8-2
「私は誘拐直後、渡会邸に召喚された際、見聞きした情報から、ひとつ下らない(実に下らない)推理をしました」
邸宅正門の固い門戸と繭子の自由を奪う寝室の鍵。この二つの……いってしまえば、密室を突破するためにはどうしても人一人ほどの容量のトランクケースという道具が魅力的に見えてしまう。
「すると、恭个さんはそのトランクケースに繭子を入れて外に持ち去ったと言いたい?」
「そんなまるで実の娘を物のように言わないでくださいよ。悲しくなるじゃないですか」
恭个の加澄子を見る目はどこまでも醒めきっている。実のところ、こうしたプロセスを一々踏まずとも、たった一つ確かな物的証拠を突き付けてやれば報告は終了する。それとともに、この胡乱なやり取りでしか繋がることのなかった関係にも終わりが見えてくる。
しかし、まあ……。それだけでは些か味気ないというもの。
もう少しだけ、渡会加澄子および近衛静といった人間たちと戯れてみたい気持ちが尾を引く。
「結論だけ言えば、そんな面倒なことをしてまで繭子さんを誘拐するメリットはあるのか? 空蝉モカにとって何かしらの利益が生じるのか? 考えてみれば、まあ、どのみち解らない事ですが。少なくとも、脅迫状のように、金銭を目的にした事実は存在しない。というより、加澄子さんは言っていたじゃないですか。空蝉モカが繭子さんの誘拐が可能だった時刻、まだその寝室の中に繭子さんは、居た、と」
状況証拠でしかない。はっきりとした〝これ〟といえるような物的証拠が存在しない以上、当時邸宅内に居た人間の証言の真偽はまずは考えないようにする。恭个の判断は以上のように設定されていた。
「そもそも、この二重の結界は余りに強力です。破る方法を幾つか考えようにも、そこに辿り着く必然性が良く見えてこない。いえ、勿論ミステリなんかでは常套句でしょうが。意外な事実から突破口が開かれることはままあり得ることでしょう……。しかし、これはミステリじゃない。敢えて強引な推論を立てるならば、何者かが侵入して誘拐を引き起こす、そのメリット(デメリット)とは……先の町の大混乱の引き金の一つ程度にしか見えない」
だから、誘拐ではない。これは逃避。崖を望むバルコニーから羽ばたいていった一羽の世にも美しすぎる妖鳥の残影。その名残惜しいほどの、美の消失。消えてなくなった事のみが際立つ幻想。
もぬけの殻となった繭子の寝室からはミステリに対するオカルトじみた影が淀んでいた。
「馬鹿馬鹿しい。繭子は誘拐されたのです。それ以外に、あの部屋から出る事なんて在り得ない!」
何をそんなにも恐れるのだろうか? 加澄子の金切り声はどうあっても繭子という存在が何者かによって誘拐されていなくてはならない、という強迫観念に近い焦りのようなものが垣間見える。
「まあ、そう仰るのはごもっともです。では、」
この屋敷は実に広い。故にそれ相応の使用人が常時務めを果たしている。ひとつ気になることがある。加澄子にはその使用人の顔を総て把握しているのだろうか。答えによっては少しばかりおもしろい結果も見えてくるが。
果たして――「……」加澄子の答えは沈黙。そう言った管理は近衛に任せているから。と、暗に仄めかす。
当主ともあろう人間が情けない! なんて哂ったりはしない。実際雇い主なんてそんなものである。ましてや、日常に倦んでいる性質の加澄子にそれを望むのは無理からぬことか。それら一切合切この家を支えているのは実質、近衛静ただ一人であるとは皮肉なことで、数日の間共にした女性に対する恭个の感想だった。まだまだ年若い女性にとってあまりに重責過ぎる、重い役職。それを総じて「あまり自由な時間がなかった」と近衛に言わせたのだろうか。
「この邸宅は広い――」
言うまでもないこと。現に痴呆的な行動が目立つ清美子などいくら探しても見つからない始末。
例えば、加澄子が廊下を進み一つの部屋に入る。ノブが捻られ戸が開く。入室。戸が閉まる。時を同じくして、侵入者Aが別の部屋から出る。内側のノブが捻られ戸が開く。退室。戸が閉まる。加澄子が部屋から廊下へ出る場合は以上の動作が逆に行われる。
そのような偶然が、まるで必然のように繰り返されれば……加澄子と侵入者Aは同じ邸宅に居ながら一つの例外(各々同じ部屋を選択する)を除いて一切遭遇しない、顔を合わせることはない。
在り得ないことだと言い切れるだろうか?
現に、これまでに幾つもの心霊、神聖、神秘、堕地獄を経験してきているではないか。在り得ないとは言わせない。
想像し、起こり得ることは必ず起こり得る。邸宅を同じにして機械的な行動のシミュレーションだから可能とするが、現実はより流動的で刹那的。だから、そんな偶然を認めることは直観的に反する。もっともらしい。論理的に考えても、偶然は繰り返すほどその確率を低くしていく。あるか無しか紙一重の確率に委ねてまで、犯人となる人間はこの邸宅に潜伏する選択を取るだろうか。
懐疑的な表情を崩さない加澄子にこれを納得させるのは、恭个が嘯く例え話を実現させる事より困難に思われた。
「思考実験としては、とても魅力的なお話ですね。しかし、あまりにファンタジーが過ぎるのではないですか?」
「いえいえ、私はいたって真面目に語っています。どんな可能性でもいい。あなたを納得させるためなら幾らだって騙ってみせます」
ふざけたお人――加澄子はそう口にはするけど、恭个の戯言を愉しんでいるようだった。煙管を取り出し手の中で弄びながら、加澄子は続きを促す。
あるいは、束の間でも繭子の存在性が薄まることに安堵しているのかもしれなかった。
「侵入者はトランクケース、つまるところ空蝉モカが持参したそれの中に身を潜めこの邸宅内に侵入を果たしたと考える」
「週の大半をこの邸宅で過ごさなくてはいけない使用人たちに混ざって身を潜めていたというの? 先の詭弁を弄するまでもなく誰かしらに見咎められるのではなくて?」
「確かに凡そ五日間の間を(いくら広いとはいえ)飲まず食わずでやり過ごすには無理がある。しかし、そこは空蝉モカという協力者がいることと、そして、加澄子さんが絶対に立ち入らない部屋があるということでやり過ごすことが可能だと思いますが?」
「……それこそ詭弁。と言いたいところですが、確かに私は一つだけ絶対に立ち入らない部屋があります」
「ひとつ? まあいい。ええそうです、あなたが依頼の際に仰っていた。一臣氏の書斎だと考えられる」
かつて夫が自殺した書斎だけは彼女は立ち入ろうとはしない。それと、条件が揃えば入室しない部屋はもう一つある。
「繭子の寝室ですか……」
やや、呆れ果てた声音に震えが混ざる。こうして自身の行動範囲を考えるに、加澄子の中では普段意識しないだけで避けようとするものがこの邸宅には多いことに気が付いた、と再確認させられることに驚いているようでもあった。敢えて口にはしないが、加澄子および近衛たち使用人ですらあまり立ち入らない部屋はあるが、今は指摘しない。
勿体ぶった口調を崩さない恭个の雰囲気に隙が感じられない。敏感に察知しているのか、近衛の眼光は鋭いものだった。一挙手一投足を見逃さず、恭个の平常心が崩れる瞬間を見逃さない、といった強い意志めいた光を逆に恭个は見逃しはしなかった。
朗々たる語りの節々にアクセントをつけて歌うように彼女は続けた。
「臼君聖児が邸宅内に潜む、そこから展開される行動は以下の通り――」
まず、誘拐を困難にする繭子の不在証明を偽装することが可能だろう。
加澄子が夜、繭子の寝室に鍵を閉めに来るとき、彼女の性質をあらかじめ理解していれば、プレイヤーなどに録音された繭子の歌声を流して、まるでそこに繭子が居ることを偽装する。この時すでに繭子の所在は空蝉モカのトランクケースの中にあり、邸宅から市街へと送迎する狩野老人の車の中にあるはずだ。
繭子の部屋に潜んだ臼君聖児はどうやって脱出するか? 五体満足の臼君聖児であるならバルコニーから階下へ降り、一時的に邸宅を離れている狩野老人の監視の目をすり抜けることは造作もないか。あるいは、更に別の目的を果たすべくもうしばらく邸宅内に潜み続けるか。
翌朝、加澄子が確認したベッドの膨らみ(なぜこの時はっきりと確認を取らなかったのか!)を作り出しその後、邸宅内の混乱に乗じて今度こそ臼君聖児は姿を眩ませる。
「なんだ! 実に単純なトリックじゃないですか。こういうのは心理トリックとでも呼べばいいのでしょうか」
「モカさんと臼君聖児は共犯関係だった……だから、赫崎様の事務所にも乗り込んできた? いえ、しかし、それではまるで――」
近衛の反応は些か過剰とも思える節が、この際、呼び水となって恭个の口も軽さを増していく。
「明らかに超常的な力はあることを根拠にして行動しているようではないか?」
「本当に馬鹿馬鹿しい。いいですかあなた達。どうして私たちがそのようなまやかしにかかずらわる必要があるんですか? 私が知りたいのは真実。そう、繭子はいったいどこに消えてしまったというのですか。ねえ、恭个さん? 答えてくださいな」
「そうヒステリーにならずともあと少しで真実は見えてきますよ。まあ、その結果があなたを納得させるようなものかは私にも解らない」
恭个は嘆息交じりに加澄子に言い聞かす。果たして、あなたの言う〝誘拐〟って、何を根拠とし、あたかもその現実性に縋っている愚か者を演じるのか、を。
実のところ、この下らない推理に意味はない。結果は変わらないし、変えようもない。総ては始まったときに決しており、わざわざこの日のために開封される時を待っていたのではないか?
「探せばすぐそこに繭子さんも臼君聖児のような幽霊も居るかもしれませんよ」
どうして、邸宅からいなくなったと思い込んでいるのか? 真実はすぐ身近に存在するというのに。何ゆえ辿り着いた答えか。予感。在るべきところに在る、という主観。この超常現象を正当化するトリガーと見做す装置が在って然るべき。
「それは……だってあなたがそのように推理を展開するから……」
「だからそれを私は〝下らない〟と断ったんですよ」
間延びした空気のなかで唯一正常に呼吸をするのは恭个だけだったか。ほんの少し、鷹揚になって恭个は問うた。
「しかし、誘拐後。いいえ……。今だって、ほら。歌は聴こえているんでしょう?」
――加澄子さん? 振り返ったそこに慄然とする加澄子の姿が、ぐにゃり、と歪む。勿論、錯視に他ならない。渡会邸という不確かに歪んだ構造を有する建築の魔力、否、科学によって。
その更に後ろ。近衛静の白々しさ。歪に笑ったかのような口元にこの渡会邸の言い知れぬ深さを垣間見た気がした。
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