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 プライベートルームとはよくいったもので、これはよくよく観察するまでもなくかなりの秘匿性を孕んだ性質のどこかを模した作り様だと思われる。

 そこを実によく知っているであろう近衛には直観的に(実際に立ち入ったことはなくとも)怖気を感じたのか二の足が踏めないでいる。躊躇いめいた頬の引き攣りを認めた恭个はそんな様子の近衛を退かせて、ともすれば身の丈でかばうような形で前に進み出た。

 反抗的なさまを印象させるライブハウスにあっては、およそ不釣り合いの絢爛さ。言い方を替えれば、より俗悪。低俗的な様相すら彷彿とさせる想像力は金縁の襖――淡い山々の上を棚引く白雲は麗峰を象り、上空彼方から飛翔する鷹の姿が雄々しい――をはめ込んだ一種異界への入り口だった。静謐だが、淫蕩と堕落の気配が漂う境目。欄間の透かし彫りこそ緻密で厳然とした印象を受けるが、恭个にはそれがなにを彫り出そうとしたものなのか皆目見当がつかなかった。防音の効果を最大限活用するコンクリートを乱暴に塗り固めただけの形のライブハウスの中に突如として現れたそれを正しく認識できないようだった。水に油は交わらないように、相反する。目の中に闇を見ることが叶わないように、文脈上破綻しない誤謬を瞬時には理解できない気持ち悪さを、この四枚立ての襖が語る。

 ヒノキ材が微かに薫るその異空間はどこかもの悲しい、懐古的な寂しさに準じるかび臭さに知らず目には涙が溜まっていった。

 能舞台とでも言えばいいのか。そこで演出される造形物は母なる存在の神域たる子宮を内包させた入れ子構造をとって完成された、やはり神秘の構造物だったのだと考えるしかない。恭个にとって伝統芸能が醸し出す幽玄といった感覚を喚起することはむずかしいとはいえ(そういった機微には疎い)、何かしかの畏れを得るには十分、それは効果を表わしていた。

 しかし、恭个は不機嫌に喉に絡みつく痰を咳払いする。

 いちいち鼻について胸糞の悪い気分は、ついに芸術家という人種の怪態(けたい)さに呆れ果てたものによる。

 こんな茶番はうんざりする。恭个は迷いなく勢いに任せて彼我を隔てる襖を開いた。

 限界まで腕を広げて大きく両開きする。身体は委縮することなく、まだ思い通りに動いてくれる。室内からは瞬時に、むわり、と紫紺に染まる空気が顔にまつわりついてきた。麝香(じゃこう)の生成される胎内、とでも喩えればこそ聞こえはいいが、その実、卑俗な悪夢を織りなす現実が分泌した原液から臭い立つ淫獣の放つ体臭に他ならなかった。

 そこは床の間を持つ奥座敷。本来、誰の目にも触れてはいけない秘め事を仄めかす聖域。神聖にして魔性の巣窟。十畳ほどはある部屋の中で布団も敷かずにまぐわい乱れる男女。その際限のなさは互いの境界を侵食し合い、まるで蛞蝓の交尾のようではないか。ぐるぐる、と蜷局(とぐろ)を巻いて絡み合う親密な交接に雌雄の際限は溶けて消える。ここに明確な定義の女も男も存在しない。雌雄同体として誰彼構わず、穴があれば潜り込む、穴がなければ絡みつく、ねっとりと、互いの体液の滑らかさに没入して、ひしめく陰陽の秘所は曝け出されて互いを貪り喰らう。

 少しでも羨ましさを感じられたのならば、まだしも、まともだったのかもしれない。原初的な営みに隠された神秘性を意識することなく、純粋で一切の雑念から解放されたセックスを夢見るならば、これは正しい。卑猥さの極みにグロテスクな五感の働きを直観するのは当たり前の生理なのだ。だが、それだからこそ良い。ありとあらゆるまぐわいの技が魅せる快感だけに溺れるその脳の力の前に人間であることの無力感の一切を払拭するからだ。そこに性差や人格による格差は存在しない。等しく、人間否生物の根源に達する実感が精神を満たしていくはずだ。

 しかしながら、それは錯覚だ。恭个の目には己自身が思っていたほど逸脱した快楽というものに魅力を感じられなかった。これは、哀れみか? 蔑みか? どれも答えにはたどり着かない。間違いないのは、この瞬間において恭个が伊折を意識することがなかったという事実。つまるところは、これらの行為自体に何ら意味を見出せなかっただけのことかもしれない。思考の停止。馬鹿馬鹿しく愛おしさすら忘却させるただ不快なだけの悪臭に過ぎなかったという事実に収斂しただけのこと。

 ともあれ、

 これも表象として、内外の反転を視ることを可能にしていた。女の中に男が。男の中に女が。破廉恥に喘ぐ雌雄に人間らしい分別は皆無だ。極限まで高められた興奮の中に見据える明鏡たる凪ぎの一瞬。その一点は縷縷とした神秘の最奥へと導いていく。

 それを願望する影だけが踊る。

 朱塗りの行灯のみ煌々とする一室。床の間の掛け軸を幽かに浮かび上がらせ、そこには松の木(ここに来て、なぜ桜ではないのか?)に舞い降りる天女の姿が、極めて濃淡の薄い筆で描かれている。靄か霞のように。そこから顔形もやがては消えてなくなる束の間を抜き取った妄想か迷夢か。

 気付くとそこから天女は居なくなっていた。あるいは、初めから天女なんてものは存在していなかったのかもしれない。

 影は落ちていく。人型をした歪ではあるが、美しい娘の身体の上に。

 その奥座敷に臼君聖児は居たのか。

 否定。少なくとも恭个が突入した時点のそこには存在しなかった。

 ただし、改めて一人一人の顔を見分けていた訳ではないので、確然と臼君聖児は居なかったとは言い切れない。

 その程度の曖昧さを残して、しかし次に起こった出来事は余りにも想定外で、恭个自身ですらコントロールすることができなかった。

「繭子様!」

 近衛は叫んだ。

 無理もない。この狂気の交わりの只中には、四肢の欠損した純白の娘がいたから。

 淫らに、神秘性を内包し発散する、濁液に沈む犇とした肉の交わりの中心に、神々しくも、悲愴に、刹那に翳りを見せる、そんな一糸まとわぬ絹の羽衣を思わせる、裸体の少女の姿が。

 在った。

 どこからどう見ても、それは繭子であり伊折であり、そのいずれでもない美しい相貌を持つ神聖が笑む。

「違う! これは繭子じゃない!」

 光が爆ぜた。眩い閃光が座敷内の雄雌の網膜を焼き切る。それまでとは異なる絶叫が室内を圧迫し耳を聾した。勃然と発生した幻の炎は邪な心と対であり、瞬く時の中において、聖なる力と発揮する。

 赫崎恭个の人体発火現象がこの狂乱に終止符を打った。

 轟轟、と燃え盛る四肢欠損の神聖。その火の中で、なお笑みする。卑しさの欠片も介在しない純真なる笑み。灼熱の域に達するはずの火に、苦痛することもなく。その肉体を灰にする熱に歓びを得てすらいる。

「よく見てください。これは繭子じゃないんです。よくできた、イミテーションにしてはあまりに外道な『人形』にすぎない」

 神憑りの肉体と祀り上げられたそれは人形だった。内に秘めた神聖など存在するはずなく、豪華に装飾された空間が、それにたかる人間の下劣な欲望が、盲目な信仰を産み出し虚構した。

 だから、火に呑み込まれて苦痛などあるはずなく、声を発することはない。眼窩にはめ込まれた翡翠のガラス玉が散り散りに逃げまどう素っ裸の男と女を見る。感情などない。虚無。結果、それは何をも見据えることはない。

 宴の終わりは呆気ない。たった一つの強い怒りの感情で簡単に壊れて消えた。そこにあったはずのものはことごとく煙になった。

 少しは虚構に呑み込まれかけていた心を取り戻すことはできたのか。恭个にその実感はない。依然変わることのない漠とした憂鬱が彼女の思惑の片隅でしこりとして居座り続けた。とはいえ、それは正常な証で、常から開放的な気分に浸れない己自身の至らなさに因る。

 近衛静はどうだったであろう。過去の因縁に憑りつかれていたというなら、その再現に立ち会ったことで膨らみ続けた想念をただの妄想の部類に落とし込むことに成功したかもしれない。つまり、トラウマを克服する方法は対症療法的な行動療法に因って為された。必然、それは根本的な解決には繋がらない。どう足掻いたところで『煙に上の水』の催した饗宴は虚構だったから。その場しのぎの効果でしかない可能性の方が大きい。

 文字通り『煙の上の水』の姿は逃げ水を追う飢えた肉体そのものを体験させたようだった。炎に煙る座敷から上がってきた二人はその後、どこをどう探しても煙の姿を認めることはなかった。すでにこの町からも消え、快楽に飢えた亡者どもの巣食う別のステージを探してまつろわぬ放浪が始まっているのかもしれない。

 結局、渡会繭子の姿は『真理』の中にもなかった。では一体どこに? それはもう恭个にもよく解らなくなっていた。

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