!
『お兄ちゃん』がいい子にならないと、一緒にいい子しているなんてできないのだ!
しかし、ここで嫌々言ってしまうと、自分まで『わるい子』になってしまう。
「ママの言うことはちゃんと聞かなきゃ!」と使命感に駆られた神田愛花は、ママが出かけるまで待つと、神田永時を更生させようとした。
「お兄ちゃん」
「おお、どうしたの、愛ちゃん?」
「お兄ちゃん、いい子になって」
「え!? 僕良い子だよ!?」
最愛の妹から突然悪い子認定され、『ガーン!』とショックを受ける神田永時。
自らをいい子だと主張するその図々しさに、神田愛花も『ガガーン!』とショックを受ける。
「うそだ」
「何でそう思った?」
「ママを泣かせたから」
「やっぱりそう思われてたのか……」と呟くと、『お兄ちゃん』は素直に謝った。
「それは……ごめん」
「やっぱり、わるい子」
「グハッ!」
この頃の妹にとって『わるい子』がどんな意味を持っているのか。
それを知っていた神田永時は、慌てて否定した。
「ち、違う、僕は愛ちゃんの敵じゃないんだ」
「てき……? てきってなに?」
「愛ちゃんをいじめる悪い子のことだよ。愛ちゃんを助ける良い子は『味方』って言うんだ」
「じゃあ、お兄ちゃんはあいのてき」
「いや、僕は愛ちゃんの味方だよ」
「ううん、お兄ちゃんは、てき」
神の言葉は常に事実であり、神が言えるのは事実のみである。
そのため、神田永時の言葉が事実であることは何となく伝わってきたが、小さな女の子は意地になって否定した。
前生だったら、意地を張っている妹の認識を変えるのは難しかっただろう。
しかし、今の神田永時は、前生とは違う。
神の
高まった神格は神に
3度目の生。虚無の空間で約百年間苦痛を伴う試練を受け続けたことで、神田永時の神格は神と称するに相応しいものとなっていた。
神の言霊は現実を確定させる。
神田永時は妹と目を合わせると、ありったけの愛情を込めて全身全霊で言霊を発した。
「
『僕は、永遠に君の味方だ』
***
古代。この世にまだ神々が存在しており、神と人間との距離が最も近かった時代。
神子は神と人間の間に立つ
神子の役割は、神の言霊を受け取り、人間に伝えること。
故に神の言霊は神子にとって特別な意味を持ち、『神子』の根幹を成す。
『僕は、永遠に君の味方だ』
神田永時がそう告げた瞬間。
意識と無意識が融合し、認識の範囲が無限に広がる。
魂を轟かせる衝撃の中で思い浮かんだのは、自分に向けられた少年の言動の数々。
幼い少女は悟った。出会ってからずっと。
『お兄ちゃん』の言動には、いつも自分への配慮と愛情が籠っていたと。
それに、幼児は周りの感情に非常に敏感である。
超能力とも呼べるであろう子供の感覚は、『お兄ちゃん』が今まで心の中で自分に伝えていた言葉を、彼の眼差しから読み取った。
――ただいま、愛ちゃん。君にまた会えて嬉しいよ。
――安心して、愛ちゃん。僕は君から何も奪わない。
――違う。僕は恋花さんと君が怖い思いをしないでほしいんだ。
(そうなんだ……。お兄ちゃんは、ずっとあいの『みかた』なんだ)
そう自覚した瞬間。『お兄ちゃん』は少女の世界に溶け込み、真の家族となった。
父親という存在を知らない神田愛花にとって、神田永時は初めて接した身近な異性である。
ひとえに自分のことを愛してくれるお兄ちゃんにエレクトラコンプレックスを抱いたのは、ごく自然なことだったのかもしれない。
通常の場合、仮にエレクトラコンプレックスが現れても、それは潜在意識に存在し、成長するにつれて解消されるか、認識出来なくなる。
しかし、神田愛花は神子として覚醒してしまった。
無意識を観照できる少女は、お兄ちゃんへの愛情をしっかり自覚した。
そして開花した彼女の天才性は、決して忘れることを許さない。
いくら時間が経っても。それこそ、命が尽きるその瞬間まで。
初恋の熱に身を焦がされた純粋な女児は、お兄ちゃんの想いに応えたいと心から思い、無限の感謝を込めて宣言した。
「じゃあ、あいもえいえんにお兄ちゃんの『みかた』になる!」
素直な感情を込めたその言葉は、神子の誓約そのものであった。
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