8-1
八、おかえりさよなら
「いいから早く」
「でも、」
「何も変わりはしないから。きみを束縛するものはなにもないから」
「でも、だって。ずっとこのままだったから」
「少しだけ。ほんの少しだけ、そこに行くだけだから……」
どこかいかがわしさを感じさせる誘い文句は意識して発せられたものではない。とにかく、恭个の気持ちは騒いでいた。急がなくては! そんな漠とした性急さをどこかに感じていた。
「陽の光が眩しいから気を付けて」
その手を引く。小さな掌を握りしめて、内心の怯えを隠す。おそらく、伊折以上に恭个は緊張していたに違いない。
だから、繊細な感触を確かめるようにして、複雑な感情をシンプルに解きほぐす。
透き通る肌はシルクのようで気持ちが良かった。生まれて一度も陽に焼かれたことのない肌だ。手指の細やかな造形を愛撫するように、震えるその手で伊折の手を握っていた。
――まったく情けない。
いつも辛辣な声もこの時ばかりは心細い印象に感じられた。
それはそうだろう。安曇野伊折はこの日初めて屋敷の外。つまり、俗に塗れた外界に姿を出そうとしていたのだから。
これ以上に身の毛がよだつことはそうそう起こり得ない。
斜陽に陰った有閑マダムという印象の強かった加澄子だが、この場において彼女の織りなす立ち居振る舞いは紛れもなく女当主に相応しいものだった。彼女が身に纏う藤色の結城紬には朝顔が織られ、目にぼやける絣の模様は繊細だが儚い。真白の帯に赤い帯締め、帯留めのブローチは蝶を象ったものだろうか。蒔絵の簪(かんざし)で髪を束ね、そこに上品さをも兼ね備える。正装するには訳がある。今日、彼女の下にもたらされる知らせは事の顛末であり、堂々巡りの果てに辿り着いた実に下らない知らせ。とはいえ、こちらから改まって「調査の報告を」と報せられればそれ相応の出で立ちは演出する。そういった意識とも様式とも呼べる在り方を心得ている人間だからこそ女当主などというモダンチックな位が務まるものだと恭个は感心した。
つまるところ、聖性に漸近した娘、繭子にあってこの親あり、と納得せざるを得ない美が圧倒したわけだが、そんなことでは怯まない。それはそれで可愛げに欠けるともいえるが、生憎、可愛らしさとは迂遠な恭个にそこまでの機微は期待できない。
「ともあれ、私はある直観を得て、この場に再び参じました。この結果が、加澄子さんにとってどのようなものになるかは解りません。いっそ清々しく忘却なさっては? と私なんかは思うわけですが、それでは納得がいかない。もとい、収まりがつかない」
恭个の白々しい饒舌を軽い手ぶりでいなして加澄子はうなずいた。
それを了解と取って恭个は二人の人間を邸宅の離れへ、と身振りで示した。加澄子と近衛。繭子の祖母である清美子は依然として姿が見えない。狩野老人は茫然自失のままこの邸宅を去った。使用人の給仕たちには端から関係のない事件だった。開かずの書斎には一臣の首吊り幽霊の姿が。彼には少なからず関係のある事件だったかもしれない。そう。魅了する渡会の娘たち、その呪わしい力に翻弄された男の一人として。
「ところで、」
ばつの悪そうな笑みを浮かべた恭个を怪訝に見返す近衛と加澄子。
使用人には関係のない事件、と断った所で少し訂正がある。
「空蝉モカという人物にまつわる違和感。……その行為にどれほどの意味があったのか、果たして、私が思っているような意味などなかったのか。仮に彼女が入れ替わったまるで別の人間だったら? と妙な考えが浮かんできました」
やつれ果てて実のところ顔かたちがはっきりしていたわけではない空蝉モカ。彼女は誰だったのか? 今となっては知るすべがない。なぜなら、空蝉モカの行方も判然としない。自傷行為の心神喪失状態、と見ていたからその後にまで気が回らなかった(即刻入院と高をくくっていた)。病院で治療を受けた空蝉モカ(それは本人か?)は何食わぬ顔で病院を後にしていた。怪我自体は幸い命に別条のないもので、破れた鼓膜は自然に治癒する。心神喪失状態の気は運び込まれた時点で全く感じられることはなく、一時的な錯乱状態と捉えられたようだ。なにより当時の病院内はひどく混乱していた。その時点で町の中では似たような自傷行為と錯乱状態に陥ったとされる患者で溢れかえっていた。そんな激務の中にあって医師が一人ひとりの患者の状態を正しく把握しておくことは困難だと言える。
もともと、口伝てで近衛に確認を取った恭个に落ち度がある。その点は認めよう。しかし、果たして。この邸宅で働いていた人間は空蝉モカ本人であったのだろうか。
「そんなことに意味はないように思えます。しかし、だとすれば些か臼君聖児という幽霊はこの渡会家の神憑りという性質に詳しすぎるきらいがある」
ではなにか? 空蝉モカとは文字通りの傀儡、空蝉で、それは実は臼君聖児本人だったのではないか? 恭个はこの問いを魅力的な命題の一つと捉えている。
「少なくとも彼女が私の事務所にやってきたことで妄想の域を出なかったイメージを強固なものにしてしまった、という効果は得られています」
セイレーンの漠然とした想像がこの時はっきりと出現した瞬間。そういった固定観念を補強する意味で言うなら、空蝉モカの役割は十分に果たされたのではないか。
「つまり、思考を誘導された。そこには目には見えない導線がきっちり引かれていて、私はそこに意味を見出そうと躍起になってしまった」
臼君聖児にしてみれば、狙い通りの展開だったのかもしれない。
「ではやはり、臼君聖児が繭子様を誘拐されたということですか?」
近衛の問いに対して多少の勘違いがあることを指摘して、恭个は厳かに首を振る。
「……それは違います」
歌は聴こえますか? 恭个は加澄子の揺れる瞳の中を覗き込む。
「臼君聖児だなんて、ただの雅号でしょう。だからそいつの名前が本当はなんなのか。これは直接本人を捕まえて問いたださなければ皆目見当もつきません」
かつて、伊折と二人で下らない推理をした。空蝉モカが辞することが決まっていた勤めの最終週。そこに持ち込まれたトランクケースは人一人が入るには十分な大きさがあったようだった。
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