第8講義:エル・スール(1983、ビクトル・エリセ、スペイン)

 いま、わたしはアデライダ・ガルシア・モラレス『エル・スール』を読了しました。ビクトル・エリセ『エル・スール(El sur)』は、スペイン語で「南へ」を意味します。まだ四作しか発表していない寡作の映画監督に対して、エリセ夫人であるアデライダはスペイン語と哲学を教える高校教師でありモデルであり俳優であり翻訳業であり演劇舞台の脚本家であり作家であり何でも屋でありましたが、二〇一四年に亡くなりました。

『エル・スール』は南に行く前に映画が終了する作品で、原作は南へ行く場面も書かれています。映画における父親と娘のエストレーリャは、インセスト的な親密性と憧憬をさりげなくエロティックに描写するのですが、原作の小説では、父親はすでに死んでいるので時間的にも空間的にも隔たった感覚があります。それでもわたしはぐんぐん何かに惹かれるように読みました。短い文章ですが、まるで詩のような魔法で畳みかけてくるのです。

 ビクトル・エリセは「南」体験をするエストレーリャの成長記録を撮影しましたが、プロデューサーのエリアス・ケヘレタのアドバイスとして編集した段階で後半部三分の一をカットし、実際には「北」の場面しか撮っていません。それもそのはず、父のいない「南」なんて、エストレーリャにとっては魅力がないに等しいのです。

 読了した感想は、観念的な描写しかないのにもかかわらず、「北」だけでなく「南」の場面も撮影したビクトル・エリセ(とエストレーリャ)の執念ともいえる魅力が、彼女の小説には宿っていたと思います。

 かつて南にいた父は祖父と喧嘩して家を出たと語っていましたが、その喧嘩には一切触れず、グロリア・パリェという女性と、母親よりも過去に濃密な関係にあったことが判明します。グロリアは息子ミゲルと一緒に遠くへ移り住み、ミゲルは父親の息子だろうとエストレーリャは直観します。父親との会話はひじょうに少なく、彼は孤独で静寂な男でした。三階にある彼の部屋は、霊力を集めるため誰も入れず、医者でしたが霊媒師的な役割もしていました(町のために水脈を読む役割をしていました)。その神秘的で霊感的な血が、エストレーリャの身体にどうやら流れているようなのです。それで彼女は父親に惹かれているのだと感じました。英語版ウィキペディアには「強迫観念的な片想い(an obsessive, unrequited love)」とありますが、そりゃ彼女でなくともストーカー的になりますよ絶対。わたしだってそうですもん。わたしの祖父はアッツ島で集団自決しましたが、彼の遺書と日記を一見して、その迷いのない達筆に「わたしと同じ血が流れている!」と思い、いつかアッツ島に行きたいと思ってますもん(実際には行けませんけど)。彼女だけじゃありませんて。


[…]女性によって語り継がれるオーラルヒストリーの典型がここにあり、語り部としての、とりわけホラーストーリーの語り部としての才能がアデライダに受け継がれているのであろうことは、彼女の作風から容易に想像される。この辺りは、ガルシア=マルケスが『百年の孤独』の語り口を、祖母が迷信を現実として平然と語る口ぶりに倣ったというのと似ているかも知れない。アデライダの作品でも、迷信や悪魔の存在や超自然的なことは現実の一部であり、決して荒唐無稽なものとはとらえられていない。そうした要素は、彼女の子ども時代の記憶に今もなお息づいているにちがいない。もっともガルシア=マルケスに比べれば、アデライダの文体はシンプルだ。ただし、同じ表現や好みの単語を繰り返し使うことで、独特な雰囲気を感じさせる。

                          ――「訳者解説」野谷文昭


 アデライダの作品には閉ざされた空間のなかで展開するものが多い。その空間とはしばしば小さな村であり、そこに孤立して建つ家であるが、それは「境界」によって外界から仕切られている。さらにその家自体もまた部屋という下位の閉鎖空間を含んでいて、全体として入れ子のような構造になっているのが特徴だ。しかも部屋にはそれぞれの秘密がある。「エル・スール」では、父親の書斎は魔力の溜まる場所であり、一種の聖域として家族すら立ち入ることを許されない。それは心を閉ざした父親自身のイメージでもある。幼い夢のアドリアナ(映画ではエストレーリャ)は父親に憧れ、自らその分身になることを願う。ある日父親が彼女を書斎に連れて行き、振り子の使い方の秘儀を伝授する。この密室で彼女は念願叶って魔法使いの弟子になるのだ。アドリアナ自身も「私だけの場所」を持っている。それは父親の手を借りて家の裏手に建てた小屋で、彼女にとっては外界から隔離された「安全な場所」なのだ。

 アドリアナは母親よりも父親に惹かれている。北部出身の母親は、内戦で職を失なった元教師であり、信仰心はあり、カトリックの儀式には参加しているものの、おそらく共和派であっただろうし、進歩的な思想を持っていたと思われる。だが、母親の影は薄い。一方父親は、教会というもうひとつの閉鎖空間に普段足を踏み入れない。教会に対する夫婦のねじれた関係の謎は最後まで明かされず、アドリアナの父親への憧れも宙吊りにされたままだ。

                                 (同傾書)


「秘すれば花」という世阿弥の言葉があります。花は隠された美ですから、いっそう見たい、暴きたいという心理もわかるような気がします。だからといって真相が全部解放されれば、な~んだ、つまんないの、と落胆や脱力、幻滅に変わってしまうかもしれません。アドリアナはこの言葉の真理を知ってか知らでか、謎は謎のままにしておく、と最終的に決着がついたのでしょう。


 この小説はスペイン内戦によって分裂した家族の象徴だともいわれています。マジック・リアリズム的描写が豊富で、不思議な小説です。思わず、わたしの日記に断片的な私生活を書き込みたくなってしまいました。まだ書いてませんが、後で書きますね。これを備忘録にしておきます。

 ビクトル・エリセといえば、『ミツバチのささやき(1973)』が代表的作品です。主演のアナ・トレントが可愛かった! いまはもう還暦になりますがね。時が過ぎるのは残酷ですよ。しくしく。

『ミツバチのささやき』はサン・セバスティアン映画祭でグランプリになり、同じくアナ・トレント主役演ずる『カラスの飼育(1976、カルロス・サウラ、スペイン)』ではカンヌ国際映画映画祭で審査員特別グランプリを受賞しました。どちらも「宮崎駿が影響された映画」つって、な~にが影響されたんだよ具体的に言ってみろ。ロリコンは世界中に遍在する証拠ですね、ったく。

 でもわたしは断然『エル・スール』を推します。たとえカンヌ国際映画祭で高評価され、最高賞に当たるパルム・ドールは今村昌平『楢山節考』が受賞したとしても、絶対推しますとも、ええ。絶対に。

『マルメロの陽光(1992)』は劇場で観ましたが、ピンと来なかったのでDVDを買いませんでした。近作の『瞳を閉じて(2023)』はブルーレイかDVD-BOXしか売っていなかったので買いませんでした。そのうち買おうかと思いますが、おそらく、アデライダ亡き後に制作した映画は、観るべきものがありません。そう直観しました(マジック・リアリズムをちょっと借りてみましたけどわかります?)。ビクトル・エリセはもう八〇代ですから、哀しいけれど、優れた作品は制作不可能です。

 あ。やっぱりブルーレイ買おうかな。検索すると「画素数を比べると、DVDは35万画素、ブルーレイは207万画素」、保管期間はどちらも10年以上とあります。かつてDVDの保存期限は30年と聞きましたが、いまはどうなんでしょうか。ま、わたしが死ぬまで保管できれば十分です。でも買おっかな、ブルーレイ(ステマではありませんあしからず)。

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