7-3
最後の風景へ。桜の森どこまでも。濃淡の複雑な絵画。緻密にして大胆な配色。風。空気の味。地面に足が付く、感覚。平衡感覚の正常。夢か現。そのどちらでもなく、そのどちらでもある可能性……。
空、桜、手のひら、後頭部、その旋毛(つむじ)、遠近感、木肌の質感、土。私という個人。私という他者。
主観と客観的俯瞰風景が瞬時に切り替わる目まぐるしさは取り留めない。
無駄な思考を持ち込むな。イメージは壊れやすい。形成された現象それのみを見て、そこにないものを受け入れるな。純化した思考のみがこの世界で唯一存在し続けられる条件。
ここは地獄。恭个が到達した観念的に形作られた、あるはずのない場所。塗り重ねて、塗り重ねて、無意識の共通点を総合した想像界。
臼君聖児の夢の世界。
万人にとっての共通認識。
ここは桜。桜の地獄。天女の堕ちた地獄。天使地獄。
最も多く植生されているソメイヨシノ。八重咲きのヤエザクラ。カンザン、フゲンゾウ、ヤエベニシダ。雄しべの長いシナミザクラ。春の彼岸エドヒガン。人為的により育てやすく観賞用に作り出された植物たち。シダレザクラ。ヤエベニシダ、ベニシダレ。ヒカンザクラはカンパニュラの風鈴のような花。カンザクラ。チョウジザクラ。ミヤマチョウザクラ、オクチョウジザクラ。厳かな美しさ、マメザクラ、タカネザクラ、フユザクラ。白い花を咲かせるミヤマザクラ。ヤマザクラ。オオヤマザクラ。桃色が霞む白さ、カスミザクラ、オオシマザクラ。
一口に桜といってもその品種は様々。どこまでも続く果ての見えない桜の森では色に統一性はない。桃色、といっても限りなく白のものもあれば緋色のような鮮やかさまで幅が広い。
そして、現世で存在の許されなかった架空の桜群。
それは極端に背が低く、かといえば、見上げるほどの大樹の化け桜。花弁の形に統一性の欠片もない、薔薇か牡丹を想像させる奇形。白木蓮の厚ぼったい様。右端から左端にかけて白から赤に、見ようによっては黄色く、あるいは緑、紫に。角度によって変色するアルビノ。大口を開けたラフレシアのような桜。梢に栄える花は肥大した性器の厭らしさを。鈴蘭の楚々とした桜の小ささ。馬鹿馬鹿しいことに一輪の桜が咲き乱れる桜畑。粉雪のように舞い散る花びらが手の中に落ちて、溶ける。雫くは甘露。味がする。それは毒酒、あるいは神酒か。酔うことはない。耽るも覚めるも総てを内包した桜の森の中である。
つまり、万物を桜と表象したありうべからざる地獄。否、それはいまはっきりと現前している現実。想像力を具象化した夢うつつ。見えていなくても見えるし、見ていても見えない。あまりの出鱈目に曖昧な象徴。誰もが一度は夢に見る幻想。
風もないのにはらはらと舞い散る花びらが地獄の色を決めている。陽炎めいた揺らぎを起こして遠近感を狂わせる。落花、落花も、尽きることのない桜の花びら。地を覆った花びらは土を隠し桜色の道が延々続いている。流れる小川に棚引く花筏。身も軽くなり、妖精の戯れのごとく飛び跳ねられよう……。
目に鮮やかな色彩の濁流だった――それは違う。
そこには万病めいた見るに堪えない色も抱える。それは幹にだって色はある。それを見ようとしていなかった。見えなかった。その時、知覚した。された。だから、樹皮は単純な茶色などではない。濃厚な珈琲の黒さに近い。胆汁の滲んだ汚らわしさ。もっと目を凝らせば樹皮は暗緑色で苔に寄生されている。それは人間の皮膚と同じ。成長して不要になった乾いた皮膚と木肌のガサガサとした質感は同質のもので、新陳代謝を繰り返す生き物だった。もしくは、病んだ疥癬、白癬である。思えばその身にもかゆみが奔る。全身を舐める激烈な痒みだ。
身を掻き毟る。肌に爪が引いた赤が走る。あれ? と思えば痒みは消えて、熱を帯びる。
あまりにも目まぐるしい。くるくる、と流れるイメージの奔流は苛烈で抗いがたい。
この世界に厳密な色はなかった。そして、これらの色彩だけが全て。それ以外に色はない。血の池はない、剣山のような峻厳な山などない、亡者の声など木霊するはずもなかった。しかし、これは確かに、間違いようもなく地獄だった。
どこかで道を踏み違えた病の原風景。スキッツォイドマン(精神を病んだもの)の見る白日夢。町の総意にして膨らんだ妄想を具現化した無意識。
これが地獄か? 鼻で笑う。花が笑う。嘲りの哄笑。歓喜の絶唱。音は膨張し破裂を伴って花びらを散らす。五枚の花弁のフラクタル。弾けて笑う。ひらひら、と。
平衡感覚に異常はない。五体は満足に駆動する。出鱈目な景色に辟易するどころか愉しさすら覚え始めている。心地がいい、悪くない。そのどこかで疑問にも感じる。はたして、この場に留まることは正解であるのかを……。
樹冠に覆われた赤黒い空間を無心で歩んだ。時々、目端に忍び込んでくる白骨。あれは人骨か。獣(しし)の骨片か。解らない。解ろうとはしない。そこに空などない。見上げれば、赤と桃と白と緋のモザイクが容赦なく目を犯す。体は軽い。というよりは、肉体から切り離された精神のみでふとした瞬間には消えてなくなってしまいそうだった。思考を拒絶する。考えずにあるがままを受け入れる。
無とも有とも判然としない状態で、恭个はそろりと歩みを進めた。行きつく先は決まっていた。恭个にはすでに天使のその姿態がはっきりと見えていた。
木と木の隙間を縫って、無垢な天使の駆け抜けるのを感じることができた。左に。右に。後ろを。前を。近いようで遠い。肌に伝わる存在感は地獄の中では圧倒的だった。真白の幻想がそこかしこを疾駆する。そこにいると思った瞬間、位相を変化させる。常に認識と少しずれたそこにいる。見る影もなくなった襤褸を纏った天使が歌う。微かな響きが軌跡となって恭个を導いていた。赴くまま進んだ。心地よさが誘った。不快感はない。恐れる気持ちはない。惨くない、幻想的な美を作る桜の木だけがどこまでも続いた。天使の歌は心を洗う。世俗に汚れ荒んだ汚辱をそそぐ。無垢な魂に還元される。
主観的輪郭――それは天使の主観的輪郭だ。三か所に配置された〝角〟を描いた線を見ると人間の脳は見えるはずのない三角形を見る、その目の錯覚。これは櫻見町の桜の輪郭と臼君聖児の描いたモチーフを輪郭に持つ、天使。その形。見えるはずのない、存在しないはずの天使の輪郭。それが天使の主観的輪郭だ。
本質的にこの天使の存在は不明だ。しかし、
幻想の源泉。魔性の聖性。力の根源。神秘の器であり、そこから縷縷と流れる想念は地上を侵す。人知の及ばない体系。言い方は無限。言い換えることに意味はない。総てがそれ。一と帰す。
だから、解ってしまった。ここに恭个の望むものはなに一つとして存在しなかった。はっきりとした破滅が見えた。純化された魂の行きつく先が理解できた。
ここは間違いなく、救われない地獄なのだと。
真白に染まる、犯されるというのは気持ちいい。だが、それは餌食になることを半ば受け入れていることになる。こんななにもない地獄で天使がなぜ生き永らえられた?
天使は天使だが、地の底に堕ちたそれはすでに天使ではない。
悪夢以外のなにものでもなかった。
天使の声が反転する。耳にころころと心地のいい響きが圧力となって恭个の鼓膜を潰す。半狂乱の金切り声だった。天使はすぐそこ。恭个の頬を生臭い舌先で舐め上げていた。そう感じた。
すべては感覚のみで語られた。
恭个の首筋を舐め上げる天使……。蛞蝓の這ったような居心地の悪さを残して、消える。そこに残る粘液は毒。皮膚を蝕む寄生虫の住処だ。瞬時に皮膚が爛れて腐り落ちる。拭えない悍ましさ。そう感じた。
手を伸べれば、べつに首に蛞蝓の張った後を感じられない。ひゅっ、と強い風を感じたと思ったら、眼球を舐め上げられた。天使の姿は見えなかった。……と感じただけで、ぼろきれに包まれた天使が、そこに存在することを認識する。
金切り声がせせら笑ったような気がした。遊びなのだ。天使にとって対象を捕食することは遊びと変わらない。どこまでいっても天使は無垢で、幼い……。
しかし、いつまでもこんなところで、ましてや狂ってしまった天使と戯れている暇はない。恭个は強く現実を意識した。アールヌーボー調の古めかしい我が家を。外出を拒み続ける美しい伊折を。その中でも、より強く感じたのはいつか食べたあのパスタのどこまでも食欲を煽る大蒜の香りだった。
笑った。いかにも現実的だと。極めて現実性を表現しきったそれを想って、恭个は笑った。声を出して笑ったが、この地獄という現象の中では音を発することは叶わない。
だから帰ろうか。
次の瞬間、背後から迫る天使の幻想に掴みかかった。強く抵抗する天使を組み伏して、尚も恭个は笑った。桜の木々がそれにつられてさざめいた気がした。そう、感じたのだ。
天使は恭个の腕に噛みついた。鋭く発達した犬歯が肉に喰い込む。痛みはなかった。迸る血潮に歓喜した天使が血を吸う。中身が丸ごと引き抜かれるような喪失感を伴って痛みが快感に転化した。こうやって天使は地獄に迷い込んだ人間の魂を喰らっていたことを悟った。確かに苦痛はない。快楽に身を委ねさせて、落ちながらにして、天に昇るような心地で肉を貪りつくされるなら、これほどの至福は存在しないのではないだろうか。
人間はどこかで神々しい存在に喰らわれることを望んでいる。直截的にも、抽象的にも。
でも、恭个がその至福を享受することはなかった。
恭个はもちろん、天使にも帰るべき場所がある。
だからそこに還そう。
天使が腕の肉を喰いちぎる。みちみち、と筋肉の繊維がほつれて切れる。それが美味いのか極上の笑みで天使は応えた。ああ、間違いなく美しい。その相貌にはいまでも、神々しく無垢な様子が顕れている。どれだけ醜く地に堕ちようと、本質は変わり得ないことを感じ取った。
その美に取り込まれるわけにはいかない。
恭个の瞳が赤く燃え上がった。天使の姿を捉え離さない。目を逸らさない。惨たらしく肉を喰らうこの存在すべてを受け入れる。両腕をきつく結んで天使の身体を拘束する。絶対に離さないように。恭个の身体が発光していく。木々がざわめく。天使もその肌で危機を察知しているようだ。純粋な飢えに従って喰らおうとした対象に、明らかな忌避感を発現させていた。
恭个を核に熱が膨張していく。天使に頭突きを喰らわせた瞬間、そこが大きく爆ぜた。
燃え上がる。恭个の発火現象だ。大量の炎が天使を覆い尽くす。天使を固定した腕にさらに力を籠める。燃え尽きるまでは離さない。完全に燃え尽きて灰になるまでは。
天使の激しい抵抗。猛り狂った絶叫が桜の花びらを慄かせた。そして、天使の声の中に微かにだが安穏とした安らぎを垣間見た恭个は薄く目を閉じた。そうして聴く分にはなんとも美麗な旋律ではないか。
天使のけたたましい声に地獄の森が震える。桜が一斉に飛び散って臙脂色の雨を降らせた。炎が地獄に広がっていく。天使と恭个の肉体の境界を曖昧にして二人を炎が呑み込んでいく。温く、この上ない安心感に包まれていく。
火炎でとろけた肉と肉がまぐわい、恭个と天使が一つになる。
いつぶりだろうか……。恭个は優しい眠気に誘われて、気が付く前に眠りに落ちていった。天使の身体は温かかった。
やがて、その身は焼き尽くされる。肌触りの良い羽衣のような軽やかさと共に、存在そのものが、ふわりと浮き上がって空を揺蕩うように。
恭个の首を締め上げていた縄が燃える。桜の木が爆ぜる。縦方向に木の幹が一直線に割れる。火柱が渦を巻いて桜の木に纏わり、焼いていった。地面に突っ伏した恭个は激しくせき込み、でもまだ目は覚めない。意識が混濁してはっきりとした認識のないまま、現実に戻ってきたことだけをぼんやりと実感する。起き上がれるようになるまではもう少し時間が掛かりそうだった。
桜の花が咲き乱れるには早い時期である。だからそれは決して花などではなかった。しかし、見るものを幻惑し魅せるだけの美しさがそこにあった。激しく燃え上がる炎が可憐に生き生きとした生命力を帯び、煌びやかな花々を咲かせたのだ。
存外、満開の桜とは目に真白く映るもので嫋やかな羽衣のような質感を持ち、それが禍々しい赤を纏っていないことを恭个が知ることはなかった。
幽霊の少女は燃え上がる桜の下で、くるくる、と可愛らしく踊りに耽っていた。
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