第2話 夜

 田舎の夜が涼しくなるのはお盆を過ぎた頃からだ。七月下旬となると特に蒸し暑い時期である。

 パソコンの前で頭を抱える私の横の網戸からは小さな羽虫が入り、卓上の照明を目指して飛び回っていた。頭を抱える理由は大きく言えば一つだが、それを構成する要素が多すぎる。大きな理由、それはつまりこの民宿のことである。

「うーん。」

 智也は悩んでいた。

 基本的に妻がパートに行き、私は民宿の料理で使う野菜を育てているがそれが必ず客人の口に入るわけでもないので、農協に登録して販売もさせてもらっている。

「俺も他のことで金稼がないといけないかもな。」

 金土日、祝日、県内でイベントがある日に営業を絞った方が良いのかもしれない。

「おーい。」

 私を呼ぶ声がする。カーテンを開けると声の主が立っていた。声の主、はやっさんはここでの生活を私に教えてくれた人物である。

 私は県内出身だが県外の大学を出てそのまま就職し、民宿をやろうと思い、帰ってきた。帰ってきたとは言ってももともとここまでの山の中に住んでいた経験もなく、田舎の中の都会くらいの生活しか知らなかった。

 はやっさんの手にはいつも通り缶ビールが二本握られている。中肉中背で田舎の陽気なおじさんといった雰囲気である。紺色のポロシャツから見える腕は筋肉質で茶色く陽に焼けて、いかにも畑仕事をする人といった感じだ。

「いやあ、今日もあっついねえ、これ冷蔵庫に入れておいてよ。」

 一本を私に渡すと座ると同時に飲みだした。

「最近どうなの、ここ。」

 どうなのと言われてもと苦笑いをするとはやっさんはソファに座り、一本目のビールに口を付けた。


 小さい頃から物作りが好きで切ったり、くっつけたり。それがずっと続き、大学で建築を学んだが、結果的に不動産会社に就職した。大学の途中で私が好きなのは責任のある何かを作るということではなく、自分で自由に好きな物を作ることなのだと気づいた。なぜ会社を辞めて民宿なのかというと、なんとなく地元の不動産を見ているときに空家バンクで古民家を見つけた。結婚が周りに比べて少し早かった私たちは子供が大学に入学し、一人暮らしを始めたタイミングで私の地元に戻ることにした。嬉しいことに建物の修復があったとしてもそれを楽しめるという性格上の利点もあるし、不動産には詳しいため、購入までは順調だった。しかし、運営や田舎での生活となるとそう上手くはいかない。

 いきなり民宿を経営することは無理と分かっていたので、まずは田舎暮らしを始めることにした。民宿のことも踏まえ、自家栽培や仕入れなども意識して素人ながら計画を立てた。

 引っ越しをした日、周辺の家に挨拶をして周った。田舎への移住のイメージは都会から来る人間に対して冷たいというイメージがあったが、ここにはそんなことはなかった。特にはやっさんは気楽に話しかけてくれた。私が県内出身ということもあり、話が盛り上がるのは容易だった。民宿を始めること、仕入れや栽培も自分でやるということ。これらを彼に話すと自分も一緒にやりたいと言ってくれた。

 引っ越しから一週間が経ち、家の中も生活範囲内は整理され、落ち着いてきた。

 玄関のチャイムが鳴り、外に出るとはやっさんが立っていた。最初に挨拶した日の後、二回話をする機会があり、はやっさんの持っている畑の一角を使わせてもらえることになった。事前に栽培方法などは調べていたが、そんなのは基本的なことで実際にやってみなければ何が正しいのかは分からない。

 畑まで向かう軽トラの中でイギリスのロックバンドの歌が流れていた。バンド名は確かクラッシュ。私も洋楽をよく聴くからわかるが、今ではもう知っている人は少ないのかもしれない。はやっさんの荒い運転でクラッシュしなければいいなと思ったがその発言は心の中に留めておいた。

 私たちを乗せた軽トラはクラッシュする事なく無事に畑に着いた。荷台から荷物を降ろしながらはやっさんはこれからやることの説明をした。

 まずは植える前の準備からしっかりやったほうが今後の野菜にとっても、私にとっても良いと言うので、私たちはまっさらな状態の畑に降りた。

 はやっさんが勧めたのは、トマト、キャベツ、にんじんだった。妻はにんじん苦手なんだよなと思ったが、この三種類を聞いて気合が入った。この人、私のためにちゃんと考えてくれている。

 トマトは支柱が必要だし、キャベツは土の上にできる。にんじんは土の中だ。それぞれをしっかり育てることで他の種類の野菜にも対応できるだろう。

 まずは畑の土の準備を教えてもらった。もともとはやっさんの畑なのでほとんど新しくやることはなかったが、石灰を撒いて耕した。苗を植える一週間ほど前には肥料を撒くらしい。そのあとは支柱を立てるなど色々する事がある。そういった畑の中で変化が起こるイベントの時には毎回来てくれた。イベントは思っていたよりも多かった。それまでは野菜がイベントを開催すると思っていた。例えば花が咲く、実ができる。しかし、人間が開催する必要のあるイベントの方が圧倒的に多い。トマトは支柱に巻きつくように誘引したり、芽かきと言って不要な芽を取ったりしなければいけないし、にんじんは三回間引きした。

 最後のイベントはキャベツの収穫だった。はやっさんがいくつか説明しながら収穫し、そのあとは私の後ろに立つ。いつも通りの収穫風景である。

「俺、バンドやってたんだよ。」

 いつも通りの声だが想像もしてなかった内容が後ろから聞こえた。

「え、そうだったんですか?」

「おめ、今好きなことやるために農作業してるだろ?俺はバンドもっとやりてがったんだども、農家継がなきゃねくてよ。でも今思うと売れてるバンドマンなんてなれねがっだろうし、安定とは言えねども農家として稼げてよかったとは思ってる。」

 私は青春デンデケデケデケという映画を思い出した。ラジオから流れてきたベンチャーズのイントロのフレーズに衝撃を受けた高校生の主人公が同級生とロックバンドを結成する青春映画である。学生だからこそ他のことを差し置いてでも好きなものに夢中になれる。あの映画でもバンドメンバーは受験を区切りに、活動は少なくなっていった。はやっさんにもそういう時代があったのかもしれない。

 本当はバンドを続けたかったんだろうな。だから、私が今やりたいことのためにやるべきことをやっているのが羨ましいのだろう。


「おめ、ものづくり好きなんだば、野菜ばっかでねぐなんか別のもん作って売ったらどうだ?」

 ソファでビールを飲みながらなぜか少しうんざりした様子ではやっさんが言った。他のものって何があるんですかとしか答えられないでいるとはやっさんは続けた。

「おめがさっきカタカタやってたそれで小説書いてるべ?」

 確かに趣味で小説のような、半分日記のようなものは書いているが売ろうとして売れるものではないし、そんなレベルのものを書ける自信など全くない。学生の頃、友人に見せて褒められ、その気になって書いていた時期はある。しかし、ただの友人の感想でしかない評価が他で通用する評価であるはずもなく、就職してからは趣味の範囲内でしかない。正直なところ、あんたももうバンドやってないだろと思った。

「どうせ売りもせず書いてるだけなら何かに応募したらどうだ。」

 そう言うとはやっさんは二本目のビールを自分で冷蔵庫に取りに行った。戻ってきたはやっさんは私からパソコンを受け取ると小説を読み始めた。長編など書いた事もなく、短編ばかりなので飲みながら二作ほど読んだようだ。

「こういう誰が誰だか分からないの書くの好きなんだな。」

 はやっさんの言う誰が誰だか分からないのとはいわゆる叙述トリックのことである。人物像や時系列から読者に先入観を与えることでいわゆるどんでん返しの展開を作ることができる。綾辻行人の十角館の殺人や歌野晶午の葉桜の季節に君を想うということなどが有名である。

「さっちゃんも絵描いたりするんだでな?二人ともなんかやればいのにな。俺の息子も音楽作ってコンペに出してたよ。小説とか絵にもあんでねんだが?」

 さっちゃんとは私の妻のことである。人前では名前で呼んでいるのだがうっかりはやっさんの前で呼んで以降、はやっさんもそう呼ぶようになった。

 私からすればお金がもらえるのかも分からない小説を書くのはただの趣味でしかないだろうと思った。人に見せるレベルなら当然執筆時間はこれまでの趣味の範囲外になるだろう。妻が働いている時間にそんなことはできない。

「夜、畑さ行ったことあるか?」

 はやっさんに誘われ、外に出た。畑に向かうと虫の声がより一層大きくなった。カエルの声も聞こえる。畑の横に水路がある。きっとそこにいるのだろう。

「ほれ、あそこ見てみれ。」

 指さした先には水路があった。そしてその中でいくつもの小さな光が点滅している。私が借りている畑とは反対側だったのでこれまで気がつかなかった。

蛍、いたんだ。

 夜だからこそ、光りを放つ蛍を見る事ができる。ゆっくり見てけと告げるとはやっさんは先に帰った。

 やってみたいことがあると思った。それ以上にやるべき事があると思った。そしてやり方はいくらでもあるとも思った。

暗いから見えるもの。人は安定した明るい光に身を委ねるが、本当はもっと見つめるべき光があるのかもしれない。さっき机の上で卓上の照明を目指して飛んでいた虫を思い出した。街灯を見上げるとたくさんの虫が飛び交っている。ほとんどの人が届く光だけを見ているのだと思う。

 帰ったら民宿と自家栽培をしながら少しでも稼げる方法を考えよう。そして、小説を書いてみよう。私は月に手を伸ばした。そして自分に言い聞かせた。

「Reach for the moon, even if we can’t」

 あるロックバンドのボーカルの言葉だ。バンド名は確かクラッシュ。

 たとえ、届かなくても。

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