6-5


「こんな快感知ってしまったらきっと人間やめてしまうだろうね。尊厳無視して脳内麻薬を放出されているわけだし、人格も変わるんじゃないだろうか。この為なら懇願して侍り崇拝するに決まっている。近衛さん、この再現を見てどう思う?」

 悶絶する人の形を失い始めている肉体は、惨めにも陸地に打ち上げられた魚類さながら。呼吸をする行為も許されず脊髄の反射による痙攣とともに絶頂を強要される。

 不思議なのはただ二人残された追究者が健全な精神を保てている現実。壇上では歯噛みこそしないが、やや不満げに口をへの字に曲げて妖艶に踊る煙。

「それは……」近衛にはいっている意味がある程度推測できているようだった。

「まあ、それでも私はセックスが好きだけどね」

 だから、それは当たり前の生理反応なのだ。気にする必要などない。感じるままに受け入れることが、煙の音楽の愉しみ方。おそらく、今日のパフォーマンスは彼女の持つ全技術と感性の完成形なのかもしれない。

 過去を再現するための条件を十全に満たしている。臼君聖児の目論見はこの時点で成就している。ああ、と恭个は既視感に襲われる。これもまた一人の芸術家の内面をデザインしているのだ。あの画展の時と同じように。『煙の上の水』その人の内側の世界。表裏は逆転して、見たくもない醜悪な精神世界を目前にして感応するように。

 その女はまるで蜘蛛のようなものだ。これは共感などではなく搾取。一方的に自らの快楽を優先させた捕食行為だった。

 目には見えない電場。眉唾だが、蜘蛛の目にはこの電場が捉えられているのではないかと考えられている。屋外屋内を問わず寂れた四隅を見ればいい。そこで機械的に巣を張る蜘蛛に得体の知れない不安感を覚えたことはないだろうか。なぜ、教えられもせずに己の体器官の正しい使い方が解り、ああも精緻で美しい銀糸の幾何学模様を描き出せるのか。恭个に答えるすべはなくとも、彼女はこう云い張る「奴らにしか見えない現実がそこにある」と。この考え方は、恭个の信頼する主観的現実に近い感覚ではないだろうか。

 そこに視えている何かしらを形に残すという行為。それが蜘蛛には理になり、必然であるわけなのだから、彼らは人間なんかよりもより率直にこの世界の在り様を捉えられているかもしれない。

「あなたにあの……あれは見えていますか?」

 近衛に訊く。

「あれ? というのは、あの女の音楽が人を狂わせてるこの悪夢のことを言ってるのですか?」

「……」

 煙の背後といわず、そこかしこを乱れ飛ぶ卑しい怪鳥(けちょう)。純白の羽毛に覆われたふくよかな姿態でなまめく淫猥なる生物。妖鳥。もはや、それが繭子のものであるのか伊折のものであるのか、はたまた、地獄から噴出してきた亡者であるかの差異は不問。

 それがはっきりと視えているのは恭个ぐらいだろうか。

 否、煙の仕草。手懐けているのが解る。触れている。あの温かな膨らみを持つ翼を撫ぜる手の動き。視ている。膨らみ孕んだ胎の臍の最奥を。願っている。産み出される最高の快楽を。地獄を形にする夢を。

 錯乱した脳を模したこの町の夢を。

 確かに煙は見ている。恭个の瞳を貫く獣の視線だ。蕩けて発情した雌雄定かでない淫靡な双眸で。指を差す。上を。下を。何かを示唆する動き。恭个にそれを促している。目撃させようとしている。何を? 解りきったことを嗤うだなんて馬鹿馬鹿しい。

 ところで、煙はむっつりと不満げな声で言う。

「どうしてあんたら平然としてられるのさ?」

 恭个はさもありなんと、小馬鹿に首を傾げて見せた。

「それは助かったからさ。お前が奇術師ではなくて魔術師だったから」

 恭个は、くにくに、と耳を揉んで見せる。その意味。そこに施した防御術を示すために。

「そうか、耳に蜜蝋を塗ってるんだ」

 踊る煙は嫋(たお)やかに。悔しさなど微塵も感じさせない優雅さを以って応(いら)える。煙はそれなら仕方ないと負けを認めるようだった。

「あっ⁉ さっきのおまじないというのは……」

 近衛は先ほど恭个に揉まれた耳に触れて顔を赤らめていた。

「そう、セイレーンの美声を封じるために。念のため。実際、それなりに効果はあったようだよ」

 それはオデュッセウスが魔女キルケ―の忠告による。セイレーンの魔声に憑りつかれない方法として耳に蜜蝋を詰めろ、と。セイレーンによる船の沈没を避けるため、船員はその忠告に従って蜜蝋で耳を塞いだ。実際その甲斐あって難を逃れられたようだったが、当のオデュッセウスは世にも稀なる絶世の美歌を聴きたいが為に、わざわざマストに縛り付けられる選択を取ったとか……。

 英雄然としたもの特有の享楽、といえば聞こえはいいが、この行動の少し馬鹿らしい処に恭个は突っ込まざるを得なかった。伊折に言わせても「忠告なのだから素直に従え」とのこと。だからまあ、恭个にとっての魔女である伊折の言に今回ばかりは素直に従った。

「表象された魔性に対抗するのに、伝説からヒントを得ることはまあまあ妥当な処じゃなくて?」

 伊折はそう言って、溶かした蜜蝋を恭个に渡した。流石に、耳を完全に塞いでしまっては支障をきたす現代だから、耳全体に馴染ませるよう塗るに留めてはいた。危ういところはあった。しかし、辺りで悶え続ける衆人を見れば結果は明らかだろう。

「そっかそっかぁー、あんたみたいないい女をぶっ壊すのが、あたしは大好きだったんだけど。残念だったね」

 煙は素直に負けを認めるものの、大した落胆もないようだった。やり慣れている証左。別にこの場に拘る必要はないことを心得ている。その潔さは美徳だった。

「べつに私はいい女じゃないよ」

「いんにゃ~、あんたはいい女だ。そんないい女にはご褒美を差し上げないと失礼だぁ」

 ワルプルギスの乱痴気騒ぎを潜り抜けたその先に招待しよう、と煙は全身を艶めかしくしならせたわわに案内する。下層。更に下の深層への招待。

 フロイトやユングを引き合いに出すわけでもないが、深層にはより深淵な心の作用が隠されている。そこが神秘の源として。プライベートルームとは、この夜においてだけは臼君聖児の形作る町の夢。ある一つの象徴的事実の再現を孕んだ母体なのではないだろうか。

 そこまで直観して、ならば、と恭个の脚も勇み気味に震えを帯びる。事の成就を目の当たりにして、その観測がもたらす原因と結果は。

 恭个をどの次元へと誘うのか。

「あんたはここに転がる屍たちと好きなだけ遊んでいればいいさ」

「そうだね。ここから先のことなんて、ぶっちゃけてあたしには関係のないことだからね」

 そう言うと煙は自在に操る音の世界に帰っていった。けたたましい嬌声の中に佇む煙は、言うまでもなく朧な霞靄と煙っていく。

 だから、〝emeth/エメス〟でありそれは死を包括し、ゴーレムの中にあって母体を持つことで内外を反転させる。それら総てに意味があった。

 刷り込みも十分に果たされていたはずだ。播種し伝播とする。櫻見町の中で繰り返される一定のモチーフはこの時のために用意されていたことだった。

 推理とはずいぶんと嘯いた憶測がここに導き出された。主観的に。極めて限定的に、赫崎恭个の脳内と臼君聖児の脳内が重ね合わせの状態になった。

「繭子は囮だ。臼君聖児の目的は彼女の神憑りという性質に付け込んだ霊媒としての役割だ。まるで人形扱いだ。やつは、この儀式によってより上位の神性にアクセスする通路を作りたかったんだ」

 ゆえに、繭子の顔をした伊折のように顕れた先の幻覚を、別の存在として認識することにしたのだ。

 それが解れば、恭个は次の一手を臼君聖児に先んじて打つことができる。いささか、眉唾のそれこそオカルトの極致にあるような胡散臭い方法だが、不可能ではないだろう。これは直観だ。私の感覚と奴の感覚、どちらが先んじるかの。

 この町には無意識に感染するミームがあるのだろう。このサバトと揶揄した儀式は櫻見町の中で何度となく繰り返されてきたことの反復なのだ。

 それは臼君聖児とて不可避の、意識にも昇らない潜在的な感覚によって〝思いついた〟と勘違いさせるインスピレーションに偽装した厄介な神秘だ。

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