7-2


「今のは見なかったことにしてあげるから、」

 声の方向に、恭个はぼんやりとした眼を向ける。私室から顔をのぞかせた伊折の憮然としたたたずまいを認めて、少しの焦りを覚えた。

「いつからそこに?」

「あなたがナンパな本性を必死に隠そうとしていた処」

「あっは! なにを言ってるのかよく解らないね」

 ともすると、気まずい空気はほどよい緊張感を産み恭个の舌先を痺れさせる。

「彼女はこっちの道にはそぐわない、と正直に思っただけだよ」

 近衛に対する優しさとはき違えた愚考。本来はこの家に入れる事すら厭われる。この場合は仕方がなかった。まさか、幻影の跋扈する異界めいた夜の町に置き去りにするわけにもいかないだろう。

「正しい判断よ。私に断らなかったこと以外は」

「……相変わらず手厳しい」

 喉でも乾いたのだろうか? 伊折は近衛の居なくなったタイミングを見ていたようだけど、と考えながら別にいつどのタイミングで彼女が現れた処で恭个は一向に構わないことを知っている。

 それは、現象に対する矛盾を排する脳の機能なのかは判然としない。伊折を交えた恭个の行動を他者が認識することはない。この間、果たして他者たる人物の内時間ではどのような処理が行われているのか。はっきりとしない事実は多い。ともあれ、それゆえに恭个が他人の前で伊折とどんなに戯れようと気にする必要はない。どのみち相手の認知能力では安曇野伊折というイレギュラーを知覚することはないのだから。

 片や、恭个はそれを不気味でもあり不安の種として捉えている節がある。彼女はこう考える、その時の他者の認知の中に伊折はともかく『赫崎恭个』という私は存在しない。他者のそこ(頭の中)に映る(居る)私は、対象たる第三者が作り出した『赫崎恭个』であり、私が存在する現実とは別のところにある。まるで、他者に憑りつく幽霊のようではないか、と。

「そうそう、どのみち伊折は幽霊なのだから。それは、私を含めて……。きみの許可を頂かなかったところで伊折の存在性を揺るがす問題にはならないと思うんだけど」

「……そういうのデリカシーに欠けるって言うの。解る?」

 然り然り。恭个は手元の酒瓶を傾けてハーブの香る柔らかい液体をグラスに注ぐ。広がる薬酒の芳香はそこに存在しながら姿を見せることはない。

「ところで、どうせなら一杯ぐらい付き合わない? 喉が渇いたでしょ?」

 一瞬、険し気に眉を寄せ、束の間、遠くを見据えた伊折の口からは意外な言葉が返ってきた。

「今夜は遠慮させてもらうわ。私そのお酒嫌いなのよ」

「それは――」

 そうなのかもしれない。言葉は出なかった。口を閉ざしたのは無粋と感じたから。よく酒について調べている、という純粋な感動を呼び起こしたから。

 恭个はアブサンの持つ意味を思い出していた。

 伊折にとっては口にすることも憚られる類の意味を有した記号。

「それじゃあ、おやすみ」

「ええ、おやすみなさい」

 音も無く現れて、音も無く立ち去った。人工灯が浮かび上がらせる、間延びした影を特に感慨を抱くことなく、しばらく見つめていた。夜明けまではだいぶ長い時間が、恭个の眼前には拡がっていた。

 眠りを誘う子守歌は、今夜に限って聴こえては来ない。


 排水管を流れ落ちたアブサンの毒々しい緑色がシンクで乱反射し凄惨に散っている。まだ半分ほど中身を残していたボトルを惜しげもなく逆さにして液体の流れ落ちていく様を恭个は凝視していた。緑と銀とのあいだに陰る僅かな隙間に伊折の厳しさを兼ね備えた目の光を見た気がした。振り向いたけど、そこには何ものも存在しない。

 手を滑らせて空になった瓶を粉々にした後は粛々と箒と塵取りを持って片付けを行う。木目の僅かな隙間にも破片を残さないよう慎重に掃きとる様は、どこまでも神経質に映る。ガラスの砕け散る音ですら目を覚ましてこない二人を気がかりにすら感じていた。

 不注意の結果、胸に得た圧迫感を宥めつつ、しん、と静まり返ったリビングに在って寂しさは増長するばかり。あるいは、この場に一人の恭个を案ずる顔をのぞかせる二人のどちらかを無意識に求めていたのかもしれない。

 知らず知らず恭个の顔から色が失せていく。

 時刻は零時を過ぎ、古ぼけた柱時計の短針は一と二の間で揺れる。

 先ほどから降り始めた雨はしっとりとした空気を運び込み、肌の表面によく絡みつく。規則正しさの中に時々混ざり込む調子っぱずれなリズムに意識を向けると滴の塊が重みを増して薄い鼓膜を揺さ振り始める。錆びついて穴の開いた雨樋をそのままに、いつか修理をしなくてはならないことを思い出し、孤独がより強さを増す。

 なぜ?

 原因は明白。否、曖昧だからこそ自意識が際立つ。

 己自身よりそれ以外の認識に注意が向くほど、赫崎恭个という存在は孤立していく。

 音が脳に突き刺さる。環境音の一切が。異常に過敏になった感覚は、心地いい音を錆びついた鋸のような切れ味の悪さ――鋭いナイフのような切れ味ならどれほどよかったか――で聴覚を雑にあしらい、視覚触覚味覚臭覚にまで作用するようになっていた。

 瞼の裏の暗闇が膨張と収縮を繰り返し眼球がひっくり返る。

 触れている空気の質感を解し、それが非常に繊細なことで、ざらざら、とし気持ち悪い。

 分泌される唾液が甘く苦く、味の微細な粒子が舌の上を転がり喉を落下していく。

 肌から立ち込める匂い、焦燥と憤り、不安と不快感、それぞれに色が付き臭覚を物理的に塞ぎ込む。壁紙から漂う黴臭さは身体を蝕む淀んだ青。木材の乾いた緑。空気を漂う埃の灰。暖房から吐き出される生臭い風の橙……。

 酒に浸ったことが徒となった。到底眠りになど付けそうになかった。セイレーンの麗らかな歌声すら程遠い。

 眠りで全身汗まみれになることを予感していた、恭个はあらかじめ下着姿でいた。発色の強い黄色い布のシルエットは暗がりでもそれと視認できそうだった。滑らかな曲線を描く腹筋が僅かに痙攣していた。汗はかいていない。だから寒さに震えることもなかった。

 恭个は屈みこんで腿の裏に指を這わせた。そこから尻、背面、腕までの輪郭をしっかり指先に感じながら自分がここに存在することを確かめた。漏れ出そうになるため息を呑み込んで、これ以上辛気臭くなることを嫌った。

 ミネラルウォーターのボトルを手元に控え、長椅子に寝転がった恭个の腹の上には灰皿が据えられていた。高身長ゆえに足が大幅に肘掛けの上から飛び出している。無意識に宙ぶらりんになった両足を弄びながら、緩慢な動作で煙草に火をつけ吹かし始めた。立ち上る煙の渦が上昇と下降を繰り返し、やがて眼に見えなくなる。叢雲のような煙はどこへ消えてしまうのか? においを辿ればそこに存在したことを感じることができるだろう。

 相変わらず、雨の音が繊細になりすぎた耳に煩わしかった。恭个にとって神経が異常なほど過敏になることは特に珍しいことでもない。月に数度は経験することだった。とはいえ、今のような煩雑な問題を抱えている場合などは気が滅入る。伊折の部屋に逃げ込もうとしたが、彼女の部屋の扉には恭个を拒絶するように鍵がかけられていた。これにはいささかショックを受けたが、連日の手癖の悪さを顧みるに当然の結果だったかもしれない。

 朝まではまだまだ長い。恭个は、ふと、明日の朝が無事に訪れるかどうか心配になってきた。このまま、逆立った神経に様々と降りかかる室内の環境に耐えられるだろうか、と弱気になっていた。伊折の肌が恋しかった。

 無様な姿で煙草を吸うことしかできない自身を脳裏に思い描きながら、恭个は瞼を閉じた。せめてその程度の抵抗は示しておきたかった。

 煙草一箱を呑んで、あとは自慰行為にでも耽っていれば夜は明けるだろう。いつしか恭个の頬には退廃的な笑みが浮かび上がっていた。長椅子に忍ばせていた白骨の断片を、いつの間にか強く握りしめていることに気が付いたのだ。

 朝は存外早くやってきた。夜明け前から弱まり始めた雨もすでに上がっているようだった。早朝下着姿というのはさすがに寒さを感じる。早々に着替えを済ませて珈琲でも淹れることにしたのか、恭个は一度自室に引き返していった。

 布団を丸めて顔を覆い隠した近衛の姿を見て、私の匂いに包まれている赤子、と連想する。頬が緩む感覚を嫌って馬鹿な夢想を捨てた。受け入れる事と拒絶することを一切選ばなかった恭个に許させる感想など存在しない。傲慢であることはいい。しかし、愚鈍な振りをするのは個人的に承服しかねた。

 その後、タイトなパンツスーツ姿という普段の装いに身を包んだ恭个の足取りは揺るぎなかった。ネクタイを締める手にも油断はない。一杯の珈琲を愉しんだ恭个は外に出る。舌の上に残るモカ豆特有の酸味を引きずって。過剰な神経はいつしか鳴りを潜めていた。肺の中に沈殿していた不浄な空気は清涼な雨上がりの空気と入れ替わり、頭の中の煩雑さも洗い流していく。

 空が割れていた。雲海の斑な空隙を貫く形で光が地上に注がれていた。

 幾本もの放射状の薄明かり。それは、薄明光線と呼ばれる自然現象であり、『天使の梯子』とも呼ばれる壮麗な光景の一種だった。

 日の出を迎えたばかりの低い陽光が、雨上がりの澄み切った空気の中を直進し、層雲の切れ間を突き抜け、地上に神々しい光の梯子を描き出していた。

 その光の梯子から舞い降りるセイレーンの奇怪な形姿が低い空を旋回していた。群れ為す妖鳥の歌声は高らかに……、すでに空は彼女らの美貌を受け入れた。円環を思わせる螺旋の渦を直視することは叶わない。あまりに、白く、目を覆いたくなるような光となってそこに君臨していたからだ。

 天と地を分かつ境界が曖昧になり、幻想上の生物をこの櫻見町の空に呼び出したわけだ。昨晩の朧げで醜い怪鳥としての形は失われ一つ一つが確かに玲瓏なる美を表象している。恭个の目にはその存在を認識することができたように思える。いつか見た気がする夢を。そこで出会った奇怪な半人半獣の羽ばたきの群れ。媚態めいたなよやかさに魅了され、それを天使の一種であることと確信したあの夢の中を。

 光の梯子が形而上の世界を架け橋した。後はそれに従ってより深く地の奥底へ至ればいい。

 セイレーンの蟠っている一本の薄明の柱は図らずも、先日の首吊り現場を照射し示す。

 繋がっているのだ。

 これが重なる偶然の中から恣意的に選び取った選択だとして、それが間違いであるのか。この自問に答えはない。何度も何度も何度も思考して、決して答えの出なかった結末。それでも恭个は必然と決する。幾千幾万通りの選択肢が存在するなかでたった一つ選びだされた結果こそ現実。主観によって顕れた〝それ〟こそが、現実であると。これは根本的に恭个の存在性の問題でもあり、存在証明そのもの。彼女自身が信じなくてはならない決して揺らぐことのない本物だった。

 恭个はその目に燦然と輝く指標を捉え、衝き動かされるように行動した。

 普段立ち入ることのない車庫から毛羽立った麻縄(これもまた前居住者の置き土産だ)を見繕い、木の上に縄を結ぶのに多少手古摺り、そういえば木になど初めて登ったな、と唖然とした気分を味わい、樹上から飛び降り、麻縄の毛羽を火であぶり取り、先端をもやい結びする。首を括る輪っかが出来上がる。そして、恭个はあの黄みがかった白骨の指を口の中に含んだ。ざらついた舌触り。紙のような味。案外、嫌悪感は少なかった。

 はたして、そのソメイヨシノは青年が化身した姿だったか。でかでかと穴を空けた洞のそこを覗けば地獄から帰った青年の顔のような心のような、取り留めのないイメージを内包した形が見えてくるかもしれない。それを確かめる時間はあまりない。

 振り返って見渡せば臼君聖児の作、『鳥籠』に見た風景そのものが現前している。では、やはり臼君聖児はこの木の下であの場違いな出で立ちの屋敷を見、伊折を想像するような何かしらの行動を起こした可能性を考慮することができるだろうか。それも、今確かめる時間はない。

 恭个はガラス張りになった事務所正面に伊折の姿を見つけた。彼女の透徹しきった眼光は恭个がこれから仕出かすはずの見立てを予見しているようだった。

 伊折が黙って見守るのなら、恭个は自身の行いを愚かと自虐に陥るべきではない。なるべくしてなった結果だと、諦めるべきだった。

 次の瞬間、桜の木に結んだ縄で恭个は首を括った。

 それはただ純粋に苦しいばかりで意味のない行為だった。恭个の歯が喰いしばられ泡を吹く。口中の人差し指は粉々にかみ砕かれた。崩れた骨の粉末が喉を覆うがむせ返る余裕はない。こんなことでは到底死に切れるわけがなかった。

 陽光が温かい。涙目で見上げた空は暗い。光の柱にとぐろを巻き羽ばたくセイレーンが。そして、目の前に少女の幽霊が。

 ああ、また君なのか?

 その洞のようにぽっかりと空いた眼窩はどこまでも落下し続ける闇で、恭个の苦しみ藻掻く無様を覗き込んでいた。

 また、幽霊を見たな。恭个の心は何処までも空虚な洞の底に沈む。どうして、私の前にいつも現れるのだろうか? あるいは、この少女自身が答えを内包しているのではないか? そこに、閃光めいたニューロンの発火を幻視した。脳みそが弾けて飛び散る鮮やかな薔薇色を見た。

 泡を吹く恭个は苦しみの中で慄き、やがて気絶した。

 セイレーンの凄絶な歌声が空を覆い尽くそうとしていた。

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