6-3


「私はあの人が嫌いです」

 露骨に、嫌悪感を隠そうともせずそう言う近衛の心境は解らなくもない。それまで全くの手付かずだったソーダを一気に飲み干す。一息つくと、すでにそこからは顰め面は消え失せていた。いつもの、凛々しさを感じさせる流線的な眉が目元に鋭い印象を与える。

 恭个には想像することしかできないから、その感情に応える言葉を持ってはいなかった。

 だから、「どうして?」などと軽はずみな受け答えは避ける。

 かつて、繭子は煙に唆されて(煙自身の快楽を貪るために利用されていた。あるいは、進んで自ら言葉の力を愉しんでいたかもしれない)このライブハウスのステージに立っていたことを思い出しているのだろう。あの、かつて〝サバト〟と揶揄した出来事を心底、嫌って。

 煙は繭子の通っていた音楽学校のOGだという。

「初めから面識があったんですね」

「ええ、だから正直ここに来るのには勇気がいりました。どうやら、あの人も私のことを覚えていたようですが……きれいさっぱり忘れられていたらどれほどよかったことか」

 それは過去から現在へと繋げる縁。この一件は近衛にも避けられない因縁のようなものか。慕っていたはずの主の豹変に恐れ慄いたあの日からの解放。そんなものを望んでいるのならその一助となれば幸い、と恭个は考える。甘い目論見であることは言うまでもなかったが。

「もちろん、一方的に嫌っているのは私の方ですから。他ならぬ繭子様の影響で本来なら在り得ないような酒池肉林を演出できただけ、それは解っているつもりです」

「では、やはり本質的には――」

 繭子に対する自分の在り方を見つめているのだろう。どのような主従関係だったかは、やはりこの場合も想像するしかない。神憑りという超常の力を宿した娘に相対する凡人が、抱く感情。ありふれたものを想起すれば、それは実に下らないものだ。では、美徳を良しとするなら……崇拝に近しい感触を得るかもしれない。とはいえ、権力に対してだとか、人格者に対する篤い想いからといった月並みな崇敬ではないのは確か。ゆえに、酷く歪んだ主従関係が築き上げられることは必至だろう。グロテスクで狂信的な発作のような。

 近衛が果たしてどれに属す人間かは計り知れないにしても、渡会家の特殊な条件下なのだから安易な想像では生易しい、恭个程度では理解の及ばない屈託を隠し持っていることは間違いないはずだ。

 でもなければ、近衛はとっくの昔に渡会家を辞していればよかったはずなのだから。

「この場の空気は、よく似てるんです」

「臼君聖児の狙いはそこにあるのかもしれない」

「どういうことですか?」

 追加で頼んだハイネケンを咽喉に流し込んでいく。ここはどうにも乾燥する、熱に浮かされたオーディエンス犇めく演奏場から飽和した熱気がこの場所を枯らすのだと思い込む。

「あの日の再現。その再演こそが、臼君聖児の狙いなのかもしれないってことです」

 なにせタイミングが良過ぎるのだ。奴が、あの絵画から見た世界を欲するのなら、サバトのような儀式を執り行うのは必然かもしれない。

「嗤わないでいただきたいのは、もうこの状況は明らかに異常なんです」

 恭个の支配から抜け出した意識は駆け巡る。

 見えない幽霊は繭子の神聖を何に利用する? 眠りにつく町の地獄の活性化。一つの神聖に呼応するかのように目的の神秘を顕現させる。流動的かつ不変な心象世界に下る。結局のところ恭个は後手を踏まざるを得ない。臼君聖児ですら把握し切れていない可能性すら臭うから。夢幻のようなものだ。抽象的で曖昧。でもそれが良い。神秘の、幽霊の存在などどうやって証明すればいい? 今はまだ主観的な発想で、心の奥底から湧き起こるインスピレーションに従っていればいい。そう。臼君聖児は立派な芸術家なのだから。絵も、文字も、音楽も、あらゆるインスピレーションに突き動かされて産まれ出るそれぞれの持つ魔性に委ねて、育てる。これはそういう地獄変なのだ。

 白日夢。僅かな、瞬きの刹那。ぐるりと巡った意識は恭个の下に還ってきた。

「ちょっと失礼」

 やにわに、近衛の耳を両の指先で愛撫する。

「あ――」

 突然の刺激に、近衛は艶っぽい声を漏らす。一層、少女のような甘い声だった。

 ぐにぐに、と摘まんだその耳は心地のいい弾力を指に伝えて、下手すると浮気行為に捉えられるのでは? と危惧するほど扇情的な眼差しで恭个は近衛の潤んだ瞳を覗き込んでいた。

「おまじないですよ」

 伊折に見咎められていないにも拘らず背筋には悪寒が奔る。少しの焦りと愛おしいと思ってしまった自分から近衛を遠ざけるように、そっと耳の輪郭をなぞって指を放す。

「その、あまり緊張するのも良くない。霊長類のグルーミングみたいなもので……」

 上擦った口調では説得力に欠ける。これで本当にいいのか? 魔女から拝した助言。やっていて恥ずかしいやらみっともないやら……。なぜか恭个の肩からはしょんぼりとした哀愁が漂う。これでどうしてなかなか伊折も人が悪い。まあ、人ではないけど。

「はあ……」

 近衛は熱っぽい息を吐く。なにをどうしてこんなことをするのかよく解らない、と挑むような視線を浴びせてくる。恭个は脈絡がなさ過ぎたかと自嘲した。

「まだ少し時間がある。何か飲みませんか?」

 惚けていた眼差しもどこか行き場を無くして、少しの間の後、近衛は答えた。

「では、ギムレットを」

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