7-1


 七、天使地獄


 燃え盛る奥座敷(煙はプライベートルームと言い張った)はどうなったか? そこは母胎を模した小室だった。そこで行われる秘めたる儀式の深層は極めてグロテスクな様相を呈していた。座敷で繰り広げられていた男女の営みは大にして小を兼ねる。様々に暗示された入れ子構造と内外を反転させる空間として機能する〝emeth/エメス〟は『ゴーレム』のイメージを刷り込み、それは無垢な胎児と解釈される。

 胎児の中に母胎が存在する矛盾は『煙の上の水』の奏する音楽を纏うことでより混沌とした態を如実に言い表わしていた。秩序は混沌を錯覚した瞬間に降りてくる。脆弱な人間の精神あるいは悟性では確認できない神秘の観測を極めて限定的に提示したのがサバト、このワルプルギスの夜だったように思われる。

 精子と見做せる雌雄が獣心をむき出しに、聖なる存在の依り代を表象する人形/繭子は卵子と見立て、受精、受精卵の着床――つまり、この世に天女たる聖性を降臨させて、聖女を櫻見町のこの地に定着させる行為だったかと、恭个は己の直観を信じて推理を展開する。

 このイミテーションをどう見るか!

 多種多様の桜の木々に迷彩された櫻見町を俯瞰したとき現れる臼君聖児という輪郭をどう視るべきか? それはまるで目を錯覚させる幽霊の所業ではないか……。

 すべて、塵と灰に帰し、ライブハウス〝emeth/エメス〟もろ共消し炭になっていれば……。

 恭个の人体発火が対象を焼いた事実は彼女自身初めての経験だった。この力の使い道を垣間見せた曙光のようにも捉えられるが、今思いだしてみれば、あの気持ちの悪い手応えを再現することは厭われた。

 握りしめたグラスを満たす翡翠の液体。少々、体温で温められた飲み物はニガヨモギのリキュール。恭个はアブサンに軽くライムを絞って、ちろちろ、と舐めるように鼻を抜けていく眩瞑感を味わっていた。アブサンスプーンとかそれを上品に飾り立てる装飾品を扱っていなかったので、傍から見ればけったいな緑色の液体に頭をくらくらさせている異常な雰囲気を見せていた。実質、魅せられていた……。あるいは、アブサンにまつわる種々の逸話に酔っていたのだと思う。どこかしら蠱惑的なニガヨモギの輪郭をなぞって、それを摘み取る乙女のはにかむ姿が恋しくて……この、心地のいい浮遊感は恭个をリラックスさせる。

 煙る地下から脱出した恭个と近衛の前には広大な闇が拡がっていた。

 暗く塗り固められた桜の木々の隙間を埋める闇に見つめられてるような気持ちの悪さが二人を襲った。空には照り映える月の姿が……。

 彼女らを見つめるのは膨らみ始めたつぶらな蕾たちだったのか。総毛立つような忌々しい妄想に憑りつかれる前に帰路を急いだほうがいいと判断し、はたと足を止めた。

 妄想は暗がりに目が慣れてくると瞬時に吹き飛んだからだった。

 視界を埋め尽くす怪鳥の大群。畝を作り出すほどの数は本質的に闇そのもののように、じっ、と恭个と近衛を捉えて離さないでいた。

 震えないはずがない。

 さらに、空に映える純真の白銀は眩いばかりの光輝を発散する妖鳥の媚態だった。繭子であり伊折であり、又そのいずれでもない妖艶なる空の女王。艶めかしく自身を掻き抱く双翼の羽毛に埋まる女体のいかがわしい様が、目に毒だった。闇すら反射する鱗が腹部の周縁で、ぎらぎら、と黒い光を産み出していた。笑みすら凄絶に。この世のどこにも存在しない妖魔が、二人の人間を観察していた。

 人通りは消えていた。雑然とした混乱を呼び起こしていた町の喧騒が嘘のような静けさの中に恭个たちは取り残されていた。込み上げてくる恐ろしさに際限はなく、許容量を超えた超常に対して無力とは残された最後の防御術だった。

 恭个と近衛は示し合わせたように無言を貫き、いつ降りかかってくるかも解らない脅威を頭上に戴きながら、休まるはずのない心を慰め慰め辛くも赫崎相談事務所まで戻ってくることができた。時間にしたら大したことはない移動だったはず。その感覚も総て闇に呑み込まれるよりも先に、常に空の中心を統べるセイレーンを想像した魔に睨まれ続けることで消失していった。実際それは恐ろしさとは正反対の美の象徴として君臨していたように思える。それでも、絶対性に触れる事で得られる感触はいかんして禍々しさと幻覚する。

 ねじ曲がった平衡感覚だけを頼りに進む平坦な道は、荒地の行軍と錯覚させる困難に塗り替わり、息苦しい疲弊感に生きた心地がまるでなかった。いつ、あの怪物たちにはらわたを喰い荒らされてもおかしくない状況。その脅威を意識させ、わざと泳がせて遊んでいたのか。

 反芻するに、まるっきり夢のようで信じ難く、人工的な灯りの現実感が魔の大群をより鮮明に対比する。いま、自室に身をもたげることで生を賦活するに至り、実は、あまりにつまらない悪夢を見ていたに過ぎなかったのではと疑問に思えてくる始末だった。

 ぐい、と杯を干したところで声を掛けられた。苦みに顔をしかめながら上げた視線の先に近衛はバスローブ姿で立っていた。瑞々しい黒髪、露出する肩からは熱い湯気が立ち込めていた。

「……湯舟は落ち着きましたか?」

 顔色、というか、血色は熱い湯でよくなったが、顔に兆した暗い影が陰影を強くしたように感じる。もともと造形の整った顔かたち故に、短い間に一気に十ほども老けたような印象だ。

「赫崎様はようリラックスされているように見えますね」

 どことなく皮肉な返しに恭个は泣きそうな顔で頷いた。無理もないのだ。本当に、短い間に忌まわしい現実を見過ぎたのだから。

「私は、慣れていますから」

 あまり口にはしたくない言葉だ。特に、怪異な現象に晒された人間に対しては。慣れている? 少しばかり人より非現実的な事柄に関わっているに過ぎない私が? しかし、他に何と言えばいいのか? 関係性を拗らせる厄介な感覚を前兆する。好ましいと感じている近衛に対してだから、最終的に決別することでしか平穏に戻れないと意識させるような言葉を選んではいけなかった。

「物心ついた時には両親は居らず私は施設で育ちました」

 近衛は独白する。吐き出しておくことでしこりのような固執を産み出さないための、この瞬間にはじき出された最良の答え。まだはっきりと定まっていない指針を形作るための基礎の基礎。結果へと続く道を進む為の一歩。

 そんな感傷的なものでもないかもしれないが、まとまらない感情を整理するにはやはり必要な手順なのだと思う。恭个は静かに耳を傾ける。グラスに注がれるアブサンの水音が、ざらついた感情に潤いを与える。

「施設を出るとすぐに渡会の家で給仕として雇っていただけることになりました」

 そこにはすでに幼い繭子がいた。近衛にはそれが実の妹のような存在に感じられ、渡会の家で働き始めたばかりの心細い気持ちなどは繭子と接することで乗り越えることができたという。

「いずれはこの町を出る、という選択肢もありました。あるいは、その機会はいくつかあり、そのいずれもの時も私は躊躇ったように感じています」

 繭子がいたから。辛かった時も、楽しかった(とはいえ、仕事である、という意識は常に付きまといました)時も、近しい存在として繭子がいたから、数ある選択肢の中から何かを選び取ろうということが、なかった。

「それもまた渡会の娘たちに受け継がれる血のなせる魅力だったのかもしれません」

「オカルトを認めますか……、私はてっきりそうは言っても違うと反発するように思っていました」

 はっ、と乾いた笑い声が漏れ聞こえる。近衛から。もしかしたら、その後ろで戸を閉ざす伊折のものだったかもしれない。

「今だって、繭子様にあのような力が宿っているとはにわかには信じがたいことです。しかし、まあ……本当に、可愛らしい方なのですよ」

 それは本来は、という意味のものだったか。もっと昔の忌まわしい事件を引き起こす前は、というような。その点をはっきり訊くことは簡単だ。今夜の近衛はどのような問いにも答えただろう。それがまごころのものではなかったとしても。

 アブサンは癖の強い酒だ。常から嗜むには些かひねくれもののやり口に思える。極めてまれな人間が好んで、嗜みだ、と嘯くような印象の酒。どれほど嗜好していても、それを誰も認めようとはしない胡散臭さのようなものがつき纏う。

 恭个はそこで踏みとどまった。時と場所が、その時彼女らの口を割らせる材料になることは情動的に理解できる。その情動というものが、厄介な性質とも思える。恭个の持つ感触と近衛の持つ感触が乖離していく過程が視えずとも手に取るように解るから。

 近衛の歩み寄りは恭个に沿うものではない。

 関係性は虚構染みたもの。信頼関係で結ばれてすらいない。主従関係。仕事を与え、与えられる。よくよく考えてみれば面白くもない淡白な日常の反復。結果さえ示せばすべてが終わる間柄。

 繭子と近衛の関係性も似たようなものだろう。考え方の違い、とはまた違ったどうしようもない隔たり。現状では軋轢が生じようとも融和はしない。

「よく解らなくなってしまったのだと思います。もちろん、繭子様のことは今も慕っております。ええ、恐らく。もともと屈託なく奔放に生きてきた方なのです。私にはないものを持っていて憧れていたのかもしれもせん」

「解らないのであれば、そこに立ち止まって悩めばいい。進みながら悩んでもいい。いっそのこと眩暈に任せて忘れてしまってもいい。屈託を抱くなら正しさを探せばいい。仮に答えが見つからないなら逃げてしまってもいい。私は、難しいことはあまり考えないようにしています。それを無駄だとは思いません。しかし、私には難しいことは苦手なようです。無理をすることもあまり向いていない。その場その場の最善を選択するよう心掛けてはいます。それでうまくいく場合もあれば、失敗することもある。つまるところ、時は勝手に流れていく。身勝手に振る舞っているつもりが、只々振り回されているだけかもしれない。答えなんてありません。だから、自分でそれを規定しなくてはいけない。自由だなんだと言っておきながら、人間は不自由な生き物です。在るべき現実を受け止めて、その場しのぎの戯言を弄してなんとかかんとかやってのけているように見えるだけですよ」

 それが恭个の受け答え。正しさを規定するのは自分だけ。現実を生きているのは己自身。それ以上でもそれ以下でもないそれが、世界。現実を生きているという事。

「あなたは残酷な方だ。優しく近づきながらそれ以上踏み込んでこない」

 言われてしまえば呆気ない。それも道理。その実その通りなわけで、恭个が究極他人になびくことはないから。性分といってしまえばそれまでだが、それだけでは説明のつかない何かが胸の奥に存在する。なんとも形容しがたい歪な何か。そんな風に喩えてみても、適切な言葉を与えるには至らない。よく解らないのは恭个とて同じ。それでも現実は嘘のように瞬く間に過ぎていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る