第3話 そして、また救われる

 3歳の頃。神田かんだれんには、誰にも言えない秘密があった。

 彼女は年の離れた実の兄を愛していた。家族としてではなく、異性としてだ。


 しかしある日、神田恋花は知ってしまった。兄妹は結婚できないという現実を。

 幼い少女の想いは、静かに心の奥底に封じ込められたまま、時間と共に薄れていった。


 成長するにつれて、神田恋花は兄と距離を置くことになったが、閉じ込められた想いが完全に消えて無くなることはなかった。

 それは潜在意識の中に残り、いつの間にか心の穴となってしまった。


 中学生になっても、心の穴が満たされることはなかった。

 開花し始めた彼女の美貌に魅了され、多くの男子が告白してきたが、何故か誰かと付き合う気にはならなかった。


 ただ、恋愛そのものに興味がないわけではなかった。

 恋愛について考える度に、神田恋花は得体の知れない衝動に突き動かされて。

 いつからか彼女は、恋愛小説を書き始めた。


 叶わぬ想いがインスピレーションとなり、執筆は彼女自身も驚くほど順調に進んでいった。

 彼女の小説はネット上で大話題となり、やがて出版社から書籍化の打診を受けることになった。

 こうして神田恋花は、中学生作家としてデビューを果たした。


 その頃、独立していた兄は、当時付き合っていた女性が妊娠したことで、その女性と結婚することになった。

 結婚式に出席した神田恋花は、わけのわからない喪失感に悩まされて。

 兄夫婦の間に子供が生まれたと知った時も、会いに行くことはなかった。


 神田恋花が兄夫婦と再会したのは、それから二年後のこと。彼女が16歳の時だった。

 甥に初めて出会った瞬間。幼かった頃の兄にそっくりの神田かんだえいを見て、神田恋花は頭の先から足の先までを電撃で貫かれるような衝撃を受けた。


 (キャ―――!! 何この子、可愛すぎる!!)


 心理学の巨匠、ジークムント・フロイトは説いた。幼児期には異性の親に対して性的愛情を抱くことがあると。

 女児が父親に対してそのような感情を抱く状態を『エレクトラコンプレックス』と呼ぶ。

 神田恋花の場合は特殊な家庭環境の影響で、エレクトラコンプレックスが父親ではなく、父親の役割を担っていた兄に対して発現した。


 もう一つの心理学の現象として、親の特徴を持った人に対して無意識的に感情や関心を投影することがある。このような現象は『転移』と呼ばれる。

 この時、神田恋花が神田永時に対して抱いた感情は、彼女の潜在意識に存在する歪んだエレクトラコンプレックスが無意識に転移した結果であった。


 無論、これはあくまでも深層心理の作用によるものであり、神田恋花にその自覚はない。

 ただ、神田永時と一緒に時間を過ごしていると、言葉では説明できない何かが満たされていって――それから、神田恋花は、毎日神田永時に会いに行くようになった。

 因みにこの時点で、元々疎遠だった兄は、彼女の中では最早どうでも良い存在となっていた。


 自分によく懐いてくれる甥に対して抱く感情は徐々に強くなっていった。

 エレクトラコンプレックスの自覚こそなかった神田恋花は、その感情を自分が子供を好きだからだと勘違いし、無性に子供が欲しくなった。

 とはいえ、他の男と体を交わる気は全くしなかったため、精子バンクから優秀な精子を提供してもらい、体外受精を行った。


 培養したはいを代理母に移植して代理出産に成功。

 その過程でほぼ全財産を使い果たしてしまったが、神田恋花に後悔はなかった。


 生まれた子は、自分そっくりの顔立ちを持つ女の子だった。

 彼女は娘を『あい』と名付け、育児に専念した。


 兄の息子と自分の娘が仲良くしている姿を想像してみると、諦めていた何かが叶いそうな気がして。

 神田恋花は、娘を甥と会わせる日を心待ちにしながら、愛花の成長を見守った。

 時々甥に会いたくなると、何時間も神田永時の写真を見て我慢した。

 

 そんな彼女が久しぶりに兄に連絡を取ったのは、2月のある日。

 愛しい甥が6歳の誕生日を迎える前日だった。


 「お兄さん、お久しぶり。300年ぶりだわね」

 「……お前か。今更何の用だ」

 「用がないと連絡しちゃダメ?」

 「そんな仲でもないだろ」


 電話越しに聞こえてくる声は、かなり酔っていた。

 いつもに増してとげとげしい態度と、絶望しきっているような声。

 尋常でない雰囲気に不安な予感が湧く。


 「…どうしたの? 義姉さんと何かあったの?」


 語られたのは、義姉の不倫と兄の離婚。

 義姉は神田永時を妊娠する前から浮気をしていたという。


 「そんな! えいちゃんは大丈夫なの!?」


 事情を聴き、最愛の甥の心配をする神田恋花は、まさにヒロインの鑑であった。

 因みに、疾うにどうでも良くなっていた兄のことは、やはりどうでも良かった。

 

 「知るか、あんな女の子供」

 「は? 何言ってんの? お兄さんの子供でもあるでしょ!」

 「……あいつは俺の子供じゃない」

 「そんなはずないわ! お兄さんの子供の頃とあんなにそっくりだもの! 親子検査はしたの?」

 「99.9%の確立で俺の子供らしい」

 「ほら、やっぱりお兄さんの子供じゃない!」

 「0.1%の確率があるだろ」

 「は?」


 兄は一体何を言っているのか。

 理解が追い付かないままでいると、愛しい甥の声が聞こえた。


 「お父さん――」

 「誰がお前のお父さんだ!」

 「……ごめんなさい」

 「お前のせいで、俺はあんな女と結婚することになった! お前さえ、お前さえいなければ!」

 「ごめんなさい、生まれて、ごめんなさい」


 殴る音と、謝り続ける細い声。

 聴いていられなくなり、神田恋花は悲鳴のような声を上げた。


 「何してんの!? やめて!!」

 「…もう、いい。疲れた」


 その言葉を最後に通話が切れた。

 直ちにかけ直すも、繋がらない。


 「…っ!」


 神田恋花は娘を抱いて家から飛び出すと、タクシーを捕まえて甥のところへ向かった。


***


 縮んだ身長と、身体の所々から感じられる痛み。

 でもこの程度の痛みなど、今の僕には全然大したことない。むしろくすぐったいくらいだ。

 魂に刻まれているあの極限の苦痛に比べたらね。


 「あっつ!?」


 一瞬考えただけで鮮明に蘇る凄まじい熱気と激痛と、肉が焼ける匂い。

 必死に他のことを考えると、一般常識から大学レベルの専門知識まで一気に蘇る。

 前生では死ぬ気で頑張ってやっと覚えられたものだったのに。感慨深いものだ。


 手を動かして、グッと痣を押してみる。肌の奥からくすぐったい刺激が伝わってくる。

 動作問題無し、感覚問題無し。いや、感覚の方は問題有りか。

 兎に角、ということは――。


 「やっと戻ってきた! マジで死ぬかと思ったよ……。って、実際に死んでたけどね! いや、死んではないか?」


 おお、声が出る! 感極まって思っていたことをつい全部口走ってしまった。

 身体の感覚といい、今の言動といい、どうやら僕はおかしくなってしまったらしい。


 まあ、おかしくならない方がおかしいよね。

 だって、あれだけの経験を――寒っ!


 暗闇の中で過ごしていた時のことを思い出すと、今度は魂が凍り付くかのような極限の寒さに苛まれる。

 寒い、寒すぎる……。

 どうにか暖かいものを考えて忘れようとしたら、思わず火を連想してしまい、再び耐え難い熱気に襲われた。


 「参ったな……」


 しばらくしてようやく激痛から解放され、僕は頭を抱えた。

 このままだとガスコンロすら使えそうにない。

 それでは、あの子に手作り料理を提供して感謝されるという素晴らしい計画が実行できなくなってしまう。

 善行が、出来なくなってしまう。


 「それは困る!」


 善行が出来なくなるなんて、決してあってはならないことだ。

 僕は認めないぞ。誰が屈するものか!


 ぶら下がって揺れている父親の隣を通り過ぎて、キッチンに向かう。

 踏み台に上ってガスコンロに火をつけると、不完全燃焼で赤い炎が立ち上がった。


 「……!」


 一気に蘇る熱気と激痛。それらが目の前の赤い炎と相まって、全身がガスコンロの炎に包まれ燃え上がるかのような強い臨場感を感じる。

 炎はすぐに青くなったが、激痛の中でそれを見たせいだろうか。

 赤い炎のみならず、青い炎に対してもトラウマを抱くようになってしまった。


 魂に刻まれた感覚があまりにも鮮明すぎて、現実と幻覚との区別がつかない。

 僕は何とか克服しようともがいたが、いくら足掻いても克服できず、挙句の果てには腕に軽い火傷まで負ってしまった。


 ダメだ……克服できそうにない。


 耐えられずつまみを回す。直ちに消える炎。

 それでも、全身にまとわり付いた劫火の熱は消えなくて……。

 冷たい空気を求めて、僕は玄関を出た。


 共用廊下の天井には寿命を迎えた蛍光灯がぶら下がり、弱々しい光を放っていた。

 頼りなく明滅する光の中。僕は絶望に押しつぶされ、力なくその場に座り込んだ。


 2月の夜の空気は6歳の子供の身体には鋭いほど冷たく、薄着の肌に触れる度に抉るような痛みを走らせた。

 気付いたら、いつの間にか身体にまとわりついていた熱気は跡形もなく消え去っていた。

 白い吐息を吐きながら頭を上げて夜空を眺めると、曇り切った空は暗闇に包まれていた。

 再び、寒さが魂に染み込んでくる。


 ……寒い。体も、魂も。


 不思議なことに、涙は出ない。

 その代わりに浮かんだのは、耐え難い孤独感。

 自分を守るように膝を抱えて頭を埋めると、最初の死で解禁された『時の神』に関する情報を思い出す。


 通常、人間は死んでも自分の魂を認識できない。ただ安らかに眠るだけ。

 ごく稀に特殊な場合もあるが、それでも魂の状態で何かを感じることはできない。

 それができるのは、神か、神に準ずるものだけである。


 時の神とは、世界のバランスを保つために存在させられる、神という名の生贄。

 故に、世界が消滅しない限り、時の神は存在し続ける。


 時の神に使命はない。

 強いて言うなら、存在すること自体が使命だと言えるだろう。


 時の神が己の寿命に達すると、世界は崩壊し再構築される。

 その際に、生贄である時の神も再構築される。


 これが、時間が巻き戻る現象の真実。

 崩壊した世界の情報は、時の神の魂にのみ蓄積ちくせきされ、誰の記憶にも残らない。


 だから、時の神は誰からも理解されない。

 誰かを救うことはあっても、誰から救われることはない。


 時の神を救えるのは、時の神自身のみ。

 この世には何十億もの人間がいるというのに、僕はこの広い世界でただ一人なのだ。


 (助けて……)


 分かっている。

 この世の誰であろうと、人間ひとに神を救うことはできない。


 そんなの、分かり切っている。

 でも、それでも――。


 (誰か、助けて……!)


 そう願わずにはいられなかった。


 「えいちゃん……?」


 聞こえてきたのは、永遠に忘れられない、懐かしい声。

 顔を上げると、そこにはかつて僕を何度も救ってくれた女性ひとが立っていた。


 夜風に揺れる長いストレートの黒髪。

 若さと母性を兼ね備えた美しい顔が、驚愕と深い悲しみに染まっている。


 「恋花、さん……?」

 「えいちゃん!!」


 恋花さんは至急に駆け寄り、コートを開けて震える手で僕を抱きしめた。

 長い間忘れていた優しい温もりがじんわりと染み込み、凍り付いた身体と魂を溶かしていく。


 (暖かい……)


 ああ……人の温もりって、こんなにも暖かったんだ。

 永遠に続くかのように感じられた寒さと孤独感が一気に消え去り、彼女の愛情が心を温める。


 「怖かったね。でももう大丈夫。私がいるから。もう誰にもえいちゃんを傷つけさせたりなんてしないから!」


 『だから、安心して』


 ああ、彼女はいつもそうだ。

 前前生でも、前生でも、そして、現生に至ってまで。

 僕の心が折れそうになった時は、いつも僕を救ってくれる。


 この記憶がある限り、僕は歩み続けられるだろう。

 あの暗闇の空間を思い出して魂が凍り付きそうになる時は、今の思い出が僕に温もりを与えてくれるはずだから。


 『今この瞬間を、僕は永遠に忘れない』

 恋花さんの温もりに包まれて、僕は止め処無くすすり泣いた。


 こうして、僕は彼女にまた救われた。

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